Just One Victory

 

 

今日のデータがG3-Xに反映されていく。
 このバッチ処理のおかげで、次の出動にはシステムは更に強化されているはずだ。
「…」
小沢澄子はコンソール画面を瞬きもせず見つめていた。
 上から下へ流れる光る文字――そのひとつひとつが、装着員である氷川誠が命がけであげた、このシステムの実績なのだ。
 任務に伴う危険へ身を晒すことと引き換えに積み重なる信頼性。
 いつもは何も思わないが、今回は胸につまされる。

 今流れているのは、氷川が、小沢の開発したG4システムに対抗したときの記録だった。

 この情報を得るためにどれだけの犠牲が払われたのか、そこのところに全く考慮のない、いつもと何も変わらない無機質な計算装置の動き。しかしこれは、デジタルに数値化できないだけで、氷川の精神的苦痛のぶんだけ常よりも重い業績に違いないのだ。

 小沢は目を閉じた。瞼の向こう、文字列の残像がまだ動いている。

 その残像に重なって蘇る、G3-X搭載カメラの映像。それはとりもなおさず戦闘時に氷川誠が見た景色である。
 ――もんどり打って後ろへ倒れる氷川の動きに合わせて、一度大きくレンズが天井に振られ、再びG4へ視線が戻る。
 氷川誠として戦いなさい。
 それしか言葉が出てこなかった。
 しかし健気な氷川は、そんな頼りない自分の指示を受け、たったひとりで戦い始める。半壊したマスクを自ら取り投げ捨て、小沢と尾室の目線は実に低い位置で置き去りにされた。
 全く別の性質の衝突。求めるものが違ったけれど、どちらも強く純粋で美しく、似ているからこそ相容れない。
 氷川がG4を組み伏せ、ふたりの動きを絶えずなぞっていた駆動系モータの音と、ボディの強化金属がぶつかり合う音が止んだ。氷川の息が、恐怖と興奮のない混ぜで弾んでいる。
 次の瞬間、不気味なゆっくりとした動作で起き上がろうする黒衣の死神。それに続いたのは轟く氷川の叫び声だった。

 もういい…ッ――もういいッッ!!

 人知の及ばぬ暗闇へ相手を引きずり込もうとする強大な力。それに抗った声は集音マイクの能力を超え、小沢のヘッドホンに、くわーん、というハレーションを呼んだ。
 そして氷川は発砲した。
 あのとき、彼がその絶叫で拒絶したものは何だったのだろうか。叫びと同時の発砲で彼が打ち抜いたもの。
「…」
 それは氷川が視覚的に捉えていた敵だけではなかった気がしている。

 

 警察官の安全靴の足音がした。鉄を入れた靴底のせいで、音は重々しくコンクリートの閉鎖空間に響き渡る。
 誰かが小沢のいるトレーラーへ近づいて来ていた。
「…」
 ステップの鉄板を踏む音が続き、小沢は背後を振り返る。扉が外側から開けられ、地下駐車場の明かりの一部が入り込む。

 逆光に長身の影が映る。トレーラーの車両部分の扉へ手をかけているのは氷川だった。

「…あ」彼は小さな驚愕を口にした。「まだいたんですか」
 既に日付も変わろうとしている時刻であり、ここには誰もいないと思っていたのである。だからこそここへ来たのだが、彼の案に相違してその車内の暗闇の中、モニタが光源となり小沢の顔を照らしていた。
「ええ」
氷川はモニタを見て、小沢が何をしていたか察したらしい。「…お疲れさまです」目を悪くします、と律儀に照明を点けてくれるあたり、彼はいつもと変わらないように見える。
 しかし、今日一日の非日常にさし当たって、さすがの氷川であっても絶対そんなことはないはずである。
「あなたも。お疲れさま」

