根拠なき自惚れと乙女心

 

 新宿に向かう電車は、一両に数人の人間がくたびれた様子で座っているだけ。最終に限りなく近い時刻の列車は空いていた。
 瞬の自宅まで裕作を背負って行った帰り道である。成城から小田急線で多摩方面に出て、京王相模原線に乗り換え、今、遠藤 耕一郎は家路についている。
 暗闇を向こう側にした車窓に、自分の顔が映っていた。
 …。
 静かに目を閉じると、千里の言葉が思い出されて胸を抉ってくる。
 確かに弁護士になるには司法試験を通らなければならない。自慢じゃないが、彼女が言った通り勉強に勤しんではいる。
 しかし、そのことに対して何も考えていない訳ではない。
 何も、どころか、最近の自分は考えてばかりであり、その迷いの中で、とりあえずやらなければならないことはやっておこうという、不真面目な量見だと言ってもいい。

 自分たちが高校を卒業した頃に、裕作は閑職に異動を希望した。
 彼自身の知己もないだろう海外の、日本に比べたら四季の区別もなさそうな島。その豊かな自然を管理する事務所へコンピューター一式を設置しに行く仕事であった。
 彼の希望通り、それは叶えられたが、早川 裕作という人間の才能を考えれば、理解不可能な人事であった。
「どうして今更そんなことをしたいんですか?」
ほとんどケンカ腰で抗議した自分は、裕作の本当の気持ちを理解していなかったのだと、今なら分かる。
 幼かった耕一郎に、裕作が笑いながら答えた、その言葉。――「うーん、科学って何なのか分からなくなったからかなあ」
「何を言っているんですか、それを模索するのは、最先端にいてもできることでしょう? 俺なんかが言っても聞いてくれないと思いますけど、絶対 裕作さんは月に残るべき人材なんですよ」
「うん。耕一郎の言うことなんか聞かない」
「裕作さんー…」
泣きそうになった自分を抱き締めて顔を上げたとき、裕作の顔はいつになく屈託していた。
「そんな顔するなよ。俺もまだ迷ってるんだ。決心鈍っちまうだろう?」
「…」
「確かに前線にいた方が先々いいとは思う。引き止められてるのを振り切るなんて、サラリーマン科学者の身過ぎ世過ぎの仕方としちゃあ最悪だ」
「なら…」
「今回さ、俺、身につまされる思いだったんだよ」
「?」

「俺、このままなら簡単に第二の鮫島博士になれる」

 自分の志す科学に溺れた鮫島博士。
 自ら省みることをせず、考えを曲げず、その過ちを久保田博士によって目の前に突きつけられ、現実のすべてから逃避したひと。

 逃避した先で、現実への復讐の刃を砥いだ。

「あのひとは、裕作さんとは根本で違っているじゃないですか」
すかさず切り返される禅問答。
「根本は科学者で、俺とあのひとは同じなんだよ」
 彼と裕作に共通するものは、天才故のナルチシズムなのか。

 それとも、何か他のこと?

 ――耕一郎は目を開けた。
 当たり前だが、やはり流れる風景の上に自分の顔が映っているままだ。
 自分も今、かつては信じていたものを疑いだしている。
 裕作が、自らの人生を決めた科学を疑ったように、耕一郎は、正義というものが何か分からなくなってしまっている。

 正しいこととは何なのか。

 何をもって、それを正しいとするのか。

 それは法律を知れば知るほど、判例を読んで理解すればするほど引きずり込まれる深み。

 すっかりはまってしまった、六法全書の闇の中。
 しかし耕一郎は、そんな自分を誰にも言えないでいた。
 こんなことを誰かに言えば、その告白を受けた相手はたぶん困って苦笑いしてしまうだけだろうから。
 ――自分が身をもってしたことが正しいことだったはずなのに。
 身体が思うままに行動できた“あの”状況と、文面で論理的に構築された法曹の世界の違いに戸惑っているだけなのだ。しかし――

 …俺が、甘かったんだろうな…。

 溜め息すると、そこはもう自宅の最寄駅。
 降りて時計を見ると、十二時十二分を回り、既に日付は変わっていた。

 …俺はどうして弁護士になりたかったんだ?

