青い空とサッカーボールと観覧車

 

 高校一年生になったばかりの四月の末は、何事も新しくて楽しくて、すべてに神経が大回転して疲労もなく、このままの調子で過ごせば五月病にはなりそうもない。
 城ヶ崎千里は、当番だった教室の掃除を終わって、部室に向かうところだった。
 一旦玄関から出て、屋外を部室棟へ向かって歩く。
 その道すがら、まっさらな胴着でランニングをしている柔道部員とすれ違い、何となくそれだけで嬉しくなる。千里はわざわざ振り返ってまで、その隊列を組んだ一団を見送った。――ああ、あのひとたちも、新しいことを始めてるんだ。
 そう思うだけで、同志を得たような、心強い気持ちになるのだ。
「…遠藤くん?」
 同じクラスの遠藤耕一郎だけが部室にいた。
 彼がどうしてデジタル研究会に来たのかは知らない。ただ、入学した直後あたりは、いくつかの運動部から引きの手が来ていたらしい。教室前の廊下に呼び出され、ジャージ姿の先輩に囲まれて、申し訳なさそうに謝っている彼を見たことがある。
 どうやら、そのすべてを断って彼はここにいるらしかった。確かに彼は文化系クラブに不似合いな身長の高さを持っている。
「何してるの?」
「ホームページの更新作業を任されてしまった」
彼は、格助詞の省略の少ない、きちんとした喋り方をする。初めはそれを堅苦しく思い、違和感もあったが、今はそれよりも彼が優しい声音をしていることを先に耳に感じられるようになっていた。
「先輩たちは?」
「進路指導で、今日は来ないって」
このデジタル研究会は、二年生部員のいない中間層空洞状態であった。三年生が全員休むとなれば、残りの部員は一年生のみになってしまう。――
「じゃあ、並樹くんとみくは?」
「並樹は帰った」と、彼は普通に告げたが、「今村は知らない」とは少し怒って言う。
 どうやら並樹瞬はちゃんと理由を言い置いて帰ったらしいが、今村みくの方はそのまま黙って帰ってしまったらしい。
「…どうしよう」と言ったからって、別に部活に出る他にすべきこともなかったのだが、遠藤耕一郎というひとはよくよく人がいいらしい。
「城ヶ崎も用があるなら帰っていいぞ。これくらい、ひとりでできるから」
また、きちんと答えてくれた。
「更新って、何をしてるの?」
「年間行事の予定と部活紹介の文章をコピーしてここに貼っているだけ」
耕一郎の肩越しに覗き込むと、秋に撮ったらしい紅葉が背景にある校舎の写真が見えた。「この季節感のなさは許せないわ。ソメイヨシノは散っても、まだ八重桜は咲いてるじゃない」
「?」耕一郎が振り返ったのへ、千里はにっこり笑って返す。
「文章はひとまず置いといて、画像変えちゃおうよ。ね?――遠藤くんは助手!」
「じょしゅ?」

