けれど空は青

 

3.

 偶然という、ひとの持つ時間の直線が複数重なる事象。
 この世の中に起こることは頻繁ではないが、ままあることではある。――

 

 大学の帰り道。
 夕暮れの風は初夏に向かって温かった。健太はその中を縫って自転車を疾駆させる。
 誰にも助けを求めることができないから、今日はきっちり余裕を持ってレポートを提出した。この当たり前のことが、健太には当たり前ではない。
 自宅がすぐそばまで迫ったとき、彼の携帯電話に着信があった。自転車を停めて、片足をついた状態のまま、懐から取り出して眺める。相手の番号は通知されて液晶に表示されていたが、健太の知らない番号だった。
「…はい?」
電波の向こう側を窺うように返事をすると、
「健太?、久し振りー、恵理奈」
抜けるように明るい声で言ったのは、かつての同級生だった。
 急に時間が三年、引き戻される。
「恵理奈?」何となく短く済みそうではないと思い、健太は自転車を完全に降りた。「どうした?」
きれいで繊細な外見の彼女の声は、相変わらず女性らしく軽く聴き取りやすい。しかし、
「千里から健太の番号聞いたの。今、話せるかな?」
向こうも何となく窺うような口調だった。
「いいよ、何?」

 片側一車線ずつの狭い車道で、歩道はない。健太の背後には畑が広がり、風が吹いて作物の葉を揺らした。まるで波のように、夕日に葉の白い裏側が照らされてキラキラと光る。

「本当はね、遠藤くんに用事があったんだよね」
クラス会の幹事って遠藤くんでしょ、と言われた。――大抵、三年次の学級長が卒業後、クラス会の幹事に繰りあがる。
 最も三年次に限らず、ずっとA組の級長は遠藤耕一郎だった。一年次は瞬が面白がって同じ部活の耕一郎を推薦してしまい、二年次は「別に耕一郎のままでいい」というファジーな理由の満場一致で改選もしなかった。三年次もそのまま。
「夏休みにね、クラス会してもらおうと思ったの」
そう要求すると、幹事は、
「…どうしても今年もしなければいけないか?」
と言ったという。
 遠藤くんの声にいつもの奉仕精神が感じられなかった、という彼女の言葉に、健太は思わず笑った。
「何かあったの?、健太たち…」
「いや、別に」説明をしようとしてもできないほど曖昧な別れ方。「ただ、連絡取り合ってないだけなんだ、最近――」
 “最近”何があったというのだろう。ただ、毎日同じ時間が経過していくだけだった。
 そう言うのがやっとの健太に、恵理奈は間髪いれず、極めて的確な忠告をする。

「だめだよ、連絡しなきゃ!」

 ずん、と無音ながら体が押し潰されそうなほどの衝撃。
 その簡単さと、本質を衝いている様子にぐうの音も出ない。
 やっと、恵理奈の声以外の音が聞こえた。
 車のエンジンが走る音だった。
 健太の立ち尽くす横を、白い軽トラックが擦れ違いざまクラクションを短く鳴らす。目を上げると、トラックは健太の母親が運転していた。
「毎日会っている訳じゃないんだから、気を遣うのをやめたら、どんなに仲が良かったとしてもすぐに離れてっちゃうよ?」
 自明の理。
「…うん」
 ――あの日、裕作にこう言って欲しかったのだと思った。
 分かり切ったことを見失わせるほど、永遠を錯覚させるほど、あのときまでは自分たちの結束が固かったのだ。
「そうなんだよな」
裕作に、ふたりを待つように言われたときの空虚さがやっと解消される。気に留めないふりを決め込んでいたしこりが、この夕暮れの風に流される感じがした。
 たぶん、あの日の自分はどこか無意識に、この上なくアグレッシブなやり方を勧めてくれるのを待っていたのだ。
 しかし、それこそが甘えに違いない。
 その本質に気付いていたのかどうか分からないが、そういう自分を変わらず扱ってくれた裕作のことが、改めて有難く感じられた。
 だから、自分の望む通りに言ってくれなかったからといって、裕作を責める気持ちは今もない。ただ、新たに自分の信じるべき啓示を受けたらそれに従うだけである。
「あー、でも、ほんとどうしようかなー、俺」
恵理奈との通話を切った後、それでもまだ踏ん切りがつかずに携帯を握り締めるだけ握り締める。

