花火

 

「8月10日〜16日まで全職員夏季休業のため全校閉鎖。明鳳大学」

 千里は愕然として図書館のガラス戸に手をつき、がくりと首を垂れた。
「耕一郎…あんた、もしかして、ばか?」
 ――しかし、特に約束をしている訳ではない。
 ただ、母親の実家のある名古屋へ一週間ほど出掛けていたのから昨日戻って、早速彼に連絡をしたところ、
「明日は図書館にいるかも知れない」
と、実に流動的な手掛かりを得たに過ぎない状況である。
 図書館の中に入ると律儀に電源を切る耕一郎を、その前に捕まえようと待ち伏せただけなのだが、この不運を彼のせいにして呟かずにいられないほど暑かった。じりじり肌を焼く直射日光を避けて、千里はとりあえず図書館横の立木の陰に隠れた。その桜の樹は、太陽の強さを反映して実に濃い影を地面へと落としている。
 どこかに一匹、蝉が留まっているらしい。その独唱に目を転じると、枝葉から零れる夏の日差しが乱反射する。被っていた鍔の小さな帽子を目深にした。
 来ないかも知れないなあ。
 こんなことになるなら、はっきり昨日のうちに今日の約束を取りつけておけば良かったのだ。今更そう彼女が自覚するまでもなく、耕一郎は千里の言うことなら、彼の正義において間違っていない限り承諾してくれるに決まっていた。
 ただ、そうしなかったのは、千里が東京にいない間に一度も彼が連絡を寄越さなかったことが妙に引っかかっていたからだ。
 そんな小さな理由は、気持ちの矮性を彼女に思い知らせるけれど、咽喉につかえる小骨のように疼くが落ちはしない。
 溜め息をつくと、蝉の鳴き声が数を増して彼女の耳を塞ぐ。何もそれ以外に聞こえない状態で、ふと親友の笑顔を思い出した。
 みく、何してるかなあ…。
 何の衒いもない笑い顔のみくが、瞬の腕に飛びついていくシーンを容易に想像することができる。――たぶん、彼女ならばどこへ行っても好きな相手には自分から連絡を入れ、会えるところにいれば迷うことなく会うことをねだるだろうと思う。
 ただ、そこまで要求できる彼女が、どこか掴みどころのない瞬に不安がっているのも知っている。
 対照的に自分は、耕一郎から絶対的な権利を与えられているのに、それを全く有効利用できないでいる。
 それは両方とも、ひどく皮肉で滑稽な話だった。
「ばかは私かあ…?」
茶色い革のショルダーバッグを探って、携帯電話を取り出そうと思ったのだが、
「…あれ?」
不幸は重なるもので、中身を引っ掻き回す千里の手に電話が触ることはなかった。
 あーあ。
 再び彼女の溜め息に重なる蝉の声。
 バッグに手を突っ込んだまま宙へ視線を泳がせれば、ぐわんぐわんと繰り返した末にただの長音と化した声は全身こびり付いてきて、彼女を孤立させる。
 …。
 千里は、あの日もこの声が幾重にも聞こえていたことを思い出した。――
 