「部の備品で、デジカメがあったのに…」
せっせと三脚にカメラを設置する千里に、耕一郎は溜め息した。
「やだ。あれってば古くて、性能イケてないやつだもん」
「そのカメラは誰の?」
「私の」
「ふうん…」耕一郎は尋ねたものの、特にそれ以上のコメントを出せずに視線を空に遣った。「あ、ボールだ」
「ボール?」
彼の言葉に同じように空を仰いで、千里は絶叫した。「早く言ってよー、やーん!!」
 グラウンド脇のこの場所に向かって、パトリオットミサイルの如くサッカーボールが飛んできていたのである。
 もう千里はカメラに身体を被せることしかできなかった。三脚に備えつけられたカメラは、実に堂々とその場に立ち尽くしている。
 彼女の頭に素早く走ったのは、カメラとそこにつけていたレンズの値段だった。高額のそれらの数字がカタカタと弾き出される。――パーになるくらいなら、コブなんて甘んじて受けるわ。
 ぎゅ、と目を閉じた。
 その時、すっ、と千里の肩に誰かの手が触れて、少し彼女の身体を前に押しやる。「危ない」
 警告の割に穏やかな口調だった。
 縮まる、千里と飛んできているボールとの距離に割って入ったのは耕一郎だった。彼女は紺色の学生服の背中を見る。
 一瞬の無音。彼の広い背を越して、空がぽっかりと青いと思った。
 そして、鈴のような、ていん、という切ない音がした。耕一郎が額で軽くボールを受けたのである。
 再び上空に弾んだボールは白と黒の残像になり、彼の足許に落下していく。彼は地面に落ちる前に、一度膝でタイミングを計り、それをインサイドボレーで優しく蹴り返した。
 嘘みたいに、ボールは素直に空へ戻って行った。
「…サッカーしてたでしょ?」
千里にはテレビで見かけるくらいにしか興味のない競技だが、今眼前で見せてくれた動きが凡人のものでないことくらいは分かる。
「うん」
「どうしてしないの?」無邪気な質問。
「――」
しかし、明瞭に相手の言葉に反応してくれる彼が、この質問には答えなかった。
 面食らった表情が苦しそうに俯いていく。
 そのとられ過ぎた間が重くて、千里が質問してしまった自分を恨み始めた頃、さっきボールが飛んできた方向から教師がひとり走ってきた。ジャージで、首からホイッスルを下げている。見たことのある、地理の先生だと気付いた。
 サッカー部の顧問してるのかな…?
 千里は立ち聞きするつもりもなくて、わざと視線を、更に向こう側に展開するサッカー部の練習のほうに向けたりしていたが、切れ切れに先生と耕一郎が話しているのが入ってきてしまう。
「――どうしてもだめか?」
「はい。もう…」そう言って、彼の声が伏せられる気配がした。たぶん律儀にまた謝って頭を下げたのだろう。
 「もう…」?――何だというのだろうか。千里はその先に続く言葉と、耕一郎のボール捌きの華麗さを比較して切なくなった。たぶん、続くのは「サッカーはしません」という言葉だ。
 未練がありそうな態度を引きずってサッカー部の顧問は遠ざかっていく。それにもまだ何度か、耕一郎はお辞儀を返していた。
 彼の礼はきびきびしていて爽快で、何度頭を下げても慇懃無礼になることがない。よく見ていると、何をするにも無駄な動きがないことに気付く。
「大丈夫だった?」
じー、っと観察してしまっていたところを、不意に声をかけられて驚いた。「あ、うん…ありがとう」
「カメラも?」と言った耕一郎は、先程の鬱屈したような顔が取れている。千里は安心して頷いた。
「写真好きなんだ?」
「うん。あのね…」
 ――言ったら、笑われるかも知れない。
 しかし、先程質問に答えてくれなかったことで、何となく彼の秘密を知ってしまったような感触が、彼女に、彼女の密かな想いを語らせた。
「写真も撮って、それに添える記事も自分で書いちゃうようなジャーナリストになりたいの。ものすごく抽象的で恥ずかしいんだけど」
「いや、そんなことはないよ」
そして彼は笑って言ったのだ。
「好きなことには、徹底的に食らいついていったほうがいい」
放課後の斜めからの日差しに八重桜が零れる。風に吹かれた低い枝が、長身の耕一郎の頭に触れた。
「本当に好きなものになら、そうできるはずだからな。頑張れよ」
出会ったばかりなのに、もう一生会わなくなるような言い方だった。
「…」胸が痛くなって、彼女はやはり肩の高さの違う彼を見上げることしかできなくなる。
 耕一郎は、恥ずかしそうに眉を寄せて笑った。「…部室に行こうか。写真は早くても明日になるだろう?」
「うん」
「持つ」と、耕一郎が横から三脚を取り上げる。
 実に軽々と、先ほど彼女が気付いた、やはり無駄のない動きで。
「わあ、やっさしーい」大袈裟に言ったけど、千里は本当にそう思っていた。
 中学のときは何かと敬遠されがちだった彼女は、こんな親切を男の子にしてもらったことがない。――城ヶ崎千里は、この年齢の女の子にしてはしっかりし過ぎた印象なのである。
 自分は、手を貸そうとあまり思ってもらえないタイプだ。中学のときからそれを悟っていた彼女は、
「遠藤くん、ありがとう」
ちょっと嬉しかった。

