Love can go the distance

 

 ――進路希望調査ねえ…。なあ、みんなは将来何になりたい訳?
 ――弁護士。
 ――私、ジャーナリスト。みくは?
 ――好きなひとのお嫁さん。
 ――だって、瞬。どうする?
 ――…。

 

「やーったーあ!」信じられない、と立て続けに歓喜の声を上げて、みくは炬燵を挟んで向かい合っていた千里に抱きついた。
 しかし、
「はいはい、おめでとう、おめでとう」
千里はうるさそうに、みくの腕から抜け出した。「でもね、袖と前身頃、後身頃を合わせないとセーターにはならないんだよー、もう一息頑張ろうねえ?」
みかんを端に寄せた炬燵の天板へ、編み終わったパーツを並べて眺める。編み目が揃っていて仕上がりはきれいだが、きれいにするのに何度も編みなおしていることを千里は知っている。
「嫌だー。もう毛糸見たくない」
「何言ってるの、自分で決めたことでしょう? 最も、何の仕掛けもないセーターを編むのに四ヶ月かかるのも、ある意味芸当よね」
千里は、四ヶ月前に毛糸を買うのを付き合って以来、今日の編み上がりまで彼女にセーターの編み方を、編み目記号の読み方から教授していた。
「クリスマスに間に合わなくて、今回に持ち越したなんてことは口が裂けても言わないから安心してね」
 キキキキと悪魔のように笑う千里を、みくは睨んだ。そのことについては真実なので反論できず、話題を変える。「千里はー?」
「私が何?」
「明日はバレンタインなんだよ?」
「恋人たちの日だね」と、千里は、芝居がかった台詞を吐き、演技がかった笑みを浮かべた。「もともとは、聖バレンチノが、時の皇帝のキリスト教弾圧に屈せず殉教した日であって、女の子がチョコレートを好きな男の子にあげるっていうのは日本の製菓会社が決めたことだからね」
「そうやって理屈を言う。――あげるひといるでしょう?」
必要以上に詰め寄るみくに、千里は本題を解したようだった。それなのにはぐらかす。「さっき、みくのお父さんに手土産代わりに渡したじゃない、チョコレート」
最近はご無沙汰だったが、しょっちゅう泊まりに来ている千里は今村家の人々には馴染みである。本当に、先ほど、到着早々、
「はい、おじさん。つまらないものですが」と、箱を渡すのを、みくは見ている。
「そうじゃなーい!」みくはイライラして、千里を更に睨みつけた。
「…」千里も、これ以上ごまかしがきかないと見て、「耕一郎のことでしょ?――向こうが要らないって言ったもん」と、平然と言った。
「――耕一郎も本当に何を遠慮してるのよう」
彼女が言っても仕方ないことであるが、みくは恨めしげに千里を眺めた。
「さー、早く終わらせてさっさと寝ないと、ボロボロの肌で瞬に会うことになるよ」
気を利かせて、千里は閉じ針に毛糸を通した。そして、丹念に編み目を数えた後で、
「…みく、袖の編み終わりと身ごろの袖口の編み目、数合わないんだけど…?」
と、呟いた。
「嘘っ、もういやあぁー!」

 

 誰もいない家に戻って、真っ暗な家の照明を自ら点けることには、慣れるともなく慣れた。タイマーがセット通りに作動していて、室内は暖かい。
 瞬は鍵の束をテーブルの上に投げ出して、背中の荷物をソファに下ろす。そこに座っているクマの縫いぐるみの頭にぽん、と手を置いた。「ただいま」
 そして、ジャケットを着てマフラーをしているそのままの格好で、キッチンに行った。 
 冷蔵庫を開けると、今日は週に一度の家政婦が来る日だったから、食材が再びぎっしりになっている。――この半分は、彼が手をつけないまま悪くしてしまうのだが。
「…」
 ミネラルウォーターのボトルと、普段使っているグラスを手に、パソコンを起動した。
 メールをチェックすると、新着が二件ある。
 一件は、耕一郎から定期的に入る近況報告のようなものだったが、彼はここひと月あまり他の四人に会っていなかったので、懐かしくて嬉しい。第一志望の刑訴法のゼミ入室試験をパスしたと書いてある。
 いまひとつは、父親からだった。
 出張とは名ばかりの、ほとんど現地駐在のようになってヨーロッパを転々としている父親からのメールは、今春からは日本に落ち着けそうだというものだった。
 それだけである。元気でやっているか、とか、逆に自分は元気だとか、そんなことは書かれていない。
 以前…いわゆる思春期と言われる時期ならば、こんな文字の羅列でさえ、父親から来たというだけで嫌悪したろうが、現在の瞬は少し微笑することができる。
 遠く離れていても――温もりを感じられるような言葉を仲立ちとせずとも、自分が父親に愛されているという自信が、今は、あるからである。
 近所の犬が、知らない人間を認めたのだろうか、威勢良く吠えている。

 

 高校の卒業式が済んで、瞬がまずしたことは、家が建っていた場所に戻ることだった。
 見慣れた景色の中、最も見慣れていたはずの自分の家が、切り取られたようになくなっていた。家が壊れて、平らになったというよりは、家と瓦礫が交換されたような唐突さである。
 見ただけでは、信じられなくて何とも思えなかったが、土地に踏み込んで瓦礫の上を歩いたら、自分を覆い尽くすような喪失感で急に頭がぐらぐらし出す。
 自分が踏みしめているものの中に、見覚えのあるものの変わり果てた姿を見つけたら、それ以上歩けなかった。