 

 瞬の、みくに対する態度の中に、目に見えて変化したところなどはなかった。

 ただ、あの日、自分に救済とも言える依存の仕方を見せてくれたという事実があり、彼女が多少自信を持ったのは確かだった。
 そして、あの日から彼が接点を持つのは自分だけだということが、更に彼女を幸福にさせる。
 誤っていると思う。
 “あのこと”を踏まえた上で満たされる気持ちなど、本当は持ってはいけない。
「…どうした?」
電車のドア近く、外を眺められるところに瞬とふたりで立っていた。
 この電車の始発駅である副都心が遠ざかり、住宅街へさしかかるにつれ夜の風景は寂しく、けれどあたたかくなる。
「ううん。何でもない」
今彼と目を合わせると、その醜い独占欲が伝わりそうで、みくは下を向いた。
「そうか?」
それなのに覗き込んでくるから、みくは笑うことでその視線を避ける。
「うん、本当に何でもないよ」
 やがて、彼女が乗り換える駅が来て、みくは当たり前のように降りようとする。「じゃあね、瞬」
「うん、じゃ…」
その彼女の手をそっと握って。
 はっとした彼女が視線を上げたときにはもう、指先を離している。――みくの胸を締めつけるにじゅうぶんなほど、切なそうに笑った顔が電車の扉に遮られた。

 電車が通り過ぎる風が、みくのスカートと髪を揺らす。
「…」
しばらく彼女は、寂寥に縛られてホームから動けなかった。
 このままでいいのだろうか。
 暗然たるものが、彼女を捕らえて離さない。
 そんな彼女の精神を助けたのは携帯の着信だった。バッグから急いで取り出す。別れたばかりなのに、何故か瞬だと思った。
 しかし、その果てしない希望的観測に、結局は打ちのめされることになる。
 彼女は、液晶に映る発信者の名前に、思わず呟いた。
「えっ…嘘――」

 

 裕作は昨日のカレンダーをはぐった。洗った髪の毛をタオルで拭いながら、今日は5月の給料日だなあ、と思う。
 ガラガラと縁側の雨戸を開けると、直線的な日差しがフローリングに注いだ。まだ梅雨には早く、今日の天気はいい。汗ばむほどの陽気になるとFMのお姉さんが言い、ワイシャツ着るの嫌だなあ、とも思う。

 健太が失意のままここに来てから、ひと月近い時間が経過しようとしていた。

 その後、健太から連絡はなかった。勿論、言うまでもなく他の四人からもない。
 それだけで、現在彼らがどういう状況か分かるというものだ。わざわざこちらから尋ねることもあるまいと、裕作からもコンタクトはとっていなかった。
 もしも五人のうち誰かを捕まえて訊けば、質問を受けたその誰かが傷つきそうで、それを見れば、たぶん自分もいわれのない罪悪感に苛まれることになるだろう。
 脳裏を過る、あの夜の健太の顔。それと同じとき、暗く沈んでいただろう耕一郎の、瞬の、ちさっちゃんの、みくちゃんの表情。――そんな想像が容易なほど、自分も彼らと共にいろんな時間をたくさん過ごし、彼らの様々な表情や仕種を知っているのだ。
 五色の彩りに輝いていたのだと、振り返って初めて分かる、かけがえのない日々。
 普段なら五人のことを、可愛くて構ってやりたくて仕方ないのに、意識的に遠ざかっている自分がおかしかった。
「…」
気持ちに一段落つけるように、縁側で踵を返し洗面所に向かった。鏡には、仕事に疲れた自分の顔が映る。明らかに昨日の寝不足が響いていた。今日、仕事でプレゼンをしなければならないのだが、そのときに使う配布資料を作るのに今朝方までかかってしまったのである。
 シェーバーのコンセントを鏡の脇に差した。
 仕事、行きたくなーい…。
 まだ自分は、規則正しい生活をすることには慣れていないようだ。