 3年A組担任の大岩は、授業のないときは大抵地学準備室にいた。
 地学教室に続いている、言うなれば“教師の城”のようなところ。
 3Aの生徒なら、彼の私物でいっぱいになっているその狭い空間に、一度は必ず入ったことがあるはずだ。
 作業台と机いっぱいに広げられた鉱物標本。きらきらした、見るからに価値のありそうな珍しい石と、ただの川原の石とが分け隔てなく所狭しと混在している。壁には、土を掘るためのスコップが立てかけてあり、その傍に置かれたバケツの中を見るといつも、たっぷり何処かの砂にシャベルが刺さって入っていた。廊下に繋がるドア脇の黒板の下にあるフックには、黄色いプラスチックのキーホルダーをつけたマスターキーがかけてあるはずだが、この部屋の三箇所の出入り口は決して施錠されることがなかった。――屋外グラウンドに繋がるドアでさえも。
「先生」
地学教室に繋がるドアからこちらを、城ヶ崎千里が覗き込んでいる。
 最近、出席番号の順で始められた進路相談も、大岩はこの準備室にひとりずつ生徒を呼び出していた。今日の午後の順番は彼女で終わりだった。
「おう。入れ」
 受験生である生徒たちに夏休みの学習について指導し、最終的な進学の意志確認のこの機会も、もう男子生徒をすべて済ませ、女子の半分まで進んでいる。
 グラウンドに面した窓の大きいこの教室には、少しばかり西に傾き始めた直射日光がさし込んでいた。
 外は暑さの真っ盛り。それでも日較差の底に近づいた外気に、蝉の声が一斉に轟き始める。
 この日の蝉が。――
「…千里」
千里は目の前の大岩先生を直視できずに、膝の上で手を握った。「はい」
「お前さ――」
かさっという紙を繰る乾いた音だけが、大して広くないこの場に響く。
 先生の机に置かれた、業者テストの成績表を閉じたファイルがやたら分厚く、そのくせ妙に冷たく感じられた。
 コンピューターがはじき出した無機質な数字たち。あくまでも確率論だけがそこにある。
「第一志望は、明鳳の文学部文学科な――」
「はい」と返事をしてから、さっきからこのごく短い言葉で相槌を入れることしかしていない自分に気付いた。自分の学力を他人に見極められることに緊張しているらしい。
 しかし大岩はあっさりと、
「受かるだろ。何か“大変なことでもない限り”な」と言った。そして千里が目線を上げたのへ、にやっと笑ってみせる。
 先生がそう言ってくれた途端に、ふっ、と吐息してしまいそうになって、千里は意識的にそれを飲み込んだ。まだ受かってもいないのに顔が笑いそうになる。
「明鳳なあ。耕一郎も第一志望にしてたぞ、確か。学部は法学部だけど」
大岩がペラペラと手許の“成績台帳”をごく初めのほうに戻して確かめているのに目を何気なく遣ると、
 遠藤耕一郎、三教科総合ss70.3
 という字が飛び込んできた。――彼の偏差値である。内申書のない一般の大学受験制度の中で、受験生が唯一頼りにするものであり、同時にそれは物指しでもある。
 ずきーん、と一撃心臓を撃ち抜かれた後、千里の意識は何故か落ち込む。
「…先生、そういうこと他の生徒に言ってもいいんですか?」
抗議の言葉を搾り出すのがやっとだった。
「知りたくなかったか、すまん」
謝るとこ違うんじゃない?、と思ったが、千里が何も言わないでいると、大岩は、彼女以外のデジ研全員の志望進学先をあっけらかんと喋り始めたのだった。
「…」
その担任教師の言動に呆れた訳ではなくて、彼女自身も気付かないでいた僅かな好奇心が、彼女をして結局すべてを黙って聞かせた。
 進学希望が重なるのは、自分と耕一郎だけだった。それにしたところで学部が違うし、あとの3人とは大学から全く異なっている。
「ばらっばらになっちまうなあ、お前ら」
千里はその言葉に声が出ず、ただ頷いた。来年3月の別離は当たり前のことだと思いながら、それでも軽く感傷的になる。分岐点に差しかかろうとしているのは明らかだった。
「ま、お前はそのままの調子で頑張ってくれ」
 先生が台帳をばたんと閉じたのを潮に、千里は礼を言って椅子から立ち上がった。「先生、ありがとうございました」
 ノブに手をかけようとすると、思い出したように大岩は彼女を呼び止める。「そう言えば瞬のやつが、さっきここに顔出したぞ。部室にいるかも知れないな。マスターキー持ってったから」
 ――確かに、いつものフックに鍵が納まっていない。
「瞬に会ったら、鍵、間違いなく戻してくれるように言ってくれるか?」
「はい」
額面通り“会ったら”という条件つきの指図ではなく、これは命令に近い依頼なのだと感じ取り、千里はそれを承諾して、地学準備室を出た。
 
 図書館から構内を横切り、千里は初めて大学にある公衆電話を使おうとしていた。
 電話ボックスのドアというものを数年振りに開けると、普段何気なく使っている携帯電話のありがたみがしみてくる。――これから彼女は、携帯電話に頼って番号11桁を暗記していないため、バッグから手帳を出さなければならないし、すっかりテレホンカードなどというものを携行しなくなっているので、現金を投入しなければならない。
 面倒だー…。
 直射日光にいいだけ照らされているガラスの箱は熱気が溢れ返り、足を踏み入れただけで汗が出る。風を少しでも入れるため、寄りかかってドアを開けたまま千里は耕一郎の携帯に電話をし始めた。
 受話器を肩と顎とで挟んだ窮屈な姿勢で、手帳を確認しながら番号をプッシュした。
 携帯に繋がるまでの沈黙が重い。苦しくなってしまい彼女は目を閉じた。
 こんな惨めな思いをするくらいなら、昨日のうちに権利を行使するべきだったのだ。後悔が胸を塞ぐ。――せめて一刻も早く彼が応答してくれるよう祈る。
 やがて千里が耳を寄せる受話器の中から呼び出し音がして、同時に、思いの他近いところから、ふわりと和音のメロディが流れてきた。
 エリック・クラプトン。
「?」
 彼女は反射的に、音の方向を鋭く振り返る。そして
「耕一郎…」
目に映ったものの名前を呼んだ。
 白い比翼仕立てのシャツとビルケンシュトックのサンダルが、迷わず真っ直ぐに近寄ってきて、
「よう」
千里が思わず身を浮かせて閉じかかったガラス戸を、大きな手がしっかりと押さえる。
 ずっとその間も、音楽は彼の背負っている鞄から二人の間に流入していた。それに気付いて彼が少し笑った。「受話器を置け」
「あ…はい…」彼女が事態を把握できないままぼんやり受話器を置くと、ぴたりとその音も止む。
「ねえ、どうして?」
 耕一郎は答えなかった。かと言って、ここに彼女がいるのを訝しむのでもなく、そのことを驚く訳でもなく、ただ眩しそうに目を細める。
「久し振り」
と言ったきり、更に恥ずかしそうに視線を伏せたので、それに感染したように千里も妙に照れた。
「うん…久し振りだね」
 