 氷川は今日、民間人に対して発砲をした。

 勿論、正当防衛の成立するケースであったことは間違いない。
 氷川がその銃口を向けた相手は、装着員の自我すらも飲み込み暴走を始めたG4システムである。だからこの場合「民間人」と言っても、G4システムで武装した陸上自衛隊員・水城史朗ということになる。
 だが、氷川の水城への砲撃はアンノウン以外への攻撃であり、G3システムが実用に移された際に定められた特則からも逸脱した行為であると見なされた。そのため彼は今回発砲した現場の検証に立会い、その後も捜査本部に長らく留め置かれていたのだ。
 小沢に絶対の信頼を置き、今回のことも見てみぬフリをして下さろうとしていた警視総監も陸上自衛隊――ひいてはその後ろに控える防衛庁からの風当たりが強くなることへの予測に、氷川をシェルターの中へ完全に仕舞い込んでやれなかったらしい。
「…」
氷川は小沢のねぎらいに上手い返事ができなかった。本当に“お疲れ様”だった。少し俯く仕種を肯定の返事の代わりにしただけで、小沢の隣に腰をおろす。俯き、膝に肘をつけ手を組んでいる。
 小沢は氷川を見なかった。そちらの方向から溜め息が聞こえたと思うだけだった。そしてこの“事件”の解決を彼に告げる。「先ほど連絡が入った。真魚さんは津上くんと一緒に保護されたって」
「そうですか」やっと少し、目を細めて表情に明るさを宿してくれた。「良かった」
 津上翔一とは、八王子駐屯地で分かれて以来、小沢も氷川も彼に会っていなかった。ただ、風谷真魚とともに保護されたという事実が津上の笑顔に置き代わって、氷川のささくれた心を癒す。

 駐屯地に深海理沙を訪ねたときだった。結局、深海一等陸尉は、警視庁の小沢管理官を袖にして、こちらの面会の申し入れを受けてくれなかった。
 オフィシャルとしての手立てを使い果たし、後は反則技に持っていこうと、小沢が津上にすべてを任せてくれないかと言った後、彼はそれを承知したが、
「真魚ちゃん…」
金網の向こう側を見上げて呟いた。ひたすら広い敷地に、カーキ色のジープやトラックがまばらに停まっている。それだけの景色に向かって津上は、真魚の手掛かりを必死に感じようとしているようだった。
 その、彼女の名前を呼ぶことで自らを支えるような、実に心許ないものに縋るような響きに、氷川は驚愕にも似たちょっとした衝撃を覚えた。そして、飄々として捉えどころのない印象の津上が見せたこの顔が、ひどく重い疑問となって氷川の胸に残ったのだった。――
しかし、
「日が暮れました。家までお送りします」
と言うと、その一瞬前とは打って変わった明るさで、いつもの津上に戻ったのだ。「やだなあ、氷川さん。女の子じゃないんですから夜道だってひとりで帰れますって」
「危険です」
津上は氷川の心配を嬉しそうに受けとめて、一瞬間をあけた。

「俺、危険なことには慣れてますから」

 そう言った津上翔一は、ヘンに自信に満ちた目だった。運転席に氷川を残し、覆面パトカーを降りる。「小沢さん、真魚ちゃんのこと、本当によろしくお願いします」
 そうして小沢と氷川は、津上と分かれたのだった。

 津上の、切なく彼女を求める声の理由。
 記憶のない彼にとって彼女は存在意義に近いのかも知れない。いや、既にそのものであると言ってしまってもいい。
 真魚は、その“津上翔一と名乗る人間”を信じている。自分の最大の秘密を明かす理由にしてしまえるほど。
 今存在する彼が本当であるのかどうかすら分からない彼を、何とか現実に繋ぎ止めている心。
 彼女が、彼を証明しているのだ。