 

 翌日のメールチェックで、裕作が月から寄越したメールに気付いた。

 ――耕一郎、昨日はどうもありがとう。
 瞬に聞きました。俺なんかを背負って、重かっただろう?
 しかしタクシー代を俺の財布から抜いているあたり、全くちゃっかりしてるよなあ。こっちに来て財布を開けたら、減った金の代わりに領収書が律儀に入ってて、ちょっと面白かったけど。
 昨日は、耕一郎が高校生をあまりにも鮮やかに脱却していたのに驚いた。
 時計で時間を確認する神経質な仕種をしてくれなければ分からなかったほどです。それは悪い意味じゃなく、単純に、カッコ良くなったなって言ってるんだよ。

 耕一郎を見て、俺は自分が大学に入学した頃のことを思い出しました。
 今はこんなでも、高校の頃は耕一郎よりも融通のきかない優等生でした。自分でいうのもなんだけど、志望大学に合格するために夜となく昼となく勉強をしていました。
 めでたく合格はしたけれど、俺は燃え尽きてしまい、入学して半年は大学で自分のやりたいことを見つけられずに過ごした。その点、耕一郎は目標もしっかり定まっているようで安心です。
 そして俺が入学した当時、学内は、メガスーツ理論の久保田教授支持と遺伝子改造理論の鮫島教授支持に二分している状況で、だからこそ世間で話題のふたりの講義はそれぞれ毎回満員御礼だったっけ。
 その論争の結末として、鮫島教授のお嬢さんが、教授によって施された遺伝子操作手術がもとで亡くなるということがあって、その後の両教授の行く末は、耕一郎も知っている通りです。
 ドクターに上がる前に、久保田教授…その時は大学を辞めていたから「博士」だな…が声をかけてくれて、俺は月に行くことになり、現在に到るわけ。
 どう?
 こんな俺にも歴史はあるのよ。

「…」
 耕一郎は吐息して、椅子の背もたれに寄りかかった。――俺も、今や目標が定まってる訳じゃないんだが。
 しかし、自分より融通のきかなかったという人間が、今や融通のきき過ぎるようなひとになったのはどうしてなのだろう。最大の謎だが、そのことに裕作は全く触れていない。
 それを尋ねるのに返事を書こうと思ったら、追伸に気付いた。
 それは、裕作が歯を見せて笑っている様子が目に浮かぶような文章だった。

 ――千里ちゃんて、あんなに美人だったっけ?
 高校ん時は、彼女のようなタイプはしっかりし過ぎるところが敬遠されてただろうけど(笑)、学生になってからはライバル多しと見たぞ。
 頑張れ、耕一郎。

「…どう頑張れっていうんですか」

 

 大学という最高学府に吹く自由の風は、堅物で通っていたはずの遠藤耕一郎の精神さえも解き放ったようだった。
 相変わらず真面目に勉強をしているのだが、何となく余裕が出てきた感じがする。

 少なくとも、千里には、この二年間の彼はそう見えていていた。

 高校の時よく見せた、悲壮感漂うまでの苦悩の顔とか、切羽詰った半泣き顔などはしなくなった。――そんな顔をする状況に追いこまれることが全くなくなったのだから当たり前だが、怒った表情すら今は懐かしく思う。

 夕方の大学最寄の駅で、千里は耕一郎を待っていた。
 約束の時間を五分ほど過ぎたところで千里が視線を上に上げると、耕一郎がこちらに向かって歩いてくる。
「耕一郎にしては遅かったね」
「いや、申し訳ない」
千里は、彼が遅れてきた理由を聞きたかったが、耕一郎は言わなかった。彼のことだから、済んだことには何を言っても言い訳になるとでも思っているのかも知れない。
 今日は、一応定例会として集まる予定だったが、健太とみくからはあらかじめ欠席すると連絡があった。
 健太はレポートの提出が近くて、ばたばたしているらしいし、みくは短大から四年制に転入する試験の準備である。そして、
「耕一郎、瞬からさっき電話あったよ。来られないって」
「…えっ?」耕一郎は絶句した。
 それを狙ったかのように、耕一郎の携帯にショートメールが入る。

 これは俺の粋な計らいです。瞬。

 ――粋でも何でもないぞ。
 耕一郎は、先を歩く千里の後ろ姿を見て溜め息した。
 どうして、みんなはこういうことをしてくれるのだろう。
 自分の中では既に凍結していて、決着をつけたつもりのことなのに、未だに周囲はそう思ってくれていないらしい。
 だいたい、今更言い出してどうなるのかと思う。
 自分の気持ちを解き放つよりも、五人の和をこのままの状態で保ちたかった。“選ばれてしまった”あの時に、保たなくてはいけないとも思った。そして状況は変わったが、耕一郎の方針は今も変わらない。
 最も、告白するような勇気がないのも事実であるが。――
「せっかくだから、ふたりでも一緒にご飯食べよう。同じ学校だけど、毎日会ってる訳じゃないんだから。ね?」