 千里の手が、ガラスを押さえる耕一郎の手のすぐ近くに置かれた。彼女の手首にまつわる太い銀のチェーンブレスレットが、その華奢なことを強調する。
 視覚的に彼女のか弱さを感じて、息が詰まるようだった。そして、
「千里、あの…」―― 耕一郎は、自分の不用意な発言が彼女に影響を及ぼしたらしいことに驚いていた。
 確証はないながら、とにかく謝る。
「悪かった」
「ううん…」
見上げてくる頼りない笑顔に、自分の思いやりのなさを知らされた気がして、彼は自らを軽く嫌悪した。
「携帯はどうした?、かけても出なかったが」
「うん、家に忘れちゃったみたい。それでここからかけてたの」
言いながら、無理に笑いを強く押し出すようにするから尚更、耕一郎は心が咎める。「そうか…」
 しかしそれよりも、彼は明らかに安心していた。
 春先からこちら、彼女が携帯に応答しないことに対して神経過敏になっていて、そんな精神の湿っぽさに失望しつつ、耕一郎は今日も家で暫く鬱々としていたのである。それは悋気ではなく、単に彼の自信のなさがさせることだった。
 彼女がガラスの箱から降りたのを確認して手を除ける。他愛なく扉が閉じ、ふたりはがらんとした大学の敷地から出るべく歩き出した。
「名古屋は楽しかったか?」
「うん」千里は意図的に次の質問に繋げた。「耕一郎はこの一週間何してたの?」
 自分に一度も声すら聴かせなかった彼の一週間のこと。―― 果たして彼が口にしたのは、
「山中湖の大学の研修所で、司法試験対策の補講を受けていた」
という淀みない返答だが、初耳だった。
「そんなこと言ってなかったじゃない」
抗議をしてみるが、それにも滞りのない返事を寄越した。
「ああ。お前も同じ時期に東京を空けるので、知らせなかったんだ」
びっくりする。この張り合いのなさに呆れて動けなくなった。
 どうしてこのひとはこんななんだろう。
 耕一郎は、ヘンなところで割り切りがいいというか、決めつけるところがある。
 情と義理にもろくて優しいくせに、どうしても彼を突き動かす感情の範疇に入らない部分というのが、自分との関係においてはあるらしい。
 ―― 千里は歩道橋に上がる階段の下から立ち止まったまま動かない。
 耕一郎はそのまま暫く階段を上ったが、いよいよ彼女がついて来ないつもりなのを見て取ると、踊り場で下方を振り返った。
 また自分は“不用意な発言”をしたようだ。
 これと思い当たることはないが、無粋な自分のことである、何か彼女の気に障ることをしたに違いない。
「おーい、ちさとー?」
大袈裟に呼んでやっても、彼女は新たに腕を組んだだけ。足はやはり動かない。
 耕一郎は、手を目許に持っていくと階段を下り始めた。その急激な疲労を覚えたような仕種と、
「悪かった」
溜め息のまじった彼の声に、今の自分はとてつもなく幼稚なことをしている違いないと千里は自覚する。
「…」
小さな苛立ちでふいにするのが勿体ないほど、まずここで耕一郎と会えたこと自体が貴重なめぐり合わせなのだということを思い出して、冷静になろうとする。
 そうして呼吸を整えようと努力しないと、空気すらとり入れられないほどつらかった。
「千里」疑問形ではないが、様子を窺うような尻上がりの声。
俯いた視界のアスファルトに、耕一郎の足許からの影が割り込んできた。
 ずきんとする。
 耕一郎は今、その影を踏めるほど近くにいる。
 確かに会いたかったくせに、会えたならどうして、今度はその他の瑣末なことを気にするようになるのだろうか。――つくづく、損な性格。
 吐息してやっと吐き出した心の底に巣食う偽悪の代わりに、精一杯の勇気を吸い込む。
「ごめんね、耕一郎」
 それを言葉にした途端、帽子の上からぽん、と掌が載せられる感じがきて優しく――彼は勿論、ただ優しくて、それを意図した訳では絶対にないだろうが―― 千里へ更なる反省を促す声が聞こえた。
「お前が悪いことはない。行こう?」
 ふたりで渡る大学前の歩道橋は、今日も周囲のすべてを遮断して静かである。
 