 氷川は疑問を解き、ほんの少し心を軽くする。
 しかし小沢はしっかりと真実も述べることを怠らない。「深海陸尉は駐屯地の地下で遺体で発見された。剖検のため警察病院に搬送済み」
「あ」
氷川は、何事も怖れていなかったその女性の凛とした瞳を思い出した。「亡くなったんですか?」
命が費えることも、国益の防衛のためになら眉も動かさず決断できるほど、屈折した意志力を持った指揮官。
「うん」
 ――その、ある意味屈強な精神の持ち主だった彼女の顔も、最期には恐怖で歪んだのだろうか。
「…そうですか」
「ええ」
氷川は、水城史朗の遺体は見ていた。「水城さんは防衛庁の方が引き取りに…」
「そう」
たぶん水城も深海同様剖検されるのだろうが、G4装着員であった水城の遺体が警察権力の下に来なかったあたり、秘密と胡散臭さが臭った。
 しかしどちらにせよ解剖されれば、水城の直接死因は氷川の攻撃ではなかったことが明らかとなるだろう。この男はそれでも“撃ってしまった”そのこと自体に責任を感じているらしかった。
 それがいじらくて、小沢は少し唇へ笑いを浮かべる。
「さっきは――」そして視線を、疲労の部下へ向けた。「無責任な指示をして申し訳なかったわ」
「無責任?」その彼は少し眉をあげて、不思議そうな顔をした。
「ええ」水城史朗という装着員の人格を失ったG4に対して、氷川誠という“人間”として挑め、という指示をしたこと。
「…ああ」
正直、今更何だ、と思った。思わず笑いがこみ上げる。
 組んでまだ日が浅い頃の小沢ときたら、「根性を見せろ」だの「もう少し踏ん張れ」だの、全くアナログな指揮内容を平気で無線で流してきたのだ。最近の指示などまだまともなほうである。
「こちらこそ、オーダ通りに動けなくて申し訳ありませんでした」
「いいえ、あなたはよくやった」
誉められた。素直に嬉しかった。「ありがとうございます」

 素早くキーを叩き込む音がして、氷川は顔を上げた。

 小沢が何かを入力し、実行するべく手首を右へ持って行くところだった。
「アナログなら不要なものは火にくべたりして感慨に浸れるけれど、デジタルはキーを押すだけだものね。味気ないものだわ」
「?」
小沢が続けざまにエンターキーを押そうとするのを、嫌な予感がして捕まえた。「ちょっと待って下さい、何をするつもりですか?」
 彼女は意識的に感情を殺した透明な瞳で、ただ氷川を見上げる。「本来ならもっと前にしておくべきことを、遅まきながら今するのよ」
 自分の拘泥が招いた事態だと、今ならはっきり認識できる。――自分の開発物が、世に破滅を招くものだと気付いていながら、科学者としての歓喜が小沢の判断を鈍らせた。
 至上のもの。
 至上の力を持つ者。――G4がそうであったのは確か。しかしそれが諸刃の剣であったのも確か。
 自分の心の奥深くにどうしても取り除けないエゴが、今回明らかに深海を羨ましがっていた。深海の、目的遂行のために周囲を顧みない理性のなさを完全に否定できなかった。
 科学者としての怖いもの見たさがひっそり首をもたげていた。
 自分の設計が盗まれたという事実に直面したあのとき、小沢の中で、その災禍を憂うより、それを具現化された悔しさが一瞬勝った。

 あれは、自分が設計したものなのだ。

 屈折した科学者のプライド。
 そんなものは、警視庁に入庁したときに捨てることができたと思っていたのに。――あくまでも市民の安全のため、自らの良心のみに従う警察官という名の僕。
 水城の命が犠牲となった今では決して取り返しはつかないが、こうすることがけじめだと思う。
 小沢の返答によって、この個室の空気は一気に凝縮される。氷川は彼女の手首を離さない。彼は小沢の行為を許さなかった。抵抗する彼女の息があがる。
「これはもうあなただけのものじゃないんだ!、あなたはそれが分かっていますか?」
「痛―い!!」
大きな声でわめけば、優しい彼がびっくりして力を緩めてくれると思ったのだが、氷川は自分の掴んでいるものの中で更に下方へ手を――ボタンを押下しようとする意志を感じていた。
 諦めの悪いひとだな…。
 舌打ちして、その細い手首を上へひねる。
「いったーい!!」あんまり痛くて、小沢は一瞬椅子から身を浮き上がらせる。そして掴まれたところへ左手を添えた。「このバカ力っ」きっ、と氷川を睨みつける。
「すみません、でも…」ささいなことであっても力に屈服するなど、彼女の一番嫌うところだろう。それは分かっていたが、
「こうでもしないとやめないと判断しました」。
小沢が手首をぶんぶん振っている隙に、氷川は素早くエスケープキーを押してしまった。途端にモニタは初期メニューに戻る。
 静寂、沈黙。俯き、くぐもった声で氷川が小さく言う。
「絶対に忘れません。今更無になんてできるはずはないんだ」
そのあるかなきかの音源を、小沢は拾い取る。「――そうね」