 不意に千里が振り返る。そのとき、やはり耕一郎の心臓が跳ねた。

 ――本当に諦めの悪いヤツ…。
 耕一郎は心の中でそっと吐息するしかなかった。

 そのまま、ふたりが迷うことなく入った店は、待ち合わせた駅前からそう遠くもない和食の店。場所柄、大学生相手だから酒も出すが、値段は張らない。
 注文したものが来て、食べ始めて間もなく、
「遠藤、彼女、誰?」
千里の知らない誰かが、耕一郎に向かって彼女のことを訊いた。目が明らかな誤解の色を浮かべている。
 耕一郎が一瞬、千里の顔色を見た。
 彼は友人の出現にどっきりしたのだが、千里は別段どうということもなかったらしい。相手に向かって、少し警戒したような目だったが会釈している。
 黒い縁の眼鏡をかけたその男は、遠慮のない視線で千里を眺めたままであった。
「高校の時の同級生だ」
 これ以外に答え方が思い浮かばなかった。それに、千里が他の返答を望んでいないような気がしていた。
「それだけかあ?」
あーっはっは、と、笑いながらバンバン耕一郎の背中を叩くそのひとは、一見豪放磊落なようだが、眼鏡の奥に抜け目なさそうなものを隠している。
 耕一郎が彼をどう思っているのか知らないが、彼の中では遠藤 耕一郎はライバルという位置付けでありそうだ。
「うるさいぞ、お前。早く行け」
まだ何か言いたげな友人を奥へ押し込む。早く何もなかったかのような空気に戻りたかった。
「彼も法学部なの?」
「そう。あいつは国家公務員志望らしいが」
「ふうん…」
耕一郎の思惑とは裏腹に、千里の心には、いつまでも軽い反抗が残っていた。
 高校の時の同級生だというのは本当。――だけど、自分たちの間には、それだけでは表現できない積み重ねがあると思っている。
 勿論、それをいちいち他人に説明することは不可能だと分かってもいるけど、耕一郎の態度はあまりに素っ気なくて、千里には物足りなかった。
「どうした、千里?」
やっと、頬杖をついているのに気付いてくれたらしい。でも彼は箸を置かない。
「…何でもない」
何でもない、という顔ではないとは思ったが、敢えて耕一郎は何も言わなかった。

 ―― 千里ちゃんて、あんなに美人だったっけ?

 美人かどうかという尺度で彼女を見たことのなかった耕一郎は、裕作のメールを思い出して、そんな見方もあったのかと思って、改めて眺めた。
 睫毛が長いと思った。店内の暗めの照明でも、目許に影を落としている。
 その耕一郎の視線をどう受け取ったのか、ふくれていた千里が急に、にっ、と笑って、つやつやしたルージュの唇が弓なりになる。
 この彼女のくるくる変わる表情を、素直に可愛いと思えたら尚更、言い出す気には全くなれなかった。

 ――頑張れ、耕一郎。

 やめておきましょう。それが賢明です。
 心の中で何度繰り返したか分からない諦めの言葉を、またもう一度繰り返せば済むことである。

「おまたせしました。コーヒーはどちらのお客様ですか?」
「僕です」
食後に持ってきてくれるようにしていたコーヒーが、耕一郎の前に運ばれてきた。千里の手元にもダージリンが置かれる。

 彼と向かい合ってお茶を飲むと、千里にはひとつ思い出すことがある。

 高校の時に、見合い話を持ってきた祖母を追い返すために、耕一郎を彼氏に仕立てて一芝居打ったときだったと思う。
 いわゆるデートスポットである臨海副都心のショッピングビルの中、カフェテラスで向かい合って座った。
 こんなことにつき合わせてごめんね、と言った自分に対して、彼は言葉を選び始めた。
 ――…でも、俺は…。
 その揺らいだ瞳の中に、いつもと違うニュアンスが確かにあった。
 ――いや、飲もうか。
 その言葉の先を目で促した途端、矛先をテーブルの飲み物に変えたあのときの耕一郎は、本当は何を言いたかったのだろう。
 考えがそこまで行きついて、千里の胸は何故か痛んだ。