 部室に近づくと誰かが話している声が聞こえた。しかし瞬ではないようである。
 ?
 思わず千里は歩調を緩めて、足音を立てないように部室入り口の引き戸に身を寄せる。覗き込んで見えたのは――耕一郎が、パソコンのモニターを通して久保田に定時の連絡を入れているところだった。
「ところで、私が心配することではないかも知れないが、君ら受験の準備はどうなっている?」
「みんな、ちゃんと勉強しています」耕一郎の背中は動揺することもなく、その声は少し笑って答えさえする。
 しかし、一度言った後で「…していると思います」と重ねたのは、健太のいい加減さとみくの危機感のなさを思い出したからかも知れない。
 その言葉の意図を汲み取ったのだろうか、久保田の声が笑った後で一段と優しくなる。
「そうか。毎日のように貴重な時間を割かせて申し訳ない。だが、受験勉強はあまり根を詰めないようにな」
その柔らかく労わる声に、立ち聞きの千里は胸が俄かに痛くなった。久保田が、自分たちを巻き込んだと思い込んでいるらしいことがつらかった。――この夏休みが明けた後で、その久保田の後悔を取り返しのつかないほど決定的にする出来事が起こるのだが、それはまだこの時点では誰にも予想できないことである。
「はい、ありがとうございます」
回線が切れたのを見計らって千里が戸を横に引くと、キャスターつきの椅子に座ったまま足だけで移動をしているところの耕一郎がこちらを向いた。「どうした?」
「今日、進路相談だったんだあ」答えた途端にすっ、と先ほどの数字が千里の頭を過る。耕一郎の受験対応能力が計られた結果を表す、その数字。――「…今日の連絡って、耕一郎だったっけ?」
「いや、瞬だった」
千里が部室の中を見渡すと、確かに折りたたみ椅子に瞬の荷物が無造作に置いてある。大岩の言う通り、登校しているにはしているらしい。
「その瞬はどうしたのよ」
机を挟んで耕一郎と向かい合って座った。
 彼はペラペラと世界史の教科書を繰り始め、視線をそこに落としたまま答える。
「今、美術室に行っている。実技試験対策にデッサンを先生に見てもらうと言って――」
 ふうん…。
 瞬も努力してるんだなと単純に思った。
 瞬のことだから、そんな姿は見られたくなくて、美術教師への添削依頼を今日に選んだのだろう。自分が定時連絡の当番であるから、部室に誰もいないと踏んだに違いない。
 しかし、その予想に反して耕一郎がいた訳である。耕一郎に出くわした途端、そんなことは気にも止めないふりで大いに動揺しただろう瞬を、千里は心の中で笑った。
 笑いながらも、そんな強がりをする彼と自分はよく似ていると思う。素直な態度が楽にとれず、簡単に済むはずのことを難しくしてしまう性格である。
「耕一郎はどうして来たの?」
「家にいたところで、うるさくて勉強もできないからな」夏休みに入った弟と妹が家にのさばっているらしい。
 やがて、部室の窓から瞬が戻ってくるのが見えた。――彼の手には、グラファイトの鉛筆の束と練り消し、クロッキーブック。
 その廊下の窓からこちらを見た瞬は、やはり悪事がばれたように面食らった顔をしたが、
「お疲れ様」
声をかけた千里に
「何かあったのか?」と尋ねた。
「何かあったなら、もう鳴ってるはずでしょう?」
茶化すように千里が言ったとき、絶妙のタイミングで、何度聞いても耳に馴染むことのない音が軽やかに非常を告げる。
 一瞬にして強張ってしまう空気。しかし、
「瞬〜」――みくだった。どうやら瞬だけにアクセスしているらしく、三人同時に応答するが、千里と耕一郎の左手首は沈黙している。
「約束の時間に遅れちゃいそう…。まだ髪結えてないの。いなくても待っててくれる?」
実に女の子らしい甘えを含んだ声。
「――ああ」その質問に答えながら、瞬はゆっくり机から立ち上がる耕一郎を見遣って、一歩後ずさった。
 りーん…。涼しく澄んだ江戸風鈴の音。
「…みく…」
怒りに打ち震える耕一郎に、千里と瞬は目配せしてから黙って耳を塞いだ。案の定、次の瞬間には大音声が部室いっぱいに響き渡ったのだった。
「秘密回線を携帯の代わりにするなーっっ!!」
 