 もっと積極的に生きないとね、俺。

 昨夜から家の中に入り込んでいた猫の遠くでエサをねだる声がする。
「ちょっと待っててよー…」
電源を入れると、刃が回転する音に自分を呼ぶその声がかき消された。

 

 瞬には、耕一郎に連絡する気はあった。しかし、明日が明後日に、明後日が明々後日になるうちに――。
 精神的にはできてしまった距離をもどかしく思い、どうにかしたい、しなければと自分を叱咤しても、携帯のメモリーを探す手は、勝手に耕一郎の番号を素通りしてしまう。
「食べるか?」
ベッドの脇の丸椅子に腰掛けた途端、父親に菓子の缶を見せられた。

 あの後――みくと別れたその足で、瞬は立川秘書の自宅に連絡した上で訪ね、父親の遺書を読んだ。
 並樹は遺書を書いていた。妻が失った年に初めて書き、後は一年毎、また資産が増える毎に更新していたらしい。
 立川が執拗なまでに彼へ連絡を取りたがったのはその開封を、病院に収容される途中の社長に委ねられていたからだ。
 瞬が、立川という男と顔を合わせるのは、実はそのときが初めてだった。電話の声が若かったので、そうは思わなかったのだが、見た目父親と同年代である。後で知ったのだが、立川は会社創立のメンバーであり、実質的な共同経営者のようだ。ただ、並樹社長の「もし倒産でもして、役づきとしての責任を立川に負わせるのは嫌だから」という考えで秘書という肩書きだが、言ってみれば社長の懐刀に他ならない。
 立川の家は、こちらが苦しくなるほどアットホームな空気が充満していた。――家内です、と言って紹介してくれた女性と、やたら硬い印象の会釈をして二階へ上がって行ってしまった高校生の息子。部活から戻ったばかりらしい学ランの後ろ姿と慇懃なお辞儀が、少し誰かを彷彿とさせるようで、またチクリとくる。
 それら健全なものたちが醸し出す雰囲気に多少気後れしながら、立川とふたりきりになった応接間で差し出されたものを読む。封かんでしっかりととじられた真っ白い封筒には、表にただ「遺書」とブルーブラックの万年筆で書いたきりであった。
 封をするときに苦労しただろうと思われるほど、中身が厚く、書面を取り出すのもつっかえる。

 瞬の相続分は、彼自身が予想するよりずっと少なかった。

 具体的金額が書いていないが、「大学卒業、本人が希望するなら大学院を出るまでの必要経費と成城の家と土地」とだけ。その下に、処分して相続税の支払いに当てるべき不動産が書いてあり、それで完結している。
 現在の経営では会社内のセクションとしている四つの部署を解体し、それぞれに社長を立て独立させる構想が書いてある。それが社長の死後の会社の行方らしい。そのひとつを任せるべき者の名前として、立川が登場していた。
 後は連綿と、自分の持っているものを動産・不動産の別なく挙げ、その物たちの処分の仕方について記されていた。
 すべてに目を通して明らかになったのは、会社自体をひとり息子である彼には相続させないという意志だった。
「…」
瞬は封筒へ、その膨大なリストを戻した。自分へのメッセージらしいものはないのだと思ったら、父親との絆の弱さがそこに表れている気がして、溜め息しか出てこない。
「ひどい遺書だろう?」これを書いたときに同席していて、中身は知っているのだと、立川は笑った。
「でも君に自由な人生を送ってもらいたいだけなんだよ、並樹は」