「送って行く。帰ろう」
思い切って耕一郎が言った。確かに食器は既に下げられていたし、食後のコーヒーでかなり居座っている。
「耕一郎、これから何か用事あるの?」
「いや、そんなことはない」
「じゃあ、私、バイト代入ったから、ライカのデジカメ買いに行くの付き合ってよ?」
彼女は中学生の家庭教師を、週に一度務めている。教え方が上手で、生徒の親からの信用は篤い。
「…はいはい」と、耕一郎は承諾した。
「面倒なら、別にいいよ」
城ヶ崎 千里というひとは、こういう物言いをするのだ。彼女には悪気も何もないが、相手を多いに動揺させたりする。悪気がないだけ始末が悪いのだが、耕一郎はさすがに慣れた。
 半分笑って、
「付き合わせていただきます」と言えばいいのだ。
「ありがとう、耕一郎」
「ん」
特別想われていたいとは思わないし、何気ないまま、彼女との時間が過ぎるのは決して悪くない。
 自分には欲がないのだ。
 リスクを負うよりは、現状を維持する方をまた望んでしまった。

 耕一郎と千里がふたりで会って数日が経過した。
 日に日に冬の色が濃厚となり、年の瀬も近くなったある日のことだった。
「遠藤くん」
放課後の図書館は、まだ後期試験に余裕がある時期なので空いている。
 その、ひとも疎らなエントランスで耕一郎に声をかけたのは、彼と同じクラスの女の子だった。
 大学にも一応クラスというものは存在するが、それは組織運営上の一定人数の単位であって、高校までのような強い結束はそこにはない。現に耕一郎は彼女の顔を知ってはいても、名前を知らなかったくらいだ。
 そして勿論彼は、彼女がここに彼を待ち伏せていたことも知らない。
「はい?」
「あの、聞いたんだけど、遠藤くん彼女いるの?」
性急な質問である。
「はい?」前言とは違うニュアンスで聞き返した。「誰がそんなこと――」
果たして彼女が答えたのは、先日、彼が千里と食事をしているときに声をかけてきた友人の名前である。
 …あいつ、余計なこと言いやがって…。
 うんざりした。
「いや、違う」
と言ったきり、耕一郎は何も言わなかった。釈明する必要がないと思ったからそうしたのであるが、彼女はその沈黙の裏に何も読み取れなかったらしい。
 更に耕一郎に詰め寄って彼を見上げた。思わず一歩下がる。

 何だか、彼にとって身に覚えのある状況になってきた。

「遠藤くん、あのね、本当に彼女がいないのなら、私と付き合って」

 千里はびっくりした。
 びっくりして、気付けば耕一郎がいた正面玄関を避け裏口から出ていて、しかも健太に電話をしていた。
「千里?――どうした?」
彼女は、ゼミの入室試験が近い耕一郎が図書館にいるのを知っていて、自分も専攻分野の授業での発表資料を作らねばならず残っており、帰りに声をかけようと思っていたのだ。
 あらかじめ耕一郎に連絡をしていなかったから、このような思いがけない場面にでくわすことになってしまったのであるが。――
「あ、あのね…」
無意識に電話したのだから、いきなり意識世界に戻って言葉を紡ぐことができないのは当たり前である。千里がしどろもどろしていると、
「俺も電話しようと思ってたの。マクロ経済学のレポート手伝ってくれない?」と健太のほうが言ってくれた。
 健太は家の八百屋を継ぐつもりらしく、現在は経営学部に進学している。
 彼が現在通う大学のその学部は受験科目に数学があり、浪人していた一年は耕一郎と千里が交代で面倒を見て、センター試験が済んで瞬がアメリカ留学から帰国すると、三人でローテーションを組んで、二次試験の勉強をさせたものだった。
「私、文学部なんだけどなあ…」
「いいからいいから、あと、簿記の課題なんだけど、電卓打って欲しいものもあるし。それは、俺の読んだ数字を千里は計算すればいいだけなの」
相当に切羽詰っているらしい状況は伝わってきた。
「なんで私がそんなことー…」
「だって、耕一郎は電源切ってるし、瞬はみくを怒らせてて、みくは泣いててさあ」
千里にはさっぱり分からないが、健太は最後に駄目押しの一言で締めくくる。「手伝ってくれたら焼肉おごるからさあ、お願いっ」
 あんたが食べたいだけでしょう、と突っ込みを入れたが、千里は家にそのまま帰る気にもなれず、手伝うことを承知した。