 彼がもう一度キーを押すと、そこには見慣れた東京都の地図が表示された。その画面では、白い点が千代田区皇居脇の三角形の中で光っていた。それは警視庁の中の、このトレーラーの位置である。

 今、ふたりがいる位置はこんなにも小さい。

 しかしそのふたつの存在と比較もできないほど大きな周囲は、目まぐるしく彼らを巻き込んで行く。今、この瞬間にも更に変化しながら。
「水城さんは、何故自分が選ばれたのか疑問に思わなかったんでしょうか」
自分が選抜されるまでにG4の実用テストで死者が出ていたことも彼は知っていた。
 そして、その遺体が納められた強化ガラスの棺を覗き込み、氷川へいずれ自分もこうなると告げた。水城はあの時点で、今日という日が来ることを悟っていたのだ。
 固く厳粛な決意。何者も踏み込ませない、水城史朗という人間の聖域だった。勿論、彼を選んだだろう深海理沙さえ、その場所へ足を踏み入れていないと思う。
 最も、深海が、水城という人間にそんな痛々しい心があることに気付いていたかどうかさえ疑問である。
「――どうしてそんなこと訊くの?」
小沢は椅子から立ち上がり、お辞儀するように氷川の横顔を間近から眺める。まだ痛みが残っていて、手首をさすっていた。
 冷静沈着な彼女の視線にすべてを見透かされるのは毎度のことだが、氷川は小沢の瞳が自分を捕捉するその動きから逃れ、目を逸らす。「…」
 彼の態度に納得したような顔で、彼女はトレーラーの後ろの扉へ歩を進め、寄りかかると腕を抱いた。
「質問って、私の経験から言って、知りたいもの自体をストレートに尋ねるときと、質問をしようとした理由に本当の意図がある場合があるんだよね」左手で右肘を支え、小さな顔の輪郭を右手の細い指で支える。「氷川くん、今の質問はどっち?」
 全くこのひとには敵わない。氷川は吐息した。しかし答えようと決めても、
「――」
答えるのが苦しかった。
「後者です」
そう口に出すことで氷川は呪われたように、自らの現在の心境を確認することになる。どん、と重量感が胸に圧し掛かった。
 今、自分はまだ揺れている。動揺から立ち直っていない。

 もういい。

 しかし自分は何を、“もういい”と思う?

 何に対して飽和状態なのか?

 

  小沢は氷川の次の言葉を待った。氷川が握り締めた手首が、まだ痛かった。
 

 無。

 それはとりもなおさず、何もないこと。

 今日のことを何もなかったことにはできない。
 氷川は先ほどそう言ったが、小沢は、今日のことが何もなかったことになっている存在を知っていた。

 遺体の、深海理沙一等陸尉である。

 厳密には、“死体”という言葉は死んでいる人間が誰か分からない場合に遣われ、遺体という言葉はその死体の生前の名前が分かっているときに遣う。
 しかし彼女の遺体の損壊状況は、名前の判別など問題にならないほどひどかった。

「…どうしてもご覧になりますか?」
と、警察病院の職員が自分の華奢な体格を眺めて言ったのも、最初バカにされたようでカチンとしたが、深海の遺体を見て理解できた。
 窓のない部屋には自然光がなく、白色蛍光灯の光が、深海の白い肌を更に浮き上がらせる。床はタイル張りで、小沢に履き物越しであっても冷たく固い感触を与える。
 ストレッチャーに横たわる深海は息をしていなかった。
 この死体は、小沢に圧迫感を与えた深海のエネルギーを全くこちらに感じさせない。
 そのことが、小沢を、他のアンノウン被害者の遺体を見るときには感じない、ひどく薄ら寒い、白けたような気持ちにさせた。
 陸上自衛隊の制服も脱がされ、ただ一枚きりの布をかけられた彼女は、文字通り彼女自身でしかなかった。肩書きも既に関係ない。
 布で隠れた身体の部分は表現する言葉も見つからないほどだったが、あの美しい顔と頭部、頚部だけがきれいな状態だったのが、余計不気味で、小沢に付き合って来ていた尾室隆弘は即座に霊安室から出て行った。
 白い布から出ている部分は、外見、生前と何も変わっていない。しかし、生きている人間が瞳を閉じているときとは明らかに違った。質の良い白磁を思わせる薄い瞼の下の眼球が二度と動くことがない。
 