 軒先の釣りしのぶが風に振れ、南部鉄の風鈴が鳴っている。
 りーん…。――部室の風鈴はガラスのだったっけ。今日の千里は、何を見ても感傷的に3年前のとある一日の記憶に繋げてしまうのだった。
 移動した先の甘味処は、先ほどまでふたりがいた大学の校舎からならば電車に乗るが、諸星学園高校からはほど近い。
 すだれが、見た目に涼しいストライプの影をつくっている。その下の縁台に腰掛けると、中から絽の着物をしゃんと着付けたおばあさんが出てきた。「いらっしゃいませ」鎌倉彫りの丸盆から、熱い緑茶の茶碗をくれる。
 それを受け取りざま耕一郎が軽く会釈したのを見て、彼女は、彼らがこの近所の学校にかつて通っていた子たちだったのを思い出したらしい。面に微笑を柔らかく深める。
 千里は耕一郎に断りもせず宇治金時をふたつ注文した。
「ここに来るの久し振りだね。前は何かっていうと来たのに」と言ってから、千里が笑う。「――氷よりもクリームあんみつが良かった?」
 耕一郎はお茶を飲んでから、もうそのことは思い出したくないと言う代わりに溜め息した。「いや、どちらでも構わない」
 答えた後、彼が縁台の緋毛氈に茶碗を置き、会話が途切れる。彼がそう言うのだから本当にそうなのだろう。ものすごくつまらないことを訊いたと千里は後悔した。
 ふたりの間の空気が淀み始め、気候のせいではなく暑苦しくなる。
「お待ちどおさま」
運ばれてきた氷の山に救われた感じだった。ほっとして、必要以上に大きな声で
「いただきまーす」
と言ってやる。
「はい、召し上がれ」別に彼がつくった訳ではないのにそう言って、耕一郎も器を手つと、スプーンでさらさらの氷を掬い始めた。
 目線を少し上げると、空はどこまでも青く、飛行機雲が一筋、天空を走り突き抜けているところが見えた。
「今日は本当に天気がいいんだなあ…」
「良過ぎるよー。かき氷が美味しく食べられるのはいいけど」千里も飛行機雲に気付いて、空へ目を細める。
 実に飾り気なく、とりとめのない感じ。
 そんな雰囲気は、彼女には退屈過ぎるのかも知れないが、昨日まで研修所に缶詰になって、法律のいかめしい文言に頭をフル回転させていた耕一郎にはこれくらいが丁度良かった。
「これからどうするの…?」
「どうする、って?」
今日のこれからのことを訊かれているのかと思ったが、そうではないらしい。千里は更に瞳の揺らぎを強めて
「司法試験まで、あと一年切ったでしょう?」と訊いた。
「ああ、そうだ」
とは言ったものの、千里が求めている返答の見当がつかず、そう同意するに止まった。
「大丈夫なの?、こんなふうに遊んでても」
「大丈夫だ」
 しかし、――自分がこんな考えだと知れば、彼女は失望するかも知れないが――司法試験という難関は、あと一年足らず勉強をこのまま継続したとしても越えられない可能性の大きいことも分かっている。勿論努力は惜しまないが、悪いほうの覚悟もできているつもりだ。
「今回落ちたとしても、絶対お前のせいじゃない」
しゃりしゃりと、スプーンで氷を抹茶に浸していた手を止めて、耕一郎は千里の目を見据える。
 風がぬるくゆっくりと吹いた。
 蝉の声が嵐のように激しくふたりを幾重にも取り巻き始める。
「…」
尋ねておいて言葉が出ない。
 空気を震わせる声は未だ止まず。
 やがて耕一郎はにっこり笑って見せた。そうすることで、どちらの結果になっても自分の責任であるのだと念を押しているような気がした。
 どうしてこのひとはこんななんだろう。
 千里はがつがつと氷を口に入れることしかできなかった。
「どうした?、泣きそうな顔して…」
すぐに眉間を押さえ始める彼女を、耕一郎は覗き込む。
「氷、急にたくさん食べ過ぎちゃった。ここらへんがつーんとしちゃって」
 ――本当は、つーんとしたのは氷のせいではなくて、耕一郎の言葉の潔さに、だったのだが。
 そして千里の辿る記憶はどうしても、3年前の夏休みのこと。
 そういえばあの日も耕一郎は、そんな潔さを見せてくれた。――

「じゃあ、俺帰る」
それからしばらくもしないうちに、瞬は部室から出て行こうとした。
 その際彼は、更にこの部屋に残るのだろう耕一郎と千里へ、マスターキーを置いていった。「悪いけど、ここを閉めた後、大岩先生に返しておいてくれないか?」
「うん」
初めからそれが目的だったので、承諾して彼を見送った。「みくによろしくね」
 その言葉に、何を言っているのか分からないというような、目を見開く表情をしてから、瞬は廊下のガラス越しに手を振ると足早に遠ざかる。
 見事に交わされた感じで、千里は頬を膨らませて椅子に戻った。
 瞬の気配が完全に消えた後で、耕一郎が教科書を閉じる。「…みくのやつはちゃんと勉強してるのか?」
「さあ、知らない」
「『さあ、知らない』だと〜?」四六時中みくと一緒にいるのに、そんなことも分からないのか、と、彼は呆れて事務用チェアにひっくり返った。
 千里は吐息した。
 分かってないなあ。
 確かに一緒にいるが、それは全く勉強とは関係のないところでのことである。
 健全な精神構造を持つ耕一郎などの考えが全く及ばないほどの深みが、良い意味でも悪い意味でも女の子の友情には含まれている。
 彼女はそれを説明するのが面倒で、耕一郎を呆れさせたままにしておくことにした。「うん。知らない」
 友人として信頼しているし、また信頼されているのも分かっているつもりだが、みくという子は、自分との付き合いにただ明るいものだけを見出している訳ではないことも知っていた。
 意識しているのではない、ただひたすら感覚的に、千里を畏怖する部分があるようなのだ。――それは千里も然りで、自分にないものを彼女が持っていることに羨望を通り越した嫉妬すら感じることがある。先の甘えた声が、また聞こえてくるようだ。
 確実に、彼女との関係はそのような種類のものも包含している上で成り立っているのだ。
 …そんなこと、誰にも言えるはずない。――特に耕一郎になんて。
 言えば怒るか、激しく悲しみそうである。「お前はみくのことをそんなふうに思っていたのかあ!」などと怒鳴り込んでくる様子をたやすく思い浮かべることができる。その鬱陶しさを想像しただけで千里は疲れた。
「いや、な…久保田博士が心配していたんだ」
床を蹴ると、椅子に座ったまま耕一郎は一回転した。「俺たちの受験のこと」
 千里はその遣り取りを聞いていたが、敢えて知らないふりをする。「ふーん。そうなんだあ…」
その適当な彼女の相槌は気にしない様子だった。彼は天井を見上げたまま、更に一回転した。「どうなっても、久保田博士のせいじゃないのに」
「どうして?」
 何気ない彼の言葉を聞き咎める。
 現に自分たちが、久保田がさきほど言ったように、時間を学業以外に費やしているのは明らかなことだ。
 風鈴が鳴って、あたりの静寂が余計際立つ形となる。
 それを破って
「理由は特に考えたことはないが…」
と続け、耕一郎はテーブル越しに千里をしっかり見つめた。
「とりあえず俺はどうなっても博士のせいにしないだろうから。――俺だけじゃなくて、たぶんみんなも、お前も」
 そう言ってから照れたのだろうか、座ったまま、ゆっくりと千里に背を向ける。
「やめてしまう機会はいくらでもあったはずだ。本当にやめると言い出せば慰留されるだろうが、最終的な決断は自分ですることだ」
「…」
 五人が五人それぞれ容易ではない私考と試行を重ね、自分の気持ちに正直になってここにいる。そのことは確かに、誰からも気の毒がられる必要のないことに違いない。
 耕一郎は見上げたままの自分の視界へ左腕を持ってきた。
「つまり、この“今”を選択した責任を誰がとるのかという問題じゃないだろう、という話だ」
 彼の言う通りだった。
 既に、久保田は契機でしかない。
 頭上で肘を曲げると、左手首にある、彼自身が選び取った現在の状況を確認する。

