Love,day after tomorrow

 

 春休みの、人も疎らな私立明鳳大学の構内。
 その図書館の前で遠藤 耕一郎は、春先のうららかな日差しの中、友人を待っていた。使わなくなった書籍を譲る約束をしていたのである。
「…」
 まだ風は若干冷たくは感じられるが、もう梅の花は咲いているし、何より快晴であり、いい日和だ。そんなところで腕を組み、ただぼんやり立っていると、校舎脇の国道と首都高速の騒音さえ風景の一部分として違和感なく耳に入ってくる。
「もう、知らないっ」
その静やかな空気を破る金切り声に、耕一郎は閉じていた目を開けてみる。
 遠くの、サークルの部室が入っている古い校舎の入り口で、男女が言い争っているらしい。それを、しばらく見るともなく見ていたが、女の子が再びキイキイ叫んで、こちらに向かって駆け出した瞬間、彼は思わず、こっそりと回れ右をした。
 耕一郎の、知っている女の子だったのである。
 そして彼は身じろぎもせず、彼女をやり過ごそうとして、背中を向けたまま祈った。
 あー、どうか見つかっていませんように。――と言うよりも、俺のことなど覚えていませんように。
 他人に対して好き嫌いという判断をしない彼が、こんな言い方をしてしまう、その相手とは…。
「耕ちゃーん!!!」
ずっきーん、と心臓を撃ち抜かれたような衝撃が耕一郎の胸に来た。恐る恐る振り返りながら、まだ何かの間違いであってくれと願う、が、
「…み、三島、さん…」彼は、彼女の名前を呼んでしまった。
「嬉しいっ、覚えていてくれたんだあ」独特の眼力で射抜くようにこちらを見るのは、以前と全く変わっていない。そして、すぐに馴れ馴れしく腕を引っ張ってくるのも。――違うと思い込もうとしても、無理な話である。
 耕一郎の願いの強さも虚しく、間違いではなかった。
 彼女は、諸星学園高校で耕一郎の一学年下に在籍していた三島 ユリカという女の子であった。
 そして、彼女と耕一郎には浅からぬ因縁がある。
「ど、どうしてここに?」腕だけを彼女に預けて、耕一郎はかなり身を引いた態勢で訊いた。彼女が答えたには、ユリカ自身はこの近くの女子大に今は在籍しているらしいが、
「私の入ってるテニスサークルがあ、明鳳大と合同でやってるのお」…だそうである。
「はあ、そう…」
「耕ちゃんと私はやっぱり赤い糸で結ばれているのよ」うっとりと天に向かって感謝の祈りを捧げるようなポーズ。
 何だか首の周りが痒くなりそうだ。耕一郎は眉をひそめた。
「どうして?」
「だって、彼と別れた途端に、耕ちゃんと再会できるなんて、神様が仕組んだ素敵なシナリオだとしか思えないもの!」
 ――…いや、そうじゃないだろう、そうじゃないだろう。
 思うものの、また耕一郎はたじたじになってしまい、彼女のペースに巻き込まれて行く。
「ねっ、耕―ちゃーん」彼女が再び、耕一郎の腕をぎゅうと抱き締めたところに、
「よう…遠藤?」
やっと、待ち合わせていた友人が来た。彼は、以前に自分が見かけた文学部の女の子と違うのを耕一郎が連れているのに、単純に驚いたらしい。
「もう、あの子と別れたの?」でも、すぐに眼鏡の下の視線が好奇心でいっぱいの色になる。「それとも本当にただの同級生だったの?」
「っ、違う…」どちらの問いを否定したいのか分からない返答。
彼は耕一郎を一切相手にせず「本、早く寄越せよ」と言った。そして、ユリカに向かって笑いかけると「彼女、ちょっと待ってね、すぐ済むからねえ」。
「はい」
彼女、と言われたのが相当嬉しかったらしい。彼と耕一郎が、書籍と現金の交換を終了するまでは、ユリカはにこにこと大人しくしていた。
 ――しかし、これは嵐の前の静けさであった。
「じゃあ、ありがとう、もういいよ」と、言われた途端に
「耕ちゃん、早く行こう」また腕を引っ張る。