 それが、死だろう。彼女は今では、“無”だ。

 彼女は死によって、外界からの働きかけも、自分が外へ働きかける手段もすべて失ったのだ。

 限りない静けさに支配され、その中に何も留めていない抜け殻のような存在。
 小沢は科学信者だが、そのとき、これが魂のない状態なのだと思った。
 しかし、彼女の整った唇――その口角がほんの少し持ちあがって、微笑んでいるように見えた。
 物も言えないくせに、そこだけが誇らしげだった。
 それを見て、ささやかな敗北感のようなものが胸に刻まれたことは氷川には、絶対言うまい。
 

「私ね、自分のつくったものには自信があるのよ」
今、自分の視界にあるもの――氷川誠以外――すべてが自分の知恵。
「だから、いつもアンノウンに対処できるとは信じている」
氷川が何かそこで言いかけたのを、小沢は手で制した。
 氷川が今言いたかったのは、敗戦の記録の謝罪だろう。彼はこういうところはひどく礼儀正しい。そこは、小沢が好ましく思う一方で、実にもどかしく思う部分。
「大丈夫よ、急がないで。そこを今から説明するから」
「でも小沢さんがそう思っているのなら尚更――」
「私が自信を持って開発したものを装着して敗戦したことがあるのは、自分のせいだと?」
「…はい」
誘導尋問よりタチの悪い確認作業。小沢に自分の心中を繰り返し唱えられ、悔しくて氷川は俯いた。
 小沢は、ガードチェイサーに歩みより、シートへそっと手をかけた。「仕方ないじゃない。君は誰にも何にも計算することができないんだもの」上機嫌な笑いを含んだ声だった。
「えっ…」
「私、科学の力を確かに信じている。だから君にはこんなデジタルな鎧を着て戦ってもらってる訳だ。でも、人間の持つ力を否定している訳じゃない」
凛と、氷川へ視点を合わせた。強い力が込められたその瞳は、いつも彼を牽引してきた目であり、いつも彼と同じ視界にある目であった。

「私は、人間が弱いから、それを補うために鎧と武器を持たせなければならないと考えている訳じゃない」

「…」
「――人間は、科学的にブラックボックスというだけなのよ。決してシステムの短所ではない」
それどころか、氷川誠というブラックボックスを包含してこそのG3-Xだと思う。
 その代わりは誰にも務まらない。それは、一時的に北條透を装着員に据えたときにはっきりした。

 なりたいだけでは務まらない。氷川が装着員でいられるのは、氷川だからこそなのだ。

 そう自分が信じているから、彼にも信じてもらいたい。
「最後にモノを言うのがそのブラックボックスの部分――装着員のポテンシャルだと思ってる」と、小沢は言った。「あなたはあなたのポテンシャルについて、そんなに自信がないのかしら?」
 頭の堅い上層部がしたことで、君を選んだことだけは賛成できる事柄だわ。
 例えそこに、他に漏らすことのできない汚い隠蔽の形跡があったとしても、結果として正しいと思う。
 小沢は氷川から漂う重苦しく静かな、そのくせ熱を帯びた雰囲気を立ち切るように、素早く氷川の隣に戻った。モニタを見て、バッチの終了を確認する。そして、うなだれたままの氷川の肩をぽん、と叩いた。
 これは太鼓判だ。「大丈夫よ。あなた、可愛いから!」
「は?」
驚いた。彼女は優しく目を笑わせている。
「少なくとも北條透とは比べものにならないくらいにね」

 