 健太、瞬、耕一郎の三人はそれぞれ思い切りのよい清潔な考え方ができる人間だと思う。
 健太は従うことにおいて。――それは言われたことに盲従するという意味ではなく、そこに彼自身の意志を介在させた上で、健太は自らが認めたものに対しては素直である。
 瞬は切り捨てることにおいて。――だから彼の“今”は、自分ひとりのためだけに過ごす時間を切り捨てているという、納得の意識の上に成り立っているのかも知れなかった。
 耕一郎は許容することにおいて。――彼は久保田が決めてしまったことを、自分の決定事項として受け入れたのだ。だから先の言葉も、責任の所在をあやふやにするものではなく、しっかりと自分のところに引き取ったのだと確認するものなのだろう。
「…」
何も言えず、黙って耕一郎を眺め続けた。
 成長期に運動をしていたひとの健やかで伸びやかな骨格がまた、椅子をくうるりと回す。
「お前は?」
「うん?、なあに?」
「勉強してるか?」
大真面目に訊いている様子である。
「耕一郎〜、あのねえ…!」
みくと扱いを同じくされたような気がして抗議の言葉がついて出たが、
「久保田博士の心労をこれ以上増やす訳にはいかないだろう」
はぐらかすことさえ許さない視線の強さで見つめられて思い留まる。
「受かれよ?」
 彼は、一旦自分の懐に入れたものを最後まで見届けなければ気が済まなくて、こうした煩い気配りをしてくれるのかも知れない。
 そう思うことにしよう。
 そのほうが腹も立たないし、彼の小言もこの先は優しい気分で聞けるだろう。
「――うん。耕一郎もね」
 暗くなりつつある外に気付いて、ふたりは部室から出る。
 千里は瞬から渡された鍵で、しっかり部室と部室棟の戸を閉じた。
 大岩はもう帰宅しているだろうが、地学準備室の扉の鍵はかけられることはない。所定の位置にマスターキーを戻すべく歩き出して気付く。
「花火の音がするよ?」
「ああ…」
 ふたりで立ち止まっては天を仰ぐが、一定の間隔を空けて重々しい破裂音が遠くでいくつか連続するだけ。
 花火が上がっている様子は見えず、ただ深く蒼い夜空が広がっている。「ここからじゃ見えなーい」
 ぶーっと頬を膨らませた千里を少し笑っただけで、耕一郎は校舎に向かって歩き出した。しかし、数メートル歩き、彼女が横について来ていないことに気付いて立ち止まる。
「千里、何してる?」
 すると彼女は後方から全身で叫んだ。
「花火、見たい!」
そう言われ、彼女がこれからこの音の近くまで行くと言い出すのかと思った。そうなれば付き合ってもいい気分になったが、
「花火、見よう!」
しかし千里は再び体中で叫び、こちらに駆け寄ると、彼の腕を引き前方に向かってスピードを上げる。「Let's go――っっ!!」
「えっ…あのっ――おいっ!」
慌てて足を踏みしめる耕一郎へ、千里は掌を広げて鍵を見せた。「これがマスターキーだってこと忘れてた」
「はあ?」さっぱり分からない。
「いいから、行こう!」
彼女は得意満面の笑顔であった。
 