 健太の家に向かう電車の中。
 携帯の着信に気付いて出てみると、
「うわーん、ちさとぉぉぉおお」
みくだった。さきほど健太が言っていた通り涙声である。
 千里は次の駅で降りて話を聞くことにした。
 混雑していた電車からホームに下りると、冬の気温が彼女を一斉に取り巻く。
「で、瞬がどうかしたの?」
あたりは帰宅のラッシュの最中、住宅街にあるこの駅はたくさんのサラリーマンが降り、改札口に向かう下り階段へ流れて行く。
 その中に紛れて、千里はホームのベンチに座った。
「あのねえ、あのねえ…」
聞いてみれば、みくが取り乱しているのは千里にしてみれば些細な、取るに足らないようなことだった。

 瞬が、待ち合わせの時間に遅れてきたというのである。

 やりたいことを探しながら学校に行く女子短大生のみくと、将来を見据えて芸大に行っている瞬と――。
 口には出さないが、会ってもらっているだけでいいということにしなければいけないような気がした。
「何よ、そんなこと?」意識した訳ではないが、棘のある声が出てしまった。
「そんなこととは何よう」
みくには異議があるらしい。泣き声が、千里につられたのか、俄かにいらいらしたものになる。
「だって、遅れただけで、ちゃんと来たんでしょう。それなら、みくが気にしなければいいだけの話じゃない」
「やだっ」
やだっ、て何?――千里はひとりで頭痛のポーズをした。「そんな小さなこと許せるはずでしょ?」
 その時、各駅停車のこの駅を、特急が通過するというアナウンスが入った。
 夕暮れ色の線路を、大学の方向に視線を向けると、確かにライトが近づいてくる。

「好きだから許せないんだよ。どんな小さなことだって気になっちゃうよ」

みくの悲痛な声が千里の耳に届いた直後、光芒が通り過ぎ、スピードを緩めずに電車がホームに入って来て、轟音があたりを覆った。
 通過の余韻を孕んだ風がすっかり止んでしまうと、携帯の通話は切れている。ツーツーという音が虚しかった。

 ――…。

 電話を投げ出して泣いている親友の姿が目に浮かぶようで、千里は耳から携帯を離すとただ見つめた。

「千里はほんとのところ、耕一郎のことどう思ってる訳?」
尋ねられた千里は面食らったが、健太は茶化すのでも責めるのでもない口調である。実際、彼には、こんなことはどうでもいい問題だ。
 このふたりがどうなろうと、健太にとっての耕一郎、千里のそれぞれの重みは全く変わらないと分かっているからである。
 “頭がいいけどバカ”なふたりが、彼の心ではこれからも変質することはない。
「いいやつ」
だから、極めて正直な千里の返答を聞いても、健太は視線を焼き網の上から外さなかった。
「ふうん。――耕一郎は、どうでも“いいやつ”か」
 何気ない健太の一言は、物事を達観していた。
 絶句した千里を前にして、健太が大声で笑う。
「だってそういうことだろ? 俺、『伊達くんて、いいひとなんだけどね』って言われて何度も振られたことあるもん。“いいひと”っていうのは、“どうでもいいひと”のことなんだなって俺は思ってたけど?」
 健太が網の上に載せたカルビの脂がゆっくりと溶け始める。
「そ、そんなことないよ。健太、そう考えるのって極端じゃない?」
「極端じゃないよ。潔いって言って欲しいなあ」
「そんなの潔さなんかじゃない」
「じゃあ振られたら、どうしたらいいんだよ。どう思ったらいいんだよ。はっきり言って、いいひとなんだけど、って言われて納得するヤツいないぜ? いいひとだと思うなら付き合ってみてよって思うよ」
ただならぬ力説に、千里は気付いた。「どうしたの、最近振られたの?」
「そう」
うわあーっと手を目に持っていった健太の頭を、千里は笑いながら撫でてやった。
「よしよし。今日はご馳走になるけど、今度は私がおごってあげるからね」
「その言葉覚えてろよ」
いい具合に焼けてきたのをトングでつまんで、健太が言った。「千里お前、いっぱい焼いた方が好き? レアでも食べれる?」
「…ミディアムレア」
そこで、健太が千里と意図的に目を合わせた。こう答えるのが彼女らしいな、と思ったのである。そして彼は、にーっと笑い、
「あい。元気出してねん」と、彼女の取り皿へ肉を載せてくれた。
「ありがと。…私さ、元気ない?」
「ない。――なあ、その子可愛かった?」
「うん」
髪の毛の長い後姿。裾の長い、細身の赤いダッフルコートのシルエット。バケツ型のヴィトンを持っているあたり今風の娘だが、大きな瞳が素直に耕一郎への慕情を持って、彼を見上げていた。
「耕一郎良かったなー」
「ねえ、健太?」
「うん?」がつがつ、飯を口へ入れているので、目だけ千里のほうに向けている。
「耕一郎って、けっこうもてるんだねえ」
肉から脂が落ちて、炎と煙が上がった。
「俺たちくらいじゃないの、そんなこと言ってるのは。俺たちはいい意味でも悪い意味でも耕一郎を知り過ぎてるからなー。特に口うるっさいとことかさあ、カッコ気にしないとことか。――千里、牛タン美味いぞ」
「…焼けたはしから自分で食べて、私にくれないくせに」