 尾室隆弘がそこへ現れたのは、その会話から間もなくだった。
 疲れた顔で、氷川を見て「やっと見つけましたよ」と言った。「始末書のフォーマットを探してくれって、俺に頼んだのは氷川さんでしょ」
「あ…」
頼んだことは忘れていました、とするする言いそうになって、氷川は慌てて口許に手を遣った。「すみません。お手数をおかけして…」
尾室が封筒を氷川に渡したところで、小沢がふたりの間に割って入る。「いつものメンツが揃ったことだし、ご飯を食べに行きましょう。こんな時間になってしまったけど、家に帰ってもこのままじゃ空腹で眠れないから」
「はい」と、迷わず返事をしたのは氷川だけだった。
「ええー、氷川さん、さっき『今日は胸がいっぱいで、何も食べたくない、食べられてもうどんくらいだ』って言ってたじゃないですか」
尾室の言葉を小沢が聞き咎める。「うどん…?」
 氷川がまた慌てた表情になる。確かに尾室に、現場検証の立会いの前にそう言った記憶がある。「あっ、あの、それはっ…」
 背の低い小沢が下から覗き込んできた。「讃岐うどん?」故郷が恋しくなった?、と。
 先ほど可愛いと言われた恥ずかしさもあって、氷川は強がる。「いいえ、今夜はお供します!」

 かーわいい。このすぐムキになる真面目さが何とも言えない。

 四国から出て来たばかりの彼は、関東のうどんのつゆの色が黒いことだけで驚いていたのに、今はこんな逞しい。その出会ったばかりを思い出して小沢は笑った。
「そう来ないと。尾室くん、あなたはどうする?」
話を振られた尾室は何故かうんざりした顔である。氷川は不思議そうに、ふたりの顔を見比べた。
「…小沢さん、よく飯を食おうなんていう気になりますね」侮蔑に似た眼差しで小沢を見る。「あの深海さんを見ておきながら…」
思い出すと、まだ胸から突き上げてくるものがある。綺麗だった深海理沙の遺体。尾室は小沢を霊安室に置いたまま、ひとり外へ出て、朝から何も食べておらず何も入っていないはずの胃から戻し続けていた。
「人間は、死体を見たら一生ご飯食べられなくなるとでも?、あなたはずーっとご飯を食べないで餓死するつもりかしら?」
「食べますよっ、食べればいいんでしょうっっ」
「あら、別にいいのよ、無理矢理食べなくても」
「食べたいです、食べさせてくださいっっ」
ふたりを見ていた氷川がとうとう笑い出した。

 

 氷川は空を仰いだ。
 都会の夜空である。煌きは地上にあり空にはない。
 同世代の人間よりはピュアだろう氷川の心でも、死んだひとが夜空の星になるなんてことを信じている訳ではないが、彼はその星さえ見えない空へ少しだけ敬礼した。
「…」――水城三等陸尉に。
 だがすぐにそれを、下りて来た前髪を直す仕種にカモフラージュする。

 ひっそりとした、氷川の、水城との訣別。

 幸い小沢と尾室は氷川の前方で、どこへ食事に行くか夢中で話し込んでいた。どうせ今夜も、深夜まで営業しているあの焼肉店に決まっている。
 氷川の予想通り、とうとう小沢がその店の名前を口にしたとき、やっといつも通りが戻ってきたと実感できた。
 氷川の硬化していた気持ちがやっと解れていく。氷川はやっと日常に帰還する。

 この先も、謎めいた事件が起こる度、自分は命を賭して戦うだろうと思う。そういう意志がある。その危険度も理解しているつもりだ。
 ただ、その理由を、言葉としてアウトプットすることはできそうにない。
 勿論、公僕として市民を戦うのは理由である。でもそれは大きな何かを成す一部でしかないような気がする。

 確かなことは、今ここにある自分の感じていること。

 無事生きて戻ることができれば――そう、今も生きているからこそ、ふたりをこうして満ち足りた気分で眺めることができるのだ。自分を信頼し、立ち塞がる障害を取り除いてくれるひとたち。
 それはささやかではあるけれど、氷川にとって、何よりも確かな生還の証し。

 不意に小沢が振り返った。「氷川くん何してるの?」
「あ、すみません…」氷川は軽い駆け足ですぐ彼女の脇、一歩後ろのいつもの定位置につける。
 制服姿ではない彼女。さらさらしたウェーブの髪が都会の埃っぽい風になびいた。長い睫毛の先で車のライトが灯る。このひとは女性だった、と思い出させてくれる光景。