「…」――どうしたらいいんだろう…。

 かすかに残っている玄関のたたきに呆然と座り込んだ。この日の夜は、また川辺の小屋に戻ることを他の四人と約束していたが、その先のことは全く漠然としている。
 日がいい加減に暮れ始め、肌寒くなってきたと気付いたとき、誰かが、座ったままの自分の前に立ちはだかった。
「瞬」
父だった。――瞬がぼんやり顔を上げたのを、いきなり襟を掴んで立たせた。
「何するんだよっ」払いのけたが、今度は両手で掴みかかってくる。
「バカ者! お前まで俺を置き去りにするのかと思ったぞ。親より先に死ぬな」
驚いた。
 言葉の意味がよく分からないが、とにかくすごい迫力だったし、ここまできっぱりと自分にものを言う父親も初めて見た。
 まじまじと、実に久し振りに父親の顔を眺める。自分が父親とだいたい同じ身長だと気付いた。少し自分の顔が彼に似てきたことにも。
「まだ…死んでないよ」
「ああ、そうだな。お前は俺の葬式をあげるまで死ぬな」
 それから父親は三つ揃いのその姿で、がつがつと瓦礫の中を突き進み、いきなり手でトタンやら板やら、使い物にならない家具やらを取り除き始めた。
「…何してんの?」
「ママの遺品を探すんだよ。お前も手伝いなさい」
 死んだひとを慕い続けるには、その気持ちの対象として遺品というものがどうしても必要である。

 ――やっと、先の父親の言葉を理解した気がした。

 このひとも、自分と同じように寂しかったのだろう。そして、その思いをもう一度繰り返すのは嫌なのだ。
 幼い自分に「ママは星になった」とかいう、ありきたりの嘘はつかず、「ママはこれから骨になって、墓の下に埋められるんだ。もう絶対に動かないし話してもくれないよ」とダイレクトに告げた父親だった。誰よりも妻の死を自覚して、辛かったのかも知れない。
 母親の葬式で泣かなかった父親に対して、冷ややかな感想しか抱いていなかったのが、少しずつ氷解する。

「…CD割れてる。――全滅に近いよ」
瞬はどんどん出てくる残骸に落胆するばかりだったのだが、
「音源は誰かが持っているだろう、当てはある、大丈夫だ。それよりも、これとこれだよ」と、父親は無邪気にフルートのケースを持ち上げて、クマの縫いぐるみを抱き上げる。
 フルートは分かる。母親が死ぬ間際にやっと手に入れた名器だったらしいし、その価値は、今、瞬の母親が最後に使ったものだということで、吊り上っている。――しかし、もう一方が分からない。
 茶色いクマ。その顔付きのリアルさで、日本製ではないと分かる。
「何、そのクマ」
「お前を産んでから初めてのリサイタルが、当時の西ドイツだった。ヨーロッパでは、しばしば男の子にテディベアをプレゼントするんだよ。それでママがお前に土産だと買ってきたんだが、見向きもしなかったな、お前は」
母親は瞬に持たせるのを諦めて、すぐに仕舞ってしまったらしい。
「覚えてもいなかった」
「いいよ。俺とママの思い出だから」
「…家が、こんなんなってるのに、よくのろけられるな」
 それからしばらく片付けていたが、父親は自分の会社に顔を出すと言い出し、遺品の次に見つけた金庫の中にあった土地と建物の権利書、自社の株券、印鑑と通帳を持ち、
「じゃあ、また明日にでも連絡するから」
息子を置き去りにした。父親の後姿を見送るのには慣れていたはずだったのに、少し、このときは寂しかった。

 クマを抱き、フルートを収めたケースを携えて、“臨時部室”に戻りかけた頃には、既に真っ暗だった。まだスーツの転送システムはそのままなのだから、変身してサイバースライダーで移動すれば良いのだが、瞬はしばらく歩くことにした。
 普通に歩くということを楽しんでいたのである。そういう何気ない日常が、再び自分に訪れたことが嬉しかったのだと思う。
 住宅街の狭い道路を所々照らす水銀灯の灯りが寒々しい。猫が塀の上にいきなり現れて、その塀の中の犬が吠えた。
 その様子に立ち止まり、身体を塀へ向けると視界の隅に動くものを認めた。

「瞬っ」

何度か連呼して、こちらに走ってくる。そのひとが、みくだとは分かったが、彼女の自分を呼ぶ声がいつものような明るい声ではなかった。
「どうした?」
「瞬っ――」みくは、瞬の目の前まで来て、彼を見上げる。「あんまり遅いから、戻って来ないかと思ったの」
「それで迎えに来てくれたんだ。ありがとな」
みくの頭に手を乗せると、すん、と彼女がすすり上げた。何をそんなに心配してくれたのか、泣いているらしい。
「ちゃんと戻るって約束してただろ。どうして泣くんだよ。涙は…」
「嬉しいときにとっておくもの、でしょ」
そう言って、にこーっと無理矢理笑ってみせてくれた彼女は実に可愛らしかった。

 

 そこまで思い出して、瞬はカレンダーを見る。

 今日は2月13日であった。明日はバレンタインデーである。

 これまでにみくから連絡はない。
 メールは来ていないし、携帯電話にも着信はない。――瞬は知らない訳だが、みくは編み物に追いこまれるあまり、彼に連絡をとって14日に会えるようにすることを忘れているのだ。
「肩透かし食った気がするのはどうしてだろ」
思わず独り言。
 こんな自分を大変身勝手だと思うが、イベントとなればしっかりと準備してくる彼女だけに、こうして全く音沙汰がないと寂寥すら覚える。

「…」

 それに、瞬には負い目があった。
 年の明ける前に一度ふたりで会ったとき、彼はみくを泣かせている。――彼に悪気があった訳ではなかったが、待ち合わせに三十分ほど遅れて行ったところ、

 瞬のバカっっ!!