 その日、千里が帰宅すると、玄関先の来客が帰るところだった。お客さんといっても、新聞の集金だったらしい。
「ただいまー」
「お帰りなさい」と母親が言った。「千里、これいる?」と、トランプのように扇状にした何枚かの紙切れを娘に翳して見せる。
「なあに、それ?」
「今の新聞屋さんが、後楽園のタダ券、四枚もくれたのよ」でも千里はもう遊園地なんていう年じゃないよねえ、と笑った。
「年なんか関係ないよ、私に全部ちょうだい」
千里が受け取るのを見届けてから、玄関にローファーを脱ぐ彼女に、お母さんは中学のときの彼女の友人の名前を何人か挙げて、彼女たちを誘うの?、と尋ねた。どの子とも進学先は別々だった。
「ううん。新しい友達と行くの。部活一緒の子と」
 
 遠藤耕一郎が、怪我で競技サッカーを辞めたのだと、千里はその翌日に知ることになった。
 噂の収集能力に長けている――女の子は、みんなそうなのだけど、特に長けている――みくが、耕一郎を指さして言ったのだった。
「すっごい上手だったんだって」
噂は半分以下しか真実を含んでいないと冷静に考える千里だが、これはそれ以上の信憑性を彼女に感じさせた。“すっごい上手だった”、その片鱗を、昨日目撃したと思うからである。
 何でもみくが言うところによれば、進学も、この諸星学園高校が第一志望ではなかったらしい。
 たった十五年の人生なのに、ちょっとしたドラマがありそうだった。最もそれというのも、傍から見れば些細であるかも知れないし、年月が経てば笑えるようになる類のことかも知れない。
「遠藤くん、待って」
 ただ明らかなのは、人並みに賢く、健康で運動も普通にできる身体を持ち、顔にもこれと言った不満もないという、特に挫折のない今までを過ごしてきた千里の知らない領域のことを知っているのだ。――遠藤耕一郎という、この彼は。
「今日これから空いてる?」
急に呼びとめられてこう言われたのに顔が笑わないあたりが、遠藤耕一郎である。
「…今日は部活がないから、暇だけど…」と、心配そうに言う。
「うん。だから、みんなで遊園地に行こう」
「ゆうえんち?」
「みくと並樹くんも誘うんだから、大丈夫。行こう?」
 黄色い電車を降りたそこは、葉桜の後楽園遊園地。
 自動車道路とオフィスビルに囲まれたその一角だけは、甘やかな情緒に満ちている。それは幼い頃に来たときと大して変わらない感覚だった。
 観覧車から見下ろす東京ドームは、ふわふわした真っ白いケーキのような感じで、とても可愛らしく思えた。
 四人の間に、ちょっとした沈黙が訪れた。
 みくは、どうやら彼女の憧れらしい並樹瞬がいるから、いつもの印象よりはずっと大人しめ。自分と出会ってからずっと元気に接してくれていたけれど、こういう面もあるのだ。それに気付いただけでも千里は来て良かったと思えた。
 耕一郎が、いきなり
「あ、ごめん…」と隣で言った。たった今、ほんの少し肩がぶつかったから、そのことを言っているらしかった。
「遠藤くん、遠藤くん、写真撮ろうよお」
千里は何となくきまり悪そうな彼を引き立てるように、ポケットからAPSカメラを取り出した。
 は?、という顔をして千里を見る。「はい、笑って。――そんな、引きつらないでよ」顔を彼に近づけ、自分たちに向けたままカメラのシャッターを切る。
 フラッシュが眩しかった。
 これがふたりで撮った写真の初めてである。