 耕一郎は外の縁台に腰をおろしたまま、俯いて左手首を見つめていた。暮れてきた空に時間を確かめていたのである。
 会計を終えた千里がおばあさんに見送られて再び表に出たとき、夏の熱をまだ放射しきれていない大気に、どん、とひとつ破裂音がした。
「?」
緋毛氈に腰掛けたまま、不思議そうに空へと目を遣った耕一郎と
「!」
動作の途中で飛び込んだ突然の音に動けなくなった千里を見比べて、おばあさんは微笑んだ。「今日は花火があるの。だから、その合図でしょう」
 ゆったりとそう言われた千里は、怯えた様子を歓喜の表情へ一転させるが、何か言いたそうにして指を胸元で組むと俯くだけだった。
 中空には、小さく今の火薬玉の煙が浮かんでいる。羊の毛の切れ端のように。
「…」
 耕一郎は立ちあがった。どうせこれからどうするのか具体的なことは何ひとつ未定だ。そのくせ、このまま彼女と別れるのは寂しい。
「行くか?」
彼女は手を下ろし、ぽかんと見上げてきた。伝わっていないと思い、彼はその勧誘の言葉に少し感情を含ませる。「行こう?」
 やっと目を明るくしてくれる。
「どうせ見るなら、あの場所がいい」
「えっ…」
そうくるとは思っていなかった。
「ねーっっ、行こうよーっ」
縋られて、彼はついに困惑を露わにする。
「行こう、ってお前」
そして耕一郎は、実に今の彼らしいことを言う。「それは不法侵入だろう、どう考えても」
「いいじゃない。言葉のあやだけど――」
滅多に何かを直接要求するようなことのない彼女の仕種だから、「どうせ、再犯で共犯だもん」と言われたのには、どうしてもそのささやかな願いを叶えてやりたくなる。
「…分かったよ」例え、再犯を咎める罰は、初犯より加重されるのだとしても。
 しぶしぶ従う背の高い男の子を頼もしげに見上げ、おばあさんは「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 それからふたりがやって来たのは、諸星学園高校だった。
 西日のグラウンドに、真っ黒い影がぽつりぽつりと練習の後片付けにボールを集めたり、ネットを端へ引いているのが見える。
 勝手知ったる学び舎を横切る足取りは、数年経った今もおぼつくことはない。
「中に誰かいるみたい?」
 グラウンドに面した地学準備室の窓から、手で光を遮り覗いてみる。その限りでは「いないようだ」。
「じゃあ、早速」と、そのドアに伸ばされた千里の手を耕一郎が掴んだ。
「おい、本当に入るつもりなのか?」
「やだ耕一郎、本気にしてなかったの?」ここまで来て今更ガタガタ言わないの、と、戸惑う相手を置き去りにノブをひねる。
 “この部屋の三箇所の出入り口は決して施錠されることがなかった。――屋外グラウンドに繋がるドアでさえも。”
 その記憶通り、あっけないほど容易く、懐かしい部屋へ続く扉は開いてしまった。千里はまず自分が足を踏み入れてから、彼を引き入れた。
「ほら」
「ん…」
 現在の城ヶ崎千里というひとに、そうしていざなわれる、過去の彼女との思い出ばかりの場所。
 この過ぎた風景に立ち返って、自分が過去、今と同じ性質ではないが、けっこうな想いの量を彼女に傾けていたのだと改めて知る。
 思わず吐息が零れた。
 地学準備室は、ふたりが高校生の頃と全く同じ佇まいだった。
 ただ、夕暮れの薄闇の中、この部屋のもの全部は古めかしく陰影をつけている。窓からの光はオレンジ色、落ちる影はセピア色。どちらも思い出の彩りである。
 その霞んだ色の中で、白い帽子と白いノースリーブの千里だけがくっきりとしていた。
 校内に入るのに上手くいき過ぎたことと、その視覚からくる息苦しさに、耕一郎はまだ状況が飲み込めていないように瞳が揺れている。
「本当に入れちゃったね」
笑いかけられて、やっと頷くことができた。
「月並みだが…」
耕一郎は彼女から目を逸らして、作業台の上に散らばる石のひとつを手に取った。「まるで時間が止まっているみたいだ」
感傷で呟いたのではなく、自らもよく知る担任教師の変化のなさが愉快だった。言った後で堪えきれず笑い出してしまう。「会いたかったな」
「今度、ちゃんと先生がいる時に来てみようよ」
「ああ」
 千里が言い出したときには難色を示したくせに、耕一郎はしっかり抜け目なくマスターキーをフックから取り上げた。この鍵がつけているキーホルダーも3年前と同じもの。――確かに黄色いプラスチックが、在学中よりぼけた色になっていたけれども。
 千里は大岩の机に遠慮なく近づき教科書や指導書を勝手に広げると、私たちのときとやっていることが違う、この岩石の写真は納得いかないと面白がってから、先生がいつも座っていたその事務用椅子に腰掛けた。
 そして肘掛にそれぞれ腕を添える偉そうな態度をとってみせる。「きっと今年も先生は、生徒をここに呼んで進路相談してるんだろうね」
 