 小沢のセオリーでは「男は自分が気に食うか食わないかで判断すればいい」らしい。

 氷川は決してそうは思わないが、小沢には、正誤を基準として物事をカテゴライズすることは「どうでもいい」のだ。天賦の才、直感で物事を裁量してきたひとの理性的ではない部分。
 その彼女の思い切りのよさが、今はひどく羨ましく思える。

 その論理に従うなら、自分は水城という男を気に入っていたのだと思う。
 明らかに自分の属する陣営には害をなす存在を。――これは正誤の問題ではなく、非理性的に惹かれていた。行くなと言われた場所へは余計行きたくなるように。高いビルから好奇心で身を大きく乗り出すように。――危険だからこそ、惹かれた。
 安全を求め続けているはずの自分が、死に限りなく近い場所に自分を置いていたひとに興味を抱いていた。
 自分と対局であるからこそ、知りたかった。

 

 あの、凄惨な殺人現場となってしまった超能力開発施設に水城もいたそうである。
 子どもたち、水城の同僚である自衛隊隊員。
 氷川はその状況を、惨劇が終わってから見た。しかしあの水城はリアルタイムで見ていたはずである。
 そして、彼は生き残ってしまった。一部始終を焼きつけただろうその瞳のままに。
 生き残ったことを罪悪のように思い、生の中に自らを置くことを良しとしなかった。そういう彼の心情を、今更想像することを氷川はしなかった。
 その水城の痛みは、自分が体験した事柄の中で最も“死”に近いと思われるあの海難事故ですら比較にならないだろう。――何故なら自分は、あの事故で“死”そのものに遭遇しなかったからだ。

 氷川は水城の死に顔を思い出した。水城を引き取りに来た自衛隊員がG4システム解除の方法を知らなかったため、遺体の武装を解いたのは氷川だった。

 マスクを外してやっと見えた水城は、こちらが思わず緊張感をなくしてしまうほど安らかな顔をしていた。
 死んだことで彼はすべてから解放されたのだ。
 彼が、死ぬまで背負っていたもの。――そう、ある意味パラドックスだが、彼は死によって、彼が背負っていた死からも解放されたのだ。
 彼は、死んだ同僚、そして彼らに遺されてしまったひとたちの想いをも背負っていた。
 死者とそのひとたちを愛していたひとの心。

 …優しいひとだったんだ、たぶん。

 僕の思い込みかも知れない。僕自身のためにそう思いたいだけなのかも。――自分を殺そうとした人間を美化するなど実にひとが好いと、氷川は自嘲の笑みを浮かべた。
 けれど、彼が背負ったいくつものひとの想いのためにも、どうしてもそう思うのが正しい気がした。

 だって、それが、システム的にはただひとつの実績だとしても。
 そうに過ぎないにしても。

 ――この出来事は、かけがえのない、たったひとつの勝利だから。

 

「まずねえ、石焼ビビンバは絶対に食べるでしょう?、タンは塩がいいなあ。あそこの塩ダレおいしいのよねえ。あと、絶対に外せないのがー…」
小沢がメニューを指折り数えている。
「…小沢さん、本当に本当に本当に、ほーんーとーうーに、食べるんですか?」
「しつこいわね、そんなにまた吐きそうなら、尾室くんだけ今から帰ってもいいのよ」小沢が急に氷川を見上げた。「ねっ、氷川くん!」
「はい」
その同意の輪から外された尾室は、そこで小沢が立ち止まったのに気付いていないようだった。
「?」氷川が、歩き出さない小沢を待つのに少し歩調を緩める。
 尾室からじゅうぶんな距離が取れたのを確認して、彼女は氷川の隣に歩み寄った。尾室の背中を捉えていた視線を、ひとつ瞬きして、氷川へ切り換える。
 氷川は小沢の、その上目遣いを受けとめた。
 クラクションと、ガソリン臭い風がふたりの横をすり抜ける。熱帯夜の独特の暑さを含んだ空気の流れだった。
「…氷川くん」
「はい?」
少し彼女は肩の力を抜いたようだった。短い吐息の後で小さく言った。

「お疲れさま」

 

Fin.

 

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