 こちらに言い訳の隙も与えず、いきなり往来で泣き出したのである。
 バカと言われたこともあり、これだけでどうして泣くのだと腹立たしく思ったのだが、そのときの彼女は、精神的に追い込まれていたらしいことには気付きもしなかった。
 みくが、いずれは四年制に編入するつもりだったのは知っている。実際年末は、彼女には珍しくその準備に集中している感じだった。
 しかし、短大の同期生たちは就職を決めていくのに対し、全く就職活動をしていない彼女は、試験に落ちれば一年立ち止まることになる。
 合格するのか分からない編入試験を控えて、将来の決まっていく同期生の晴れがましさを目の当たりにしていたのである。
 そんな彼女の気持ちを推し量ることができず、どうしたらいいか分からなかった彼は、間もなくその場に置き去りにしてきた。
 いや、“置き去りにした”とは言い過ぎか。
 あたりを歩くとか、食事をしたりすることもなく、すぐにその日は別れてしまっただけである。ただ見た目の事実はそうでも、瞬が彼女の気持ちを突き放し、置き去りにしたことに変わりはない。
 ――ひどいな、俺…。
 よくそんなことできた、と、瞬も冷静な今だから思えるけれど、彼ばかりを責めることはできないだろう。往来で女の子に泣かれた男がどういう叱責の視線を、通行の人々から浴びたか考えてみて欲しい。

 ――…一度くらい、こういうことをしても罰は当たらないだろ。

 携帯のメモリーで、瞬はみくの番号を探した。
 明日の放課後に、上野まで彼女を呼び出すつもりである。ほんの少しの償いのつもりあって。

 ――じゃあ、行ってくるから。
 ――…。
 ――どうして泣くんだよ。別に二度と会えなくなるって言ってる訳じゃない。
 ――瞬、ほんとに行っちゃうんだね。
 ――行くよ、ほんとに。だから笑えよ。
 ――そんなのムリだよ。
 ――じゃあ、とっといて。俺が無事に帰ってきたら、泣いて喜んでくれればいいから。

 

「じゃあ、みく、頑張ってね」
駅の改札口で、下りと上りのホームに分かれる。みくは学校に行くが、私立大学の千里は既に春休みが始まっているため、これから真っ直ぐ家に帰って、寝るらしい。
「千里は?」
「こだわるわね。自分のことでいっぱいいっぱいで、瞬にアポとるのも忘れてたくせに」
こんなことを言われても、みくにしてみれば、こだわっているのは千里のほうだという気がしてならない。どちらにせよ、何を言っても千里には折れてくれる気はなさそうだ。
 切り上げよう。「むかつくなあ。もういいよ、行ってくる」
 怒ったように数歩駆け出した後で振り返ると、千里がまだそこに立っていて、笑って手を振ってくれる。
 いつも彼女はこうなのだ。どこか自分より上手で、優しく追い風を吹かせていてくれる。
 こういう彼女がいてくれることを、みくは嬉しく思った。

 

 みくのその日は、瞬く間に過ぎた。
 片想いのキャリアもいい加減――彼女はそうは望んでいないのだけど――長くなり、瞬とふたりきりで何度も会ったことがあるのに、やはり緊張する。
 特に今日は、直接会うのもひと月ぶりだし、プレゼントを抱えているからだろうか、歩くことにすら集中できなくて、駅の階段を何度もつまずいた。
 学校の最寄駅から、上野に向かって電車に乗る。
 瞬とふたりで会うときは、たいてい彼女のほうが瞬の大学まで出向くことになっているので、今回の呼び出しも何とも思わない。
 もともとみくは、千里のように自分が下手に出るのを嫌がったりはしない。特に相手が瞬であれば、声をかけてもらえるだけで嬉しいのだ。
 電車はまだ夕方には早く、帰宅ラッシュ前の、空席が目立つ時間であった。
 みくが座った向かい側に、親子づれが座っている。――若い母親と、小さな女の子だった。
 その女の子は薄汚れたクマの縫いぐるみと手をつないでいた。おそらくそれは彼女のお気に入りで、どこへ行くにも連れて歩いているのだろう。
 すっ、とみくの目の前に蘇り現れる、「あの夜」の景色。その思い出に没頭する前にふと、視線の先でちらちらするものに気を戻された。
 女の子がみくの視線に気付いて、手を振っていたのである。みくも、にっこりして手を振った。
 冬の日差しは既に低かったが、女の子の可愛い笑顔を照らしていた。

 