 そんなことを教えられてしまい、帰り道の街灯が、また瞬の目に霞んだ。

 一日につき一万五千円が入院費に加算されていくこの個室で、瞬の父親は、旅行というまでの開放感はないものの、のんびりとホテル暮らしをしているくらいの気分らしい。
 確かに、つくづく眺めていると、あの日の俺の涙を返せと衝動的に叫びたくなるほど父親の健康は取り戻されている。
「何これ?」
差し出された中を覗くと、茶色の小さな四角い板がたくさん入っていた。白いケシの実がぱらぱらついているだけの、実に素っ気ない食べ物だ。食べたら、口の中でぱりぱりという音がしそうだと思う。
「“松風”」
「…はい?」何を言っているのか分からなくて、思わず訊き返す。
「“松風”っていうお菓子だよ。知らない?」並樹は、ぽい、と自分の口に入れて言った。「立川に和菓子買ってきて、って言ったらこんなものしか持って来なかった」俺は、餡がたくさん入ったくどいほど甘いものが食べたかったのに。
「甘いもの好きなんだ?」
初めて知る、父親の味の嗜好。
 瞬も缶の中身を食べてみた。予想通り、その菓子は他愛のない乾いた音を立て、口の中で砕けている。
「まあ好きなほうかな。俺は酒が全くダメだから、甘いものはよく食うね」
聞いて、瞬は動揺した。
「ああ、そう…」
――確実に、父親と同じ遺伝子が自分にも相続されている。

 

 千里は、健太に指定された店があると思っていた場所で茫然とした。
 1ヶ月前に五人でお茶を飲んでいた店。
 そこへ来た一本の電話の扱いから、少しずつ歯車が噛み合わなくなってしまった、その現場。
 そこで待っているからと健太に昨夜言われたのだが、喫茶店だったビルのテナントが、エスプレッソコーヒーを飲ませるチェーン店のひとつに変わっていたのである。
 客の全員が同じ紙コップを持って店内を歩く味気ない風景を、千里は外から眺めた。
 このひと月という時間の長さを、視覚的に思い知らされたような気がした。遠ざかっていた間に街の風景ひとつとっても、こうして時間は止まることなく流れている。

 あの日から、耕一郎とふたりで会う回数は格段に減っていた。約してまで、学校以外の場所で会うようにしなくなった。
 そのように、彼女は意識的に心がけた。決して耕一郎は悪くない。――何となく、彼が優しいだけでつらくなってしまうのだ。
 別に耕一郎は自分が優しくした代償をこちらに求めてくる訳ではない。しかし、だからこそ苦しくて、何もしてあげられないことが罪悪のように感じられてしまう。
 それが、あの抱擁を無理な笑顔で拒絶してしまった理由なのだと、今なら分かる。

 次々に店内へ、若い女性が連れだって入っていく。それを見送ると、窓に向かったカウンター席に見慣れた二人連れがいるのに気付いた。
 とんとん、と軽くガラスを叩いてこちらに存在を知らせる健太と、少し遠慮がちな視線をくれるみく。
 みくの隣に既に客が座っていて、健太の隣の席が空いているのに少し安堵する。勿論、千里はその空席に座った。
「よ、元気そうだな」
うん、と千里は頷き、みくへ視線を遣った。みくはぎこちない笑顔で挨拶代わりにする。――それに気付いて、本当に私とみくの間に健太がいてくれて良かったと千里は改めて思った。
「びっくりした。お店、ないんだもん」
紙コップで飲むコーヒー。木目細かいクリームの泡立ちは気に入ったが、こんな容器ではよく味が分からない。
 健太は
「耕一郎に連絡してくれたか?」と、懸案だったらしいことをいきなり千里に確認した。
「したよ」
昨夜、健太は恵理奈との電話の後、千里とみくに連絡をとった。――あの畑の道に五分はゆうに立ち尽くして考えあぐねた後、やっと決心して。