 何だか急に、今まで当たり前だったことが取り上げられたような気分になる。

 他の人よりも頭ひとつ抜けている長身も、いつも庇ってくれた広い背中も。――見慣れていたはずのものは、高校を卒業した瞬間から確実に遠ざかってしまったのだと、彼女はやっと気付いた。

 今更自分は過去をいとおしんでいる。
 そしてそんな感傷に浸っているのが、自分だけのような気がして、突然人ごみに放り込まれた子供のように、心だけが立ち尽くす。
 それから健太は、八百屋の配達用のカブに千里を乗せて、駅まで送ってくれると言う。千里は有難く、健太の厚意に甘えることにした。しかし、
「健太の後ろじゃ、ローマの休日とはいかないなあ」と憎まれ口を忘れない。
「お前、そういうこと言うなよ」
彼は傷ついた表情をヘルメットに隠した。
「何で?」
「『伊達くん、とってもいいひとなんだけど、雰囲気がないのよね』って言われたの」
確かに、と口に出したいのを、千里は必死に飲み込んだ。「嫌だな、気取りのないとこが健太のいいとこなんじゃない」
 住宅街の街灯は、道幅の狭いアスファルトに銀色の光を落として、見るからに寂しい。ぶつかってくる風の中、千里は顔を上げた。
 今日は景色が流れるのさえ、いちいち彼女を感傷的にさせる。
「…」
 自分の背中で黙ってしまった千里に気を遣ったか、健太が
「千里、星キレイだぞ」と言った。
彼の言う通り、月の出ていない空にはいつもより星がはっきりと見える。昨日、少し雨が降ったので、余計空気が澄んでいるからだろう。その星空のドームが、そのままふたりを追いかけてくる。
「ほーんとだあ。――健太ー?」
「あー?」
「ありがとねえ、今日ー」
「いいよー、次ほんとにおごってもらうからなあ?」
 …いや、そういうことじゃなくてね。
 健太の背中に少し笑った。心地良いカブのエンジン音が背景に流れていた。

 北に景色の開けた丘の上で、一眼のレンズを空に向けて開け放つ。
 こうすると星の光芒の軌跡が焼き付いて、よく教科書や天体図鑑で見ることのできる、星の動きそのままの写真が撮れる。
 北の空の天体が同心円を描くのが特に彼女は好きだった。今夜も北に向かって三脚を立てている。
 千里は家に学校の荷物を置き、防寒の支度をすると、また外に出て来たのである。写真を撮りに行くと言えば深く追求しない両親もこういう場合特に有り難い。――ひたすら、自分の部屋にひとりでいたくない。理由はそれだけだった。
「…寒い…」
もう手は、手袋をしているのにかじかんでしまって、思うように動かない。
 中空のオリオンが、凍える千里を面白げに見下ろしていた。

 日付が変わろうという時刻になって、カメラを見張っているのにも飽きてしまい、彼女はポケットから携帯を取り出した。
 現代大学生の必須アイテムのようになってしまった感のある携帯電話であるが、彼女が持ったのは一年生の終わり頃だった。その頃、デジタイザーを返却する話があったのである。
 久保田博士が組織内で奔走して、ようやく実現した結果らしいが、千里は正直手放したくなかった。
 重大責務から解放される晴れやかさのようなものは全くなく、それよりも、自分が最も信頼を寄せるひとたちとの繋がりが切れるような心細さが強くあった。
 その気持ちを正直に耕一郎に言ったら、彼は極めてにこやかにこう言ったのだ。

 ――これだけが、俺たちが今まで築いてきた信頼関係を表すすべてではないはずだ。見えない繋がりのほうが変わらないし強いと思うが、違うか?