 卒業式が済んでから、五人は一旦それぞれ家族の許に戻ることにした。
 今まで秘密にしていたすべてのことを、家族に自分の口から話したほうがいいと、耕一郎が言ったからである。
「それが済んだら俺はあの小屋に戻るが、みんなはどうする?」
「何であんなとこにまた戻るんだよ? ゴキブリのいないところで寝たい」と健太が言った。「美味いもん食いたい。テレビ観たい、ゲームしたい」
「発つ鳥後を濁さず、借りていたんだから掃除しなければならないだろう。持ちこんだ私物もかなりあるし、美味いものなら、あとで裕作さんを呼べばいい」
「あの汚い場所を掃除する必要もないと思うけど」瞬は笑った。「俺は耕一郎に付き合うぜ。もうそうそうないだろ、こんな合宿生活みたいなのも」
「じゃ、あたしも戻るー」
「みくもあからさまだなあ。でも、私も来るわ。どうせ家はないんだし。健太は結局どうする?」
「…来ない訳にいかないようにしておいて、訊くなよ」

 そしてみくは自宅のあった場所で、両親と数日ぶりに顔を合わせた。
 彼女の両親は大爆発の一部始終を目撃していたので、みくが五体満足でいたことがまず嬉しかったらしい。
 無口な父親は何も言わなかったが、母親はどうしようもなく泣いていて、みくが
「卒業証書もらえたんだよ」と言っても、こちらのほうには
「ああ、そう、良かったわね」としか言わず、いつまでも「みくが無事で良かった」と、くどくど繰り返していた。
「ほんとにごめんね…」
 みくは、泣かれるうちに本当に申し訳なくなって、両親を置いていくのが心苦しいほどだったが、食事すら一緒にしないで別れた。

 それから寄り道もせずに帰りついた小屋は、相変わらずのたたずまい。しかし、中から湯気が上がっている。「…ただいま…?」
「お帰りー」出迎えてくれたのは裕作だった。「まだゆっくりしてても良かったんだよ。他のやつ、まだ誰も戻ってないし」彼は鍋で飯を炊いていたのである。「――最初チョロチョロ、中パッパ、だっけ?」
「知らない。何それ」
「ご飯炊くときの火加減だよ。いや待てよ。煮豆つくるときの火加減だったかなあ…」
裕作が立ち働いて、みくがつまみ食いしているうちに、千里と健太、耕一郎が帰ってきた。
 そして
「…瞬、遅いな」
しばらくは全員が揃うのを待っていたが、とうとう健太が食べ始めたあたりで、瞬がまだ戻らないのが気になり始めた。
「あたし、見てくる!」

 みくが瞬を見つけたのは、彼の自宅があった土地から少し離れたところだった。
 人っ子ひとりいない、高級住宅街。アスファルトと、整い過ぎた家々の門がひどく寂しい。
 防寒していないみくの首筋に、冷たい風が入りこんでくる。肩をすくめたまま、瞬の姿を求め、くるりと一回転すると、遠くから犬の吠える声がした。そちらに目を遣る。
 そして。

 ――瞬!

 その鳴き声に同じように気を取られたらしい彼の学ランの後ろ姿を認めた。「瞬っ」
 彼女の声に気付いたのか、彼がこちらを振り返ったのだが、それがみくの涙腺を切る。
 瞬はクマの縫いぐるみを抱きかかえていたのである。
 それだけなのに、彼が子供のように頼りなく見えた。すかすかとした隙だらけの空気の中にぽつんと立っているのが、どうにもならないくらい、彼女にはつらかった。
「どうした?」
「瞬っ――」彼を見上げる。「あんまり遅いから、戻って来ないかと思ったの」至近距離から見る瞬は、いつもと同じだった。
「それで迎えに来てくれたんだ。ありがと」
優しく頭を撫でてくれる。苦しくて、涙が出た。思わずすすり上げると、半分笑いの混じった声で、
「ちゃんと戻るって約束してただろ。どうして泣くんだよ。涙は…」と言う。
 何度も言われた台詞だ。続きはみくが引き取る。「嬉しいときにとっておくもの、でしょ」
そう言って無理矢理笑ってみせた。

 自分には、笑うことしかできないのだ。そう思った。

 瞬から半歩下がって歩きながら、非力な自分を呪ったら、また涙が出た。
 例えば、ほんの少しでも瞬が笑ってくれただけで、自分には怖れるものが何もなくなってしまうくらいの勇気が沸いてきて、奇跡的な力が出てしまったりするのに。
 それに報いようとしても、自分には何もできない。

「みく」不意に瞬が振り返った。
「なっ、何?」慌てて目許を拭うけれど、しっかりバレたらしい。
「まだ泣いてるのか。女の子に泣かれるっていうのは、自分に原因がなくっても堪えるもんなんだよ」
 …あたしが泣いてるのは瞬のせいだもん。――思ったが、みくは言わなかった。
「恥ずかしいから、これ、お前が抱いてってくれないか?」
そうして瞬は、みくにクマを抱かせた。「行こう。腹減った」
 ぎゅっ、とみくは目を閉じた。
 俄かに胸が差し込んでくる。
 この、肩を抱いてくれた瞬の仕草を、これといって何とも思わず、単なる友情として受け止められるなら、こんなに苦しくないのに。――

 