 そして気付けばもう引きずられるままに、耕一郎の視界から友人の姿が遠ざかっていく。
「遠藤―っ、またなー」面白そうに手を振る友人。
「おい、助けろーっ」
「そんな“助けろ”だなんて、何だか私が悪いみたいじゃないのお。さあ、再会の記念のデートはどこがいい、耕ちゃん」
 で…できるなら、このまま家に帰りたい…。
 耕一郎は、とある一般教養の授業を思い出していた。それは、カルト教団の勧誘手口についての講義だった。
 相手の名前を繰り返し呼ぶ、相槌打たせるなどが会話にターゲットを巻きこむ技なのだという話である。その渦のなかに明らかに自分ははまるところなのだ。
 そう思いついた途端に、彼女がものすごく強大で抗えぬほどの恐ろしさを孕んでいるように思えてきた。
「耕ちゃん、耕ちゃん」
 ――だからそんなに俺を呼ばないでくれ。
 急激に疲れすぎて、顔が笑ってきただけなのに、彼女の思考回路は何でも自分の都合のいいように捉えるらしい。
「私も耕ちゃんにまた会えて、すっごーく嬉しいの。ね、こーおちゃーん」

 家庭教師のアルバイトも今日で最後であった城ヶ崎 千里は、少し疲れた顔で電車の座席に深く腰掛けていた。
 教えていた中学生がこの度志望していた高校に合格し、彼女は円満退職のようなかたちでやめることになった。今日は、もう教えることもなかったのだが、その生徒の親が先生にお礼をしたいとのことで呼ばれて、ただお茶を飲んでギャラをもらって、こうして帰途に就いている。
 千里は、膝に置いていたリュックから手帳を取り出した。一年間アルバイトに精を出した自分を振り返ろうとしたのである。――四月始まりの彼女の手帳は、残りをとうとうひと月分にしていた。
 それは無言でありながら、また一年が経過したことを、如実に物語っている。
「…」
 日記ほど詳細ではないが、彼女の今年度の生活を教えてくれる記載には、週に一度、しっかり「かてきょー」と、どうでもいいような字で書いてはあっても、あまり高校時代の友人と待ち合わせた記録がない。
 最後に五人が揃ったのは、昨年の十二月二十四日のクリスマスイブである。
 ――思ったより会ってないんだ、私たち…。
 これから更に時間が経てば、毎日顔を合わせていた仲間との間にもっと距離ができることになるのだろうか。
 すとん、と垂直落下するような寂しさが彼女を包んだ。
 しかし、少し考えてみれば、彼女にだって、変わらないものなんてないのだということはすぐに分かる。普段、物体のその瞬間を切り取るような撮影という作業に没頭しているからだろうか、ときどき、変化を拒否するような感覚が彼女の中に急にもたげてくることがある。
 私、おかしいかなあ…。
 その変化が、親しいひとたちとただ引き離れていくだけではなく、自分の身にも起こっている確実な成長であるとすぐにでも分かるならば、こんなに不安にならないのに。
 他の四人の友人と自分を比較すると、どうも自分だけが闇雲に走っていて、いつまで経っても目指すところに到達しないのではないかと思うのだ。
 特に、自分と同じ大学に進学して、一番会う機会が多い耕一郎が、着々と目標に近づいているように見えるからだろうか。――そして、彼の存在価値が千里の中で少しずつ変化しているからだろうか。
 そう言えば、最近耕一郎の顔も見てないや。
 彼には申し訳ないが、素早く顔を思い出せない。断片的に、彼をつくる部品を…大きくてきれいな手や、肩幅を思い出して、やっと彼の声が聴こえてくる。
『千里』――耕一郎が自分を覗き込む錯覚が起こって、ずん、と胸が痛くなった。
 …イヤだなあ、こんなことじゃ、何か私が耕一郎のこと好きみたいじゃない。
 まだ、千里は笑えていた。顔が熱くなって、思わず手で風を送ってしまったけれど、まだ笑えていたのだ。
 そう。