 しかし“当事者”には繋ぎをつけていない。それぞれ、千里には耕一郎に、みくには瞬に連絡をしてくれるように頼んだ。

「バイトがあるから遅れるって言ってたけど、ここにちゃんと来るように言ったから」
千里は、健太の賢い平等主義に気付いたが、何も言わず指示通りにした。それをずる賢いとは思わない。むしろ、健太がそうすることを避ける気持ちのほうが理解できるくらいだ。
「バイト?、何の?」
「単発で、“暮らしの法律相談”の受付」
あんまり“らしく”て健太が大笑いしている横で
「それが…ね」
とても言い難そうに切り出し、急に自分に向けられた四つの目に困るようにみくが膝で手を弄ぶ。「私、まだ、瞬に連絡してないんだあ」
「何でしてないんだよ、昨日連絡しておくって言っただろ?」
呆れてみくを責め始めた健太を、横から千里がとうとう睨んだ。
「健太、それ、自分ができないからってみくに頼んだんじゃないの?」
やはり図星らしい。
 途端言葉に詰まる健太から視線を外して、千里は真っ白な泡をコーヒーに混ぜ込んだ。そして、落ち着いてできるだけ優しく言う。「別に、耕一郎は、自分だけ健太から連絡が来なかったとしても怒ったりしないから、できるものならしてみなさいよ」
 でも、自分も耕一郎には告げていないことがある。
 こうしてここで、健太とみくも彼を待っていること、そして、もしかしたら瞬もここに現れるかも知れないことを――。
「いいよ」みくは健太に助け舟を出し、彼の腕を掴んだ。そして強がるふうに笑った。意地になったのかも知れない。「今からかけるから」
 そして、バッグから携帯を取り出すと、健太と千里の目の前で瞬に電話をかけ始めた。ふたりは止めることもできず、驚くしかない。

 

 父親の入院する病院からの帰り道、特に欲しい本がある訳ではなかったが、ひとりの家に帰るのが嫌だった。それで寄ろうとした本屋へ向かう途中の横断歩道で、瞬は信号が変わるのを待っていた。
 副都心の駅出口前のそこには、かなりの人数が立ち止まっている上、駅舎から更にひとが大量に吐き出されてくる。瞬の後方に人垣が幾重にも重なっていった。

 背の高い男が、向かい側に立っていた。

 いくつもの線路を跨いで立体交差しているそこから、オレンジ色の電車が下へもぐり込んでいくのを眺めている。
 濃いグレーのスーツを着ている後ろ姿は一見サラリーマン風だが、彼はランドセルのような蓋つきの黒い四角いカバンを背負っていた。そこだけが何となく、働いている人間の風情ではない。
「…」
混雑した交差点に集まった幾つもの点が、信号が切り替わった途端にアスファルトに押し流され始める。
 向かい側の彼もそれに気付き、振り返り、横断歩道を渡ろうと踏み出した。
 汚い都会のアスファルトに踏み出す、行儀のいいローファーの足。

 行儀のいい、――。

 息が、止まるかと思った。

 瞬は群集の織り成すムーブメントに逆らい、ひとつ息を吐いただけで動かなかった。
 その大きな流れの中にあっても目立つ長身のその男が、瞬の視線のずっと先からこちらに歩いてくる。
 彼はひとりだった。
 瞬は自分に気付かず擦れ違って行こうとするその男の腕を、無言で掴む。
 そして、相手の名前を呼んだ。
「――耕一郎」
随分と口にしていない気がする一言。そう呼んだ自分の声すら幻のよう、あたりの喧騒がすぐさま打ち消していく。
 肘のあたりをとられて振り返った彼は、一瞬何が起こったのか分からず、明らかに眉をひそめて困惑の表情を見せる。
 しかし瞬を認めると、ただ一言
「あ」
とだけ言った。

 偶然だった。
 偶然、耕一郎と会った。

 その事実に笑い出しそうなくらい興奮する。ただ、それだけで上手く言葉を出せない。
 胸がこんなに高鳴るのに、それを表現する方法に戸惑い、もどかしく思う。――そして、このもどかしさすら、再び興奮に回帰していく。そんな今の気持ちによく似た心のあり方に、瞬は何度か覚えがあったが、今はその感情の名前を思い出せなかった。
 信号は瞬の渡らないうちにまた赤に変わり、自動車が流れ始める。瞬と耕一郎の背後に人が溜まってきた。既に、彼がここに立っていた目的は失われている。
「な…何?、その格好」
ボキャブラリーが貧困な、瞬らしからぬ質問に少し耕一郎が笑った。「バイト帰りなんだ、今」