「…」
瞬が時計に目を遣ると、まだ、待ち合わせの時間にはかなり早かった。
 しかし、これといって済ませるべき用もないし、彼女を呼び出している場所はコーヒーショップなので、先に行っていることにした。ひとりでいることに慣れている彼は、時間を潰すことを苦にしない。
 注文したエスプレッソに少しシナモンを振り、瞬は窓に向かったカウンターに座ると外を眺めた。
 ここからは、片側三車線の道路が見え、それを横切るように設定された横断歩道がある。
 ひっきりなしに流れるそれらの間に、見慣れた姿が現れたのは案外早くであった。みくが駅の方向から歩いてきて、信号待ちをすべく立ち止まったのである。

 お。

 まず単純に、早い、と思った。
 そして、次には優越感である。向こうがこちらの視線に気付いていないのを見ているのは、ある意味、大変に支配的で愉快だ。
 みくは、髪の毛を耳にかけた。最近の彼女は髪を肩に下ろしていて、今日もそうだった。 華奢なミュールの足元と、緩やかに裾の広がるスカートの組み合わせが女の子らしい。彼女は、ずり落ちてきたショルダーバッグをかけ直して、腕の中の紙袋を抱き直した。
 そして、紙袋に顔を埋めるように俯くと、深く息を吐いたらしく、肩が大きく上下する。

 少し、瞬の胸が痛くなった。

 みくが緊張していることに気付いたのである。
「…」
 ――初めて見た。
 いつも、彼女は自分の知らないところで、こんなふうだったのかと目からウロコが落ちたように思う。
 今、信号を待っているのは、自分の知っている彼女ではない。自分の知っている彼女は何をするにもためらいがないのである。

 いや、彼女はためらいなく何事もやってのけているのだと、自分だけが勝手に思っていたのかも知れない。
 今までくっきりしていたはずの彼の中の「今村みく」に、急に紗がかかり始める。

 信号が赤から緑になり、みくがこちらに歩みを進めた。
「みく」
思わず小さく呟いて、控えめに彼女に向かって手を振ってみる。
 もともとこちらを気にしていたらしい彼女には、すぐ分かったようだ。途端、ぱっと明度がはっきり分かるような変化をつけて、彼女は表情を変える。

 あまりにも鮮やかな変わりようだった。

「瞬ーっ」
いきなり横断歩道を歩く女の子が大声で言って大きく手を振るから、通行人が驚いている。
 そんな彼女を見て、瞬は、何故か安心した。

 ――親愛なる瞬様。
 ――親愛なる瞬様。
 ――親愛なる瞬様。

 

 瞬が、自分が店の外に出るから、と合図してきたので、みくは彼のいる窓に背を向けて歩道に立った。――ほんの少し待つ間もどきどきして、彼女は深呼吸する。
 自動ドアが開いて、彼が出て来た。
 今日は画材を背負っている訳ではなく、お気に入りらしいミレーのリュックサックに、両腕を通す。「早かったな」
 ニューバランスのスニーカーと、濃い色のジーンズの足元。タートルネックのニットに、パンツと同色のGジャン、ブルーグレーのウインドブレーカー。どうということもない当たり前の格好なのに、通りすがりの女の子を振り返らせた。――これがみくにはけっこうプレッシャーである。
 彼は、自分以外の人間にとっても、おそらくどこか魅力的なのだ。
「これから、どこか行きたいところあるか?」
尋ねられて、みくは瞬を見上げた。この質問が意外だったからである。
 彼とふたりで会うときは、たいてい瞬に目的らしいことがあって、それに沿って行動することが多い。今回も彼からの呼び出しということもあり、まず何か用事があって、それに付き合わされるのかと思っていた。
 彼女は何気なく、
「…遊園地」
ぱっ、と頭に浮かんだものを口にした。それを受けた瞬が、
「ゆうえんちー?」ええーっ、という表情をしたので、みくはそれ以上強く出なかったのだが、
「どこの?」と言ってくれた。「いいぞ、どこでも」
「わーい」――最も、瞬と一緒なら、みくはそれこそどこでもいいのだが、「じゃあ、日本一の観覧車に乗りたい」
「よし、台場だな」
瞬は、また彼女が笑ったことに安堵していた。

 さきほど彼は気付いてしまったのである。

 交差点で信号待ちをしていたときの彼女の様子が、咽喉につかえて、なかなか落ちない。
 そのときの彼女は、準備をしていたのだと思う。
 自分に会うための準備――自分に、笑顔を見せるための、心の準備。

 …。

「行こうか」
「うん!」
ふたりは、目的地とした「日本一の観覧車」まで水上バスで移動することに決めて、そこから歩き出した。

 

 水上バスは、夕闇の迫る空気と暗い川面を割って滑り出す。
 東京湾に向かうその平たい船体が、隅田川にかかる橋を潜るたびに、みくは橋げたを振り返った。風が彼女の髪を吹き上げる。それを押さえる彼女の仕種を、瞬は何気なく眺めた。

 同い年の彼女にこんな感慨を抱くのはおかしいが、みくは大人になった。
 化粧が上手くなったとかいう、外見的なことばかりではない。
 こう考えてしまうのは、自分を過信している証拠かも知れないが、守ってやる感覚が大きかった彼女との関係が最近では明らかに変化している。
 ――そのことは不愉快では決してない。ただ、彼女はどう思っているのだろう。