 この先に、そんな余裕も削いでしまうような出来事が起こるとは、彼女は予想だにしていなかったのである。
 それから、来年度の手帳のリフィルを買うのに寄った大型文具店で、彼女は見覚えある後ろ姿が店を出るのに気付いた。
「あっ」慌てて追いかける。「瞬っ」
呼び止められたのに振り返った彼は、すぐに千里を認識したらしい。「よう、久し振りだな」
 久し振り、だって。
 また、どーん、と心が重くなるのを、彼女は無理に浮きあがらせようとする。笑いながら同じ言葉を返した。「久し振りだね」
「千里とは、いつ以来になる?」直接会うのは、という意味である。メールなら、瞬は昨日も彼女に出している。
「クリスマス」
「ああ、あれなあ」そんなに前か、と彼は言ったが、時間が空いたそのことに何の感慨もないらしい。もっと懐かしがって欲しかった千里は、少し落胆する。
 更に、
「ね、一緒にご飯食べよう」と、千里が言うのを、瞬は笑いながらだが
「悪い、それはできない」と、はっきり断ってきた。
こんなことは初めてだった。今までなら、どうせ家に帰ってもひとりだし、と言って、承知してくれたのに。
 思わず千里は、きょとん、と瞬の顔を見上げる。ヘンな間が空いて、瞬がポケットから携帯を取り出した。「他のやつを呼ぶならいいぞ」五人同じ型の携帯電話を契約しているのだが、瞬はエアブラシで色を塗り替えるのが好きらしくて、年の明ける前は真っ白だったそれが、今は青い迷彩模様になっている。
「え、何で?」そうする必要が分からなくて、更に瞬を見上げた。
「俺に操を立てる義理ができたから」
「はい?」何言ってるんだ、こいつは。
「俺としては何とも思わないけど、俺とお前がふたりでいたのを知ったら傷つくヤツがいるだろう?」
「耕一郎に気を遣ってるの?――いいよ、そんなの」
言ってから、しまった、と思ったが、既に瞬はにやりとした笑いを浮かべている。我が意を得たり、と目が言っている。「お前、本当に好かれている自信あるんだな」
 瞬は、千里のその過剰な自覚に、呆れを通り越して感心さえ覚えた。
 ――いつか彼女も自分のように、誰かに想われているということが奇跡に近いわずかな可能性で起こっていることに気付くのだろうか。自分のことは棚に上げて彼は、耕一郎のためにも、そんな日が一日でも早く到来することを祈るだけである。
「そんなことないもん」
「まあいいさ。そういうことにしといてやろう。――でも俺は、耕一郎に気兼ねしてるんじゃなくって、みくに気を遣ってるだけ」
じゃあな、と瞬は、あっさりと千里を置き去りにした。
 擦れ違う人ごみの中で、それでも瞬は千里を振り返る。
 ――何て顔してんだ、あいつは。
 首のマフラーに顎を埋めて、上目遣いにした寂しそうな瞳が、じっ、と自分を見ている。瞬は思わず甘くなって、また彼女のそばまで戻ってしまった。「千里、みんなが来るまで外で話そう。いいか」
「?」
「みくは、絶対にすぐ来るぞ」携帯のメモリーのトップにかける慣れた、瞬の仕種。
 友人の積年の願いがかなったことを、それで千里は確認する。しかし祝福する気持ちでいっぱいにはならず、どこかに隙間があるぼんやりした感情を、彼女は持て余した。
「…あんただって自信過剰じゃないの」
「言ってろ」通話の向こう側でみくが返事をしたようだ。瞬が少し目を閉じて、それを味わうような表情をする。
 人間というのは、本当に好きなひとの前では違う顔をするものだと感覚的に分かっていたが、目の当たりにするとそれなりにショックである。
 千里は意味もなくイライラして、瞬を正面から睨みつけた。


 表参道。
 遠藤 耕一郎の携帯が、彼を呼び出している。ぶるぶると胸のポケットでせわしなく持ち主に呼びかけている。
 耕一郎は携帯電話を取り出してモニターを見た。液晶の表示は「並樹 瞬」。
 ?