 千里は、持っているマスターキーで屋上へ出ようと目論んだのである。
 緑の非常灯だけが明るい校内の階段。
 ほんの少しでも見逃すのは嫌だというように千里は駆け上がってゆく。
「はーやーくー!」踊り場で、スカートを翻して立ち止まり、後ろの耕一郎を手招きする。
 彼女と、建物の外側から引くこともなく聞こえる爆発音に追い立てられ、
「はあいー」
耕一郎も踊り場を回る。
 扉の鍵を解くと、千里は外へ更に走り出した。フェンスに身体をぶつけるようにして空へ食い入る。
 屋上は、昼間の熱気を押し出すような風で涼しかった。
「ほらー、見える見えるー」
彼女が予想した通り、住宅街を挟んで遠く、河川敷から打ち上げられる花火が大きく、視点と平行に見えたのである。
 頂点に上がった一瞬、周囲すべてを煌煌と照らし出す火花の集合体。
 そして次には、そんな輝かしい光景が存在したことなど嘘のように、儚く暗闇が襲う。 
「耕一郎」
「ん?」
先行した彼女にゆっくりと追いついてから彼は、その隣で手すりに肘をついたまま。とろんとした視線は宙へ向けたまま。
 花火が明滅するためのストロボ効果で、彼の整った輪郭が闇へ断片的に現れる。珍しく疲れた表情だと思った。
 そんな顔をするなら、何でも自分ひとりで背負おうとしなきゃいいのに。
 そうすることをやめても、誰も耕一郎を責めたりしないよ。
「聞いちゃった。耕一郎も明鳳受けるんだってね」
「法学部だけどな」
「本当に弁護士になりたいんだ?」
それには照れくさそうに笑って俯いただけだった。
 彼がこれといった言葉を発してくれないせいで、間の空気がどんどんセンチメンタルな性質を帯びてくる。
 ヤな空気ー…。
 風が花火の硝煙を流し切るまでのインターバルが妙に、千里には重たく感じられた。
「…ねえ、ひどいこと訊くと思うけど」と前置きしたのは、彼が高校受験を失敗してここにいることを知っているからだ。「明鳳に落ちたらどうするの?」
 その質問と返答のはざま、まず、どおんと胸に響く音が来る。
 そして、再び群青の空に明るい白菊の大輪が開いた。千里の見ている耕一郎の横顔が、一瞬それと同じ色の光で縁取られる。――彼は、笑顔のときと同じように目を眩しそうにした。
「併願する大学の結果次第だな」
その白い菊が銀色の滝に変化して、空を埋め尽くし豪華に流れていく。
「併願するの?」
意外そうな千里へ、寂しそうに言った。「しなきゃならないだろう。併願の大切さはよく知ってるつもりだ」
 その彼の返答で、気をつけたつもりだったのに、結局耕一郎を傷つけてしまったのだと気付く。
 いや。
 ただ千里自身が耕一郎を傷つけたと思い込み、彼女自身の胸を痛くさせているだけのことなのかも知れなかった。どうしてそのような思い込みが生まれるのか、その理由が思い当たらないままに。
 俯くと、まるで空洞のように頼りなくなってしまった千里の気持ちに、またどおん、という音が響いた。
 音が大きくなった気がする。
 それが連発する喧騒を縫って、切れ切れに耕一郎の声が聞こえた。
「どうした、見ないのか?、せっかく来たのに」
言われても、顔を覗かれるともう何故か花火が上手く見られない。「…“受かれよ”、耕一郎も」
 この言葉に、彼はしばらくリアクションを見せなかった。聞こえてないのかも知れないと千里は隣を振り返る。
 耕一郎は、手すりに手をかけ重心を後ろにしてみたり、首をかしげてみたりしている。そんな仕種をいいだけ繰り返し、熟考してやっと
「ありがとう」
とだけ言った。
 瞬間、千里の聴覚は彼の声しか聞こえない。花火が開いて真っ白になった視界で彼がはにかんで笑っていた。
 破裂音がどん、と勢いづいて再び彼女の耳に戻る。――
 高校3年生の耕一郎。
 何事にも無意識のままにすべて張り詰めさせていた時間の中に突然存在した、揺らぎの時だったような気がする。
 
 終了の合図である閃光弾の眩さに現れる大学3年生の耕一郎。
「…終わったな」
「…終わっちゃったね」
 夜空を明るくしていた彩りと、空気を震わせていた音はぴたりと止んでしまった。
 千里はその急に訪れた寂しさを持て余して、遣り場のなくなってしまった視線を耕一郎に向ける。
 彼も改まってフェンスに肘をついていたのから姿勢を正した。そして千里の目に何か言いかけたが、しばらく瞳で逡巡して、結局止める。
 どんな言葉であっても、口にしただけで壊れそうな繊細な空気が停滞していた。
 そして、それを壊したくないとの念も漂っている。
「…」
 耕一郎が千里の肩先を掴むことで、その雰囲気は密度を増した。
 風が巻き上がった。
 それがふたりの足許から身体すべてをぬるく撫でていくのでさえ叫び出しそうになるほど、すべてに神経が過剰反応してしまう。
 彼の前髪が帽子の鍔に触れてやっと、千里からアイコンタクトを遮断する。
 ――と。
 
 突如起こった、そのことを耕一郎は認めたくないらしかった。
 しばらく気に留めないふりをしていたが、携帯の呼び出し音は連続して彼の背後から流れてきて、無視することを許してくれない。仕方なく、千里が声を出すことにする。
「電話来てるよ、耕一郎」その気まずさは、もう笑うしかないようだ。
「…気付いている」
それでも尚、彼はそのメロディを抹殺したかったようだ。壊れた雰囲気に対しての彼の溜め息が、頬をかすめて千里を驚かせる。
 不意に音が止んだ。
 完全にタイミングを外したという印象だけをふたりに残して、勝手に来襲して勝手に撤退していった音楽。
「悪い」載せていた手で、ぽん、と千里の肩を軽く叩いて、耕一郎は自分を区切った。「送って行く。帰ろう」
 その提案に逆らう気も、先までの空気を自分ひとりで取り戻す気もない。さっと場を外す彼の隣についていった。「ねえ、山中湖の研修所は圏内だった?」
「何故?」
「別に。名古屋から電話すれば良かったな、って思っただけ」 

Fin.

 

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