「どうしたの、瞬?」もしかして、船酔いとか?、心配の視線が覗き込んでくるのを、
「いいや」瞬は景色を見ることで交わした。「――あれに乗るんだろう?」
 右手にレインボーブリッジを眺めれば、正面奥には空に花のように広がるイルミネーション、それに彩られた観覧車が見えてきた。それは一瞬として同じ色にとどまらない巨大な円形のオブジェであった。
「そう。やっぱり大きいね。きっと、てっぺんから見たら眺めもいいんだろうなあ」
「…みく、初めてなのか?」新しいもの、楽しいものが大好きな彼女だから、一度くらい来たことがあるのだと思っていた。
「うん。前に千里に一度誘われたことがあったけど、耕一郎が一緒だったから遠慮したの」
心地良いエンジン音と水音がふたりの間を占めている。通常より大きな声で話さないとお互いに言葉が届かない。――今、また橋梁の下に潜り込んだ。
「いつも電車ばっかりだけど、船も楽しいね」
「ごめん、聞こえない」
みくの笑顔がぐっと自分に近づいて、言い直した。「すーっごく楽しい!」そして彼女はまた、橋の裏側を見上げる。
「…そんなに楽しいか?」
「うん」彼女が笑顔で迷わず頷いたのに、尋ねた瞬の方が、戸惑いの表情になる。
少し伸びた彼の髪を風が揺らした。
「…俺といて、楽しいか?」やはり自分は気にしているのだ。
「うん」戸惑いのない、今までこれが彼女らしいのだと思って揺るぎなかったはずの、笑顔。しかし
「そうか」その笑顔を疑って、その奥を覗こうとする自分がいる。
 彼女が笑っている以上の事実を知る必要など、本当はないはずなのに。
「どうしちゃったの、瞬?」
 どうしてそんなこと訊くの?、そう言われても、この気持ちの曖昧さをどう説明したらいいのか。
「や…別に」――分からない。
フェリーは水面に白い尾を引いて、相変わらず推進している。

 

 後楽園の観覧車に四人で乗ったことがある。自分と、千里と耕一郎、そして、瞬という顔ぶれだった。
 入学したての一年生の春で、まだ健太がデジ研と関わり合う前のことだ。
「一年生部員の親睦を深めよう」という千里の発案で、放課後遊びに来たのだ。江戸城外堀沿いの桜は既に葉桜だったが、きれいな緑色を夕日に透かしていた。
 観覧車のゴンドラに乗り込んで、係員が扉を閉じた後、
「俺、遠藤の隣いやだ」一旦耕一郎の隣に座った瞬が立ちあがった。ガン、と傷ついた顔をしている耕一郎を振り返って「悪い、そんなつもりじゃない。遠藤は肩幅広いから」隣り合うと狭いということらしい。「城ヶ崎、代わってくれ」
「いいよ」
千里と瞬が交代して、みくの隣には瞬が座った。
 その間にも、だんだんとゴンドラが地上を離れて行く。
「遠藤くん、遠藤くん、写真撮ろうよお」千里がポケットからAPSカメラを取り出して、自分と耕一郎に向けている。
「えっ…?」
「はい、笑って。――そんな、引きつらないでよ」
 向かい側のふたりを面白そうに眺めた後、瞬は窓の桟に肘をついて、伏し目がちに下の風景を眺め始めた。
 その瞬間に、彼と自分の間にすっと壁ができたのを、みくは感じた。彼は、女の子と肩が触れ合っているのにも構ってはいないらしい。
「…」
 その雰囲気に、声をかけることができなかった。
 斜め後ろから見る彼はきれいだった。――眉目が凛と整っていて、下を見ている今は睫毛の長さが強調されている。その端正さで、他人を寄せ付けない。
 夕日が乗り物の上昇にともない、角度を変えて彼を照らしていた。

 入学式のときに代表で挨拶した、入試を一番の成績で通過した生徒ととして、みくは初めて並樹 瞬という名の彼を知った。
 成績トップだというから、どんなガリ勉くんかと思ったのだが、みくの予想に反して、線の細い感じの――すっきりと、洗練された外見の少年であった。
 用意した月並みな内容の文章を淡々と読み上げているのだが、物怖じせず、仕種も乱れず、彼の態度に見苦しさは一片もない。これは昨日今日につくられた落ち着きではなかった。

 ほえ〜、かっこいい…。

「新入生代表、1年A組、並樹 瞬」と、最後に彼が言った。
 王子様みたい。
 このとき彼女は、何の根拠もなくそう思った。――みくが、瞬の家庭環境を詳しく知るのは、もっと後のことである。
 彼の立ち居振舞いにぼんやり見とれてしまい、並樹少年が壇上で校長に礼をするのに合わせて新入生全員が起立する段取りを忘れ、一斉に立ち上がった同級生の様子に
「あっ…」
慌てて立ち上がり、椅子を後ろにバッターンと倒してしまったのだった。静まり返っていた会場が俄かに沸いたのは言うまでもないだろう。

 その入学式から数日後の帰り道、
「並樹くんってカッコいいよね、ねっ!?」
高校に来て出会った、同じクラスの城ヶ崎 千里という子にそう言ってみた。この時点でのみくと彼女とは、家の方向が同じで、何度か一緒に帰ったことがあった程度であった。
 千里はそんなに瞬に興味がなかったらしい。
「…ああ、並樹くん。さっきデジタル研究会にいたなあ」と言った。「私も入るつもりなんだけどね」
「ええーっっ、あたしもそこに入るーっっ。絶対お友達になるんだー」