「…」
退屈しのぎだと、千里は自分に無理矢理理由をつけて、耕一郎の携帯にショートメールを送った。

 その頃耕一郎は、自宅の自室でサッカーボールを腹の上に置き、ベッドにそっくり返ってぼんやりしていた。
 耕一郎が入室試験を受けるつもりの刑事訴訟法のゼミは、最も競争率が高い。勉強しなければと思うが、今日は全く集中力がなかった。
 あの後――図書館で、女の子に告白されたあの後――彼は、あの子を泣かせてしまった。そのことを思い出すからだ。
「…」

 こんな俺のどこがそんなに気に入ってくれたのか、分からんなー…。

 家族はとうに寝ていて家全体は静まっている。その静寂を打ち破って鳴る、ビートルズの“Let it be”に飛び起きた。瞬が耕一郎に黙ってセットしたメール着信を知らせる音である。

 勉強は進んでますか? 私は今日、健太に焼肉をおごってもらいました。千里。

 一瞬だが、彼女が現在いる場所と自分のいるここが繋がったのだ。そう思ったら、甘く胸が疼いた。目を閉じて溜め息しても、その痛みが逃げない。
 耕一郎はそのまま彼女の携帯にかけた。
 彼とて特に用がある訳ではなく、まして今日の出来事を訴えるつもりもなかったが、無機質の文字メールでは物足りず、声が聴きたかった。
「耕一郎、どうしたの?」
千里は、自分からメールを送信したくせに驚いているようだ。
「健太は元気だったか?」
「うん。――耕一郎、もう寝ていたでしょう、気にしないで。特に用事はないんだ。ほんとにごめんねえ」
とすぐに切ろうする。寂しそうに笑い声が混じっていて、耕一郎は慌てた。
「千里っ」
思わず大きく呼びかける。
「――まだ寝ていない。それに」
 彼は、まるで千里を目の前にしているかのように、きっちりベッドの上に座り直した。「…話したいこともある」
「何?」
耕一郎は詰まった。千里の平然とした声を聞いているうちに胸がさし込んでくる。
 彼女にとっては、自分は、それこそ平然と言ってのけることのできる事柄なのかも知れない。そう思ったら、耕一郎の気持ちはつらいとか、悲しいとかいうレベルを越えてしまって、もう歯噛みするほど悔しくなった。

 どうして自分だけがこんな想いをしなければならない?

「千里、俺は…」
言いかけたところに千里の声が無理矢理被さってきた。「ほんとにごめんね。こんな時間に電話しちゃって。気にしないで。焼き付くの、ただ待ってるの暇で…」
 彼女が話を逸らしたのは明らかだった。
「おい、待て」――“焼き付く”…?
「耕一郎、もう寝てよ。気にしないで」
何かが通り過ぎる轟音がして、彼女の言葉はそれに途中から打ち消される。
 彼女の背後が再び静かになった。
 耕一郎は、急に時計を見上げ現在時刻を確認すると、猛然と出かける用意を始めた。
「そこから動くな。俺が今からそっちに行く」
時計は十二時十二分だった。

 繰り返した「気にしないで」という言葉。
 耕一郎への気遣いなのか、それとも自分を納得させるためだったのか、千里は分からなかった。
 しかし、繰り返せば繰り返すだけ、耕一郎が自分に気を遣ってくれるのは分かっている。
 千里は情けなくて溜め息した。耕一郎の存在を当たり前ではないと自覚しても尚、彼に甘えている自分がいる。
「もう帰ろーっと」

 ――そこから動くな。俺が今からそっちに行く。

 でも、来るはずないよね。
 千里は自分が今どこにいるのか、耕一郎には告げなかった。
「…」
ベンチから立ち上がって、カメラのレンズを閉じようとした、その時。

「おいっ」

 声のした方に視線をやると、黒いコートがこちらに向かって、コンクリートの階段を駆け上がってくるところだった。軽快な足取りのそのひとは、水銀灯に照らされた踊り場で立ち止まり、こちらを見上げた。

