bonds of friendship on the other day

 

3.

 大学とは、世の中に存在を許されていないものが、何故か存在していたりする。まるでそれは治外法権の異文化領域である。
「趣味が悪い」
と、瞬が断固として切り捨てたのは、裕作が四人を連れてきた研究室のドア脇に掲げられた看板だった。
 無意味にやたら質のいい正目の板でできている大きな看板で、勘亭流の文字が力強く
 長谷川部屋
と、浮き彫りされている。しかもそれが丁寧に、小さなスポットライトでライトアップされていた。
 ハイセンスな並樹少年は、
「相撲部屋じゃないんだから」と小さな声で突っ込んだ後、「この大学が許しても、俺が存在を許さないね、これは」と断言した。
「一応、“歴史ある”看板なんだぞ」
裕作は苦笑してドアを開け、すぐにその表情は、この空間に対する懐かしさ――その変化のなさを慕うものとなる。目を細めた。
 グレーのスチールでできた事務用の本棚。そこにぎっしり詰められた統計資料の二つ穴紙ファイル。すべてが煤けて古い。
 素人には用途のよく分からない計器の類の、ピカピカに光っているのが何種類もある思えば、時代遅れの巨大なパソコンと、それに似合いの年代物でやたら奥行きのあるモニタが現役を張っていたりする。カタカタ、何か計算処理をしているその画面と、色のはげたドラえもんの縫いぐるみが並んでいた。
 棚に仕切られて見えない向こうから、
「おおー。可愛らしい女子高生がふたりも、こんな物騒なところに何の用かなー?」
という声がして、もっそりとその物陰から何者かがこちらに這い出る気配がした。
 千里とみくは、その声の主が姿を現したのを見て裕作の広い背の陰に心持ち隠れる。
「とって食ったりしないから大丈夫だよー」
不精ヒゲをたくわえた男で、意図していない長髪(つまり、しばらく散髪していないだけ)、伸びたトレーナーに丈の長い白衣を着ている。その裾から薄汚れた綿のズボンが見えた。
 足許は、よく公共施設の手洗いにあるような茶色のゴムでできたサンダルだった。――それを見て、また瞬が額に手を遣った。たぶん、彼の美意識の許容範囲を越えたのだろう。健太はとりあえず挨拶などしてみる。
「こんにちはー!」全く物怖じしないのがいい。
「はい、こんにちは。…あ」そこで彼は初めて、裕作を見上げた。「早川じゃん」
「…『早川じゃん』って、お前、随分な挨拶だね。彼女たちより俺のほうが立ち位置お前に近いだろうが!」

「しかし、裕作だなんて久しぶりに呼ばれたなー」
何だよ、俺には自分から「裕作って名前なんだ」って言ったじゃないか。
 ――そこまで思って、耕一郎ははっとした。
 裕作さんが俺にそう言ったのは、もしかして今俺が「裕作さん」なんて呼んだからか?
「…は、“早川さん”?」
恐る恐る言い直すと、裕作は実に愉快そうに笑った。
「いいよいいよ、そのまま、“裕作”で」
裕作が自転車を押して行く先は、一昔前のフォークソングが聞こえてきそうなアパート。――というより下宿だった。
 集合玄関のドアは開け放たれたまま。様々な靴が散乱し、そのいくつかが外の平石にだらしなくこぼれている。
 裕作は自転車に鍵をかけた。さきほどの免許証や学生証よりもやはり、連れて来られたこの場所や、自転車を停める作業中の裕作を見たほうが、自分が本来存在するべき座標に存在していないことを、耕一郎にはっきり認識させる。
 湿って苔の生えた縁の下から虎縞の猫が這い出してきた。その、無言で圧倒してくる風景に黙ってしまっているところへ、裕作が振り返る。
「ごめん、汚いけどあがって」
この状況はいつものことらしく、裕作は他人の靴を平気で踏み、自分のスニーカーを脱ぐ。そして、その入り口の脇から上の階へ続く階段を上っていった。
 汚いけど、と言われ、耕一郎は最悪の状況を覚悟しながら、裕作の背を追って、その幅の狭い急な階段を上る。
 しかし、裕作の部屋は、彼の予想に反する光景だった。
 見渡して確認しなければ物の存在を認められないほど、何もない部屋。畳の上に座卓があり、その脇に英語の文献が、窓からの日差しを遮るほど高く積んである。――その中には「遺伝子改造理論」というタイトルのハードカバーが横たわっていたが、耕一郎は幸いにもその本には気付かなかった。彼の気をひいたのは、何故かそこに高校生の代数幾何の問題集が混じっていることだった。
 裕作は畳に胡座をかいて座り、耕一郎が正座したのを見て切り出した。
「君がこちらに来てしまったことに、実は心当たりがあるんだ」

 裕作は時計を見上げた。
 忘れていたはずの――いや、その“理由”を忘れるほど、“目的の成就”のほうに没頭していた――過去が刻一刻と近づいている。
「久保田先生は、お元気か?」
研究室の箒を各々持って部屋を先に出てしまった高校生四人は、もうだいぶ先を歩いていた。健太のお気楽な笑い声が更に遠ざかろうとしている。
「ああ。この非常事態に際してもトランペットの練習は欠かさないし、マイペースで相変わらずさ」
「更にマイペースなお前が何言ってるんだ、いろいろと噂はここまで聞こえてきてるぞ」
「悪い噂ばっかりなんだろう、どうせ」
あはは、と声を上げてふたりは笑った。――そうだ、自分もかつてはここにいた。ただひたすらに、何の目的になるかも分からずに学問に没頭した時期があったのだ。
 懐かしい。
 いや、本当にこれが懐かしい、という感覚なのだろうか。だとすると、裕作が思い描いていたよりも現実のそれはかなり苦いものだったらしい。しんしんと古傷は痛み出す。
「お前と彼女たちはどういう知り合いなんだ?、誘拐してきたのか?」
明らかに高校生と自分は、やはり一緒にいるには不自然な組み合わせなのだ。今更ながら第三者が自分たちを見たときの印象を思い知らされる。
「えーと、それは何を根拠に?」裕作が笑った。「久保田先生の研究の協力者だよ」
「そっか」
ヘンな冗談を言い出したのは相手のくせに、裕作が笑ったほどには笑わなかった。こういう、相手が遠慮がちに雰囲気を合わせてくる様子を久しぶりに見たと思った。ここにいた頃、自分の周囲にいた人間はみんなそうだったことも思い出す。
 ある、ふたりの大人を除いて。
「あれから何年になる?」
「…6年だよ」
「…」
 四人は外に向かって更に進んでいったらしく、裕作が友人に暇を告げて研究室のドアを後ろで手に閉めたとき、彼らの姿は既に見えなくなっていた。
 裕作は、今閉めたドアの脇にある勘亭流の看板に手をかけた。そして少し下を持ち上げると、看板の裏側を覗いた。
 表側より長い時間日光に晒されていたのか、その裏側のほうが黒光りしている。そして、表面と同様に立派な書体が、深く堂々と彫り込んである。

 ――久保田部屋――。

To be continued.

 

home index