 そんなふうだったのに、彼の隣に座っている今はひどく静かな気持ちだった。
 ゆったりとゴンドラに身を任せて、並樹少年の顔を見つめ続けていると、その視線に気付いたのか、彼が不意にみくを振り返る。
「…いまむら、だよな?」
彼の目がみくの感情を探っていた。
「うん」
 彼は、自分が知っている誰より澄んだ目をしていた。こちらが畏怖するほどの透明さ。吸い込まれそうで、それに胸が痛くなった、が、彼は
「入学式のとき、派手に椅子倒してたよな?」と不意に笑った。「俺、壇の上にいたからよく見えたよ」

 げ。

 でも、初めて彼から話しかけてくれたのだ。明るく鼓動が高鳴ったのは確かである。
 それに、彼は笑うと生意気そうに口元が歪むが、それが悪戯っ子のように彼の全体を幼くして、急に可愛くなることに気付いた。王子様の新たな表情の発見が嬉しかった。

 それからの毎日は、どんな些細なことでも、彼のことをだんだん知っていくのが楽しくて仕方なかった。
 そして知る度に、みくの中の彼のイメージは心安いものになっていったが、幻滅するどころか、慕わしさが募った。

 今もそれは進行中だ。

 ふたりで乗るには広いゴンドラなのに、瞬は、先に乗り込んだみくの隣に来た。女の子と肩が触れ合っても姿勢を変えないのは相変わらずらしい。
 みくは自分の肩越しに景色を見ている瞬を振り返った。
「もう乗ってからどれくらい経ったのかな?」
「…さあな」
まだ円周の四分の一も経ていないが、日本一の大きさを誇る観覧車のことで、視点は既に十分な高みにある。
 漆黒の中に幾重にも重なった高速道路が、光の流れになっている。明るいうちには無機質なスカイスクレイパーも、光芒の集まりとなっている今はどことなく愛しい。
 遠ざかる下界の煩雑。今や、ふたりのいる空間は完全に他から切り離された。
「あんなに車が小さいの。すごーい、こんなに高いんだよ。ねえ、瞬?」
「…ああ」
 ――瞬、ほんとにどうしちゃったのよう?
 瞬があんまりローテンションなので、さすがのみくも、もてあまし始める。思わず尋ねた。「瞬こそ楽しい?」
みくは、ビルの陰から姿を現し始めた東京タワーの頂上から、瞬へ視線を移した。
「?」
「瞬こそ、あたしと一緒にいて楽しい?」
声が沈んだので、また泣かせた、と瞬は彼女の涙を目撃する覚悟をしたのだが、

「ごめんね」

みくは、笑った。
 その笑い顔を彼女が窓の外に再び振った、それを見た途端に、ふつりと心地良く瞬の理性が切れる。
「――」素早い衣擦れの音がして、みくは圧迫感に動けなくなった。
 瞬の腕が後ろから、しっかりと自分に回されている。「瞬…?」
「みく――」途中から、彼がみくの肩口に顔を伏せたので、声がくぐもって聞こえた。
 背を向けられただけなのに、急に不安が彼の心に影を落として、みくの肩を抱き寄せずにいられなくなる。

 痛い。

 その痛みから逃れたくて、瞬は更に腕に力を込めた。

 

 留学していた頃、一時強くホームシックにかかったことがある。
 自分の家が恋しかったのではない。家族の暮らしていない家には未練はなかったし、自分を置き去りにする父親のことも慣れている。
 ただ、日本の国が恋しくて、日本にいる友人が恋しくて、CGの勉強をしに美術学校に行く以外に家から出なくなった。――人ごみに紛れていると余計寂しくなってしまうということは、彼は経験的に悟っている。

 俺、こんなに弱いと思わなかった…。

 できないことが今までなかった自分に訪れた――こう言えばひとは笑うか、優しく否定してくれるだろうが――挫折のようなもの。
 ベッドに寝転んで、首を更に上へ向けると、サイドチェストの上にクマの縫いぐるみが座っているその景色が視界になる。
 ブラインドの間から差し込むストライプの光が、クマの顔へ斜めにかかっていた。
 そのひっそりとした光景を見ると、外に出たくて仕方なかった頃の野望がひどくちっぽけに思えて仕方なくなる。
 今まで自分の身の上に起こっていたことは、“世界の人口分の五”という極めて低い確率で起こった、真の奇跡だったのだと思うことができた。ただ、それはとても寂しい発見の仕方だった。

 …みく、どうしてるかな。

 母親を忘れないように持ってきたクマの縫いぐるみだったが、何故かそのときの彼には、みくを想起させるアイテムとなっていた。
 彼女を思い出そうとすると、どうしても、出掛けに成田空港で泣かれたその顔になってしまう。その記憶を、クマが書き換えてくれる。
 卒業式の日の夜に、自分を迎えに来てくれた彼女もやはり泣いていたのだが、別離を前にして派手に泣いた彼女の思い出よりは、瞬を力づけてくれた。
 あの夜の彼女を思い出すことは、強く自分を想ってくれるひとの存在を再確認させてくれたのである。
 そして、彼女がくれるメールで、彼の記憶の中の彼女は完全な笑顔になった。