 耕一郎だった。

 つかつかと千里の座っている前まで来ると、腰に手を当てての仁王立ちである。これは久し振りのシチュエーションだなあ、と思った途端、案の定、
「こらっ、こんな夜中にどうして外に出てるんだ。女の子がひとりで危ないだろう」
ときた。
「写真撮ってたの。星空の写真は夜にしか撮れないし、私はそこらへんの変態なんかよりずーっと強いから大丈夫だもん」
それはそうだと思い、耕一郎は一瞬ひるんだようだったが、
「そんなことを言ってるんじゃない」
態勢を立て直した。
「じゃあ何なの」顎を上げる精一杯生意気な態度で、千里は耕一郎に言い返した。
「こんなに俺のうちの近くなら、始めから言ってくれれば付き合ったと言っている」
 彼は浅い溜め息で眉間の皺を解いた。諦めたのだろう。そして照れているときに見せる、眩しそうに目を細める笑顔になり、缶コーヒーを手渡してくれる。
「何で?」
受け取った缶の熱さが手袋を通して沁みてきた。
「何がだ?」
彼は当たり前のように、あっさりと千里の隣に腰掛けた。
 慣れているはずの彼の仕種にも、千里の胸はいちいち騒ぎ出す。――彼は、図書館の彼女にどういう返答をしたのだろうと思いついて、また心が落ち着かなくなり、
「何で私がここにいるって分かったの?」
挙句、声が上擦ってしまった。
 耕一郎は今いる場所から住宅街を俯瞰する。そこには線路があり、彼の自宅の最寄駅が照明を点けたままあった。真っ暗な中に、それだけがぼんやり浮かび上がっている。
「電車が通り過ぎた音が聞こえたからな」
先日、裕作を瞬の家に送ったときに耕一郎が乗った電車である。あの時、何気なくホームで腕時計を確認したのを覚えていたのだった。「駅の近くだと見当はついたが、あとは勘だな」
「前もこんなことあったね」
事情があって、みくが部室に無言電話をかけてきたのだが、背後の音楽で彼女の所在を当てた耕一郎だった。それは二年前のクリスマスイヴのことだ。
「懐かしいな」
彼の呟きは簡潔だが、すべてだった。
 耕一郎は膝の上に置いていた手袋の手を、俯き加減で見つめたまま無言になる。
 来たのはいいが、だから何だという状況になってしまった。こういう時、彼は自分の不器用さが恨めしくてならない。
 沈黙を破ったのは千里だった。
「もう…」
すっ、とふたりの間に風が吹き抜ける。彼女はそれを見送るふりで、耕一郎から視線を外した。「こんなことしてくれるから、自惚れるんだよ、私――」
「自惚れの強いほうがお前らしくていい」笑いを含んだ声である。
「…」千里は少し耕一郎に近づいた。
 何だ?、と耕一郎が目を見開いたのへ、はにかんだ笑みを返して
「じゃ、自惚れてようっと…」
彼の右腕にしっかりと掴まってやった。
 耕一郎は怯えるような驚愕の表情で彼女を見返す。「ちっ…千里?――おい…」
 心臓が口から出そうになって慌てているのに、千里は笑って全然相手にしてくれない。

 溜め息をつく。――もう、いい。

 疲れた、というのが正しいのかも知れない。無邪気な彼女を見ていて、何かをずっと我慢してきた自分を許そうと不意に思えた。
 特に想われたいとは相変わらず思えない。ただ、想っていればいいのだ。
 無言で、耕一郎は自分の腕を彼女から取り上げた。そして改めて千里の肩を抱く。

「ずっと自惚れていろ」

 大きな手が彼女の細い肩先をすっぽりと包み、彼の肩口に引き寄せる。
 千里が間近から見上げた耕一郎の横顔は、やり場のない恥ずかしさに目を閉じていて真っ赤だが、唇の端を満足そうに少し上げていた。
 彼女は結局、放課後の図書館のことを訊かなかった。今は尋ねなくとも、耕一郎との見えない繋がりを信じていられる。

 ほんの少しだが、前よりは確実に――いや、たぶん…大人になったはずの耕一郎である。

 後日。
 何故か、月面の早川 裕作から、耕一郎をからかうメールが来た。

 ――耕一郎、お前、可愛い女の子から告白されたってなあ。いいなあ。俺も気付けばもう二十七で、こないだ実家から結婚どうするのって訊かれちゃったんだよ。

「…どうして裕作さんが知ってるんだ…?」
 あの日、自分の背後に千里がいたことも、千里が健太に言いつけたことも、健太がやっと使えるようになったパソコンで裕作にメールを出したことも、耕一郎の預かり知らぬところであった。

Fin.

 

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