「若い…」――これが、五年前の写真に対する耕一郎の感想であった。恥ずかしそうに口元が笑う。更に、
「俺はこういう顔をしていたのか」と、おかしな感慨を述べる。
 彼は、確かに少年らしい写真の中とは面構えが違っていた。そのときから今までに彼の身の上に起こった実に様々なことがそうしたのである。好む好まざるに関わらずに、彼に畳みかかってきた責任や危険や歓喜が、彼を男らしい顔にしたのだろうと思う。
 ただ話し方は今でも、格助詞の省略の少ないちゃんとしたものである。バリトンの声も優しいままだ。
 天気のいい、春休みのとある一日の午後。
 河川敷のサッカーコートを眺めながら、千里は耕一郎と並んで座っていた。小さな子供がボールにたかって纏わりつくように、わあわあ言いながら走る。この年代には戦術などないのだ。
 広い川幅を渡って鉄橋の上を走る電車は、クリーム色の車体の中央に臙脂色のライン。
 耕一郎は紺のバーバリーチェックのマフラーを首に結んでいた。
 今日は2月14日であった。
「ふあー…」千里は日向の暖かさに、思わず欠伸をする。
「夜更かしか?」
笑いながら手許の写真と、現在の彼女の顔を見比べた。
「ただの夜更かしじゃないんだよ、昨日は。肩凝っちゃったー…」
「パソコン?」
「ううん。みくの編み物手伝ってたの。みくんちに泊りがけで」
千里のこの返答にふうん、と言ったが、耕一郎の思考はそこまでで、今日ためにそんなことになったのだというところまでは到達していない。
 千里が時計を見ると、みくの学校がひけるあたりだった。これから彼女は瞬に会いに上野へ向かうだろう。
 足許に転がってきたボールを耕一郎が拾い上げ、投げてフィールドへ戻してやる。それは、公式試合球よりひとまわり小さな4号球だった。ありがとうございましたー、という子供の声がして、彼がにっこり手を挙げた。
「耕一郎」
 彼の広い背中に向かって、彼女は尋ねた。「ねえ、そんなに怪我ってひどかったの?」
「怪我?――何のだ?」おー、上手だなあ、と小学生のドリブルに感動する。
「耕一郎は、怪我でサッカー辞めたって聞いたことあるよ」
振り返った彼は呆れたような顔だ。「…誰だ、そんなこと言ったのは?」
「みく」
「み〜く〜…」額に手を遣る頭痛のポーズで、千里の隣に再び戻る。
 でも、それ以上耕一郎は何も言わなかった。
 ただ、耕一郎が何らかの怪我をしたらしいことは、だいぶ前から千里は知っている。彼の右足の裏におっかない、長くて大きい手術跡の縫い目があるからだ。
 しかし、それが彼をして競技を辞めさせた直接の理由であると言い切るのは早計だろう。
 ――結局は秘密、ってことにしたいみたいなのよね。
 千里は今回も、答えを引き出すのは諦めた。
 耕一郎の秘密。
 何でもはっきり答えてくれるひとにも、ひとつくらいミステリアスな部分があってもいい。
「アーモンドチョコ食べるひとー?」
「はーい」
耕一郎があっさりと手を出してきた。彼の手はきれい。指がまっすぐで、爪もつやつやしていて適度に大きい。
「耕一郎、今日は何の日か知ってる?」
「全国的に2月14日だろう」との真面目な答え。
 狙いがあってこう言っているのか、本当にそうだと思って言っているのか分からない。千里は苦笑して、
「今日は全国的にバレンタインデーなんだよ」
大きな耕一郎の掌の真ん中に、銀紙に包まれたアーモンドチョコを一粒載せた。
 義理だと言おうとしたけど、それは心が咎めて、やめる。
 ふたりの目の前で行われている試合では、どうやら得点が入ったらしい。甲高い歓声が束になって上がった。

Fin.

 

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