 二日と空けずにみくが書いてくれるメールは、必ず
「親愛なる瞬様」
という始まりだった。
 内容は他愛ないものばかりで――その日にあったことや、初めて行った店の話から、買った服の話、両親のこと、進学先でできた新しい友人のこと――細かいことだったが、それが毎日繰り返されると、直接会って話していたときよりもかえって日常の彼女を浮き彫りにする。
 そして、必ずと言っていいほど、
「瞬にはできないことがないんだから、何でも諦めないで頑張ってね」
と、締めくくられる。
 常人にはともすればプレッシャーになりかねない言葉だが、瞬にはその言葉の意味をマイナスに受け取るような思考回路はなかった。もちろん、みくが言うことだから、ということもあっただろうが、暗示というよりも魔法に近い効果で、自分を信じることができるようになり、今までの環境を恋う気持ちから脱したのだ。

 いつも彼女の言葉に包まれていることが当たり前。
 彼女の心はその距離など、ものともしない強さで自分に届いていたのに――

 それなのに、その強さ故だろうか、彼女の笑顔が無尽蔵だと勘違いしていて、さほど感謝もせずにその上に胡座をかいていたのは、

 ――誰?

 往来で別れた、まだ涙の乾かない彼女の顔。――

「ごめん…」
自分の頭のすぐ横から瞬の、搾り出すような苦しい声がする。しかし彼は、何を詫びているのだろうか。今のこのことか、それとも今までの態度すべてか。
 ゆっくり腕が解かれて、やっとみくの動作が許される。振り返ると、伏せられた目が、しかられた子供のように怯えていた。
 ゆるゆると上向きになる視線は、いつか見た透明さでみくの目の奥の奥を窺い始める。彼女は、瞬のその瞳が怖くて目を閉じた。
 みくの肘に瞬の手がかかる。そして唇にそっと、慕わしく触れてくるもの。
 彼女の右手が瞬の左袖を掴むと、遠慮がちに遠ざかりつつあった感触が、今度は強く繰り返された。
 どこか壊れている。自分をセーブできない。それを自覚する意識の反対側で、瞬はまた彼女を抱き締める。
 彼女の身体はどこまでも自分に優しくて、あまり強く抱くと折れそうに細い。
「悪い――」
「…」ううん。彼の声が身体のすみずみにまで響いて、みくは首を横に振るので精一杯である。
 抱き締められた彼女の狭い視界に見えるもの。――それは、彼の首から下がる認識票だった。しっかりとそこに彼の名前が刻印されているのを認めても、まだ信じられない。
 精神が現実味を失っているというのに、身体は正直で、みくの頭はあっさり瞬の胸に寄りかかった。自分の脈拍よりも、瞬の鼓動が大きく聞こえる。
 彼女には慣れた瞬のにおいがした。

 

 みくは思いきり溜め息をついた。

 ――現実に編集は利かない。

 テレビドラマならば、ここからの帰り道がカットされて、明くる日に目覚めたヒロインが口元を指でなぞって、昨夜の甘い思い出にひたったりするのだが、ふたりは観覧車の円周が終わって、無理矢理に下界の喧騒に引き戻される。
 さすがの瞬も打ちのめされたような顔をしていたが、一度困ったように首の後ろに手を遣ったあと、
「これからどうする?」
と、みくに右手を差し出した。
「?」驚いて、みくは瞬を見上げる。うん、と彼が頷いてから、やっと自分の左手を乗せた。嬉しかった。
 冷たくって、かさかさと乾いた瞬の手の感覚を、たぶん、自分は一生忘れないだろう。
 それだけではなくて、今日の全部のことを覚えていよう。
 今、雲が白くたなびいていることも、その脇を全日空の飛行機が横切ったこと、来る時に振り返った橋梁の裏側、瞬の髪がいつもより少し長かったこと、自分の着ているもの、持っているもの――

 …“持っているもの”???

 はっ、とした。――彼女は、また忘れていたのである。自分の腕の中の紙袋を見ていると、瞬が
「さっきから持ってるそれは何? 持ってやろうか?」と言った。
ははは…。みくは笑うしかない。「これね…」
「うん?」
「瞬にね、プレゼントなんだけどね…」と言った途端に素早くひったくられるセーターの入った紙袋。
「ありがとう。開けてもいいか?」
「いやあ、やめてえ。おうちでこっそり見て。お願いだから」と、飛びついてくる彼女に、瞬ははいはい、と答え、彼女に背中を向けた。リュックに包みをしまってくれ、ということらしい。
 その通りにしながら、彼女は昨夜の袖つけ段階の悪戦苦闘を思い出してげんなりしていた。
「はーい、ほんとにしまっちゃったよー」と言ってみたが、その言葉は瞬に作業終了を知らせるというよりも、自分への最後通告である。もう、あげちゃったから取りかえしはつかないぞ、っと。――
 瞬は再びみくに右手を差し出す。二度目なのに、もう当たり前のような動作。こういうところが彼の器用なところだと思う。彼は何でもすぐに上手にやってのけるのだ。
 みくは恨めしそうに瞬を見上げる。――敵わないなあ…。
 彼女が手を重ねてから、瞬が
「今日はたくさんもらえたな」と、非常に満足そうに口元を笑わせた。
「えっ?」
 彼はみくの目を見たまま少し顎を上げて、つないでいない左手の人差し指で自分の唇を二度、軽く突いた。

 この彼の仕種が、今日のみくの記憶に一番強く残ることになるのだろうか。

Fin.

 

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