 耕一郎はあの日と変わっていないように見えた。そんなことはあるはずがないと分かっているけれども、外見にごまかされたふりで安心する。
 自分より高いところから見下ろす視線も、すぐに相手を包み込んでくれるような態度ができるのも変わらず、耕一郎のその態度が、自分には心地良くもあり、自分の引出しになくて少なからず嫉妬するのも、そして最終的にそれを隠そうと心がばたつくのも。

「そうか。――」
相槌を入れるだけがやっとの自分に、瞬は焦った。何か言わなくてはと、ひどく集中して思うが、何も浮かばない。
 そうした果てに
「時間、ある?」
と、ナンパの常套句のようなことしか口にできず、瞬は自らを激しく嫌悪した。
 しかし耕一郎は何も思わなかったらしい。左手首の時計を確認した後、
「ついて来ないか?」
と言い、何故かかっと赤くなって口許へ手を遣った。「すぐそこに、千里を待たせてるんだ」
 視線を瞬から外して、俯き加減、そのまま指先を耳の辺りへ持っていく。
「耕一郎」
――どうして彼はこうなのだろう。
 周囲は認めているのに、相変わらず自認はしていないらしい。「それ聞いたら、行く訳に行かないよ」苦笑して言った。「俺はそこまで野暮じゃないつもり」
「しかし…」
耕一郎も、何と言って自分を引き止めたらいいのか分からないようだった。外していた目をじっと据えて、言葉の出ない口を閉じる。
「いや、いいんだ。千里によろしく言ってくれ」
彼がちゃんと自分の目を見て、まだ話し足りなさそうにしてくれただけで充分だと思った。
「また連絡する」
しかし、そう言ってから、真っ直ぐな耕一郎の視線が少し怖くなった。思わず俯きがちになって確認してしまう。「…いいか?」
 ぽん、と、肩に手が来た。
「ああ、待っているから」
「…ん」
耕一郎の背中が雑踏に紛れ込んでしまうのを、瞬はやはりそこに立ったままで見送った。
 別に期待していた訳ではなかったが、耕一郎は一度も振り返らず、その長身は流されるまま流されて、ついには完全に見えなくなった。

 精神が、僥倖に心地良く疲れた。

 その気だるい余韻に浸ったまま、今日のところは帰ろうと思い、瞬は途切れることなく押し寄せる人波を掻き分けて、駅を振り返った。
 駅の中、改札へ定期を通す寸前で、携帯に着信があった。列を離れて応答する。
「…瞬?」
繋がったのが驚きだというような、息を飲む声だった。それでも瞬にはすぐに誰なのか分かる。「みくか?、どうした?」
「あのねえ、これから暇かなあ?」随分と、彼女にしては遠まわしな誘い。
「いいよ」
雑踏は、瞬の目の前で絶え間なく、彼が通ろうとしていた改札を潜り抜けて行く。まるでそこからが別世界のような、無機質な動きが繰り返されている。
「――会ってくれるか?」
今日、耕一郎に一瞬だけ出会ったのだと、彼女に教えようと思った。
「うん。でも、それがね…」
嬉しそうに飛びついてくれるかと思ったのに、みくはまだ、何かに遠慮するような声で続ける。
「健太と千里も一緒なんだあ…。それでもいい?」
 どきん、とした。
「えっ、千里がいるって?」

 すぐに思い出せる、先ほど別れたばかりの友人の、照れくさそうな、少し嬉しそうな仕種。――「ついて来ないか?、すぐそこに、千里を待たせてるんだ」

「行くよ。みく、お前どこにいる?」

 偶然という、ひとの持つ時間の直線が複数重なる事象。
 この世の中に起こることは頻繁ではないが、ままあることではある。――幸福な影響力を持って。

Fin.

 

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