 彼がその着信に応じるべく通話ボタンを押そうとした、そのとき。
「だぁめ」
三島ユリカの手が柔らかく耕一郎の手に重なってきて、綺麗にエナメルの塗られた爪が甘く食いこんでくる。
「う…わっっ!」耕一郎にとっては“異様”とも言えるその感触に、ぞーっ、と背筋が寒くなり、思わず携帯電話を取り落としそうになる。手の上で端末が弾んだ。
「誰からなの?」
「友達」嘘をつくことでもないし、耕一郎がもしここで嘘をついたとしても、彼女はその大きな目で即座に見透かすだろう。けっこうユリカが敏感なことは、高校のときとこの数時間で十分に分かっている。
「誰からかかってきても取っちゃだめ。今、耕ちゃんは私と一緒にいるんだから」そして彼女はまた、腕に掴まってくる。
「…」耕一郎はそっと溜め息した。
 本当に、ここまで心を許してもらった上でこんなことを思ってしまって申し訳ないのだが、ユリカがどんなことをしても、自分は彼女と千里を引き比べている。
 腕をユリカに抱かれる度に、しっかり、“千里はこんなことはしない”と、思ってしまう。――べったりしてくるユリカの、実に女の子らしい行動よりも、冷ややかな千里の態度が自分はやはり好きらしい。
 特にこの状況では、いつもの千里の可愛くない態度さえ、常の数倍の価値で有難く思われてくる。
「…」
 比較することで輪郭がはっきりしてくるような、曖昧な自分の気持ちが情けなかった。
「――三島さん?」
「やだ、ユリカって呼んで」と、彼女が言ってくるのは無視。
「あのー、どうして、うーんと…」
歯切れの悪い耕一郎の言いたいことを、彼女は察したらしい。「どうして私が耕ちゃんのこと好きか、聞きたい?」
 自分のことを尋ねられたのが嬉しかったようだ。耕一郎としては、どうして好きか、というよりも、どうしてここまで付きまとってくるのか、というところが気になったのだが、まあ、そこははっきり正さないでおく。
 彼女が耕一郎の進行方向に回り込み、彼は歩みを止める。やはり彼女は真っ直ぐに見上げてきた。
「そんなの、キッカケはあるけど、理由なんてない」
「はあ?」――理由もなしに俺はこんな不当な扱いを受けているのか?
「好きになるのに、理由を踏まえるなんておかしいよ。ひとを好きになる気持ちはそんなにゆっくり起こるものじゃないでしょ?」

「…耕一郎、出ないな…」瞬が耳から携帯を遠ざける。
 千里の横顔は、瞬の呟きを聞こえないことにして澄ましている。それが瞬にはおかしくて、ひとりでこっそり笑った。
 ――あんまり強がらないほうがいいと思うけど…?
 すぐに連絡のとれたみくと健太とは、案外早く合流することができそうだ。ふたりとも、自宅から出ているときに着信したらしい。
 高層ビルを見上げる副都心の公園のベンチで瞬とふたりを待っていると、健太が手を上げて駆け寄ってくる。
「千里、元気だったか?」健太の様子は相変わらずであり、憂鬱だった千里の精神を引き上げてくれた。
「うん。健太は進級できそう?」
「言うこといちいちキツイな、相変わらず。うちもお前らんとこと一緒で、四年次までは、どんなに単位が少なくても上がれるんだよ」
「なるほど、四年生で足止め食らうんだ」
ふー、と健太は溜め息して、話し相手を瞬に変える。
 そしてみくが姿を現した。
 確かに出先で電話を受けたかも知れないが、急な呼び出しにも関わらず、しっかりと外出用の身なり。
 千里は、思わずみくの左手薬指を確認してしまうが、まだそこまで瞬は彼女を縛っていないらしい。そう思ってよく分からない安堵をする自分に呆れた。
「千里、こないだはありがとう」
 恥ずかしそうに俯いて言うみくは可愛くて、また自分が嫌になってしまう。
 しかし、
「うん」彼女の耳元へ「良かったね」とは言ったが、みくを電話で呼び出す前の瞬の態度については、絶対に言わないことに決めた。
 そして千里は瞬の顔を盗み見る。何故か瞬は健太にヘッドロックをかけているところである。ただ、先ほど電話をかけたときのような甘い顔を二度とする気はなさそうだということは分かった。
 千里との会話を終えたみくに、一言二言何か言ったが、それはいつもと変わらない彼である。確かにそのほうが“らしい”が、みくの立場なら、心が通じていることを四六時中態度に示していて欲しいだろうに…。
 瞬のばーか、分かってないなあ。いくら私の前であんな顔してもダメなんだよ。あーんなことも直接言ってあげなきゃ意味ないじゃない。――千里も自分のことは棚に上げ、心の中で瞬に御注進したりする。
「耕一郎には連絡とれなかったのか?」
苦しい技の間で健太が訊く。
「何度かかけてはいるんだけど出ない。電源は入っていて呼び出してはいるんだ」意味もなく、がんがん健太の頭をグーで叩くふりをしてから瞬はやっと彼を解放してくれた。
「せっかくだから、もう一度かけようぜ」
今度は健太がかけた。
 瞬の言う通り呼び出し音は聞こえる。健太が自分以外にも聞こえるように、ハンズフリーにした。――呼び出し音が途切れ、
「はい」
「あ、耕一郎?」
諦めかけていたので少し驚いたが、相手は確かに出た。
「健太か?」ヘンに、耕一郎は声を顰めて喋っている。彼の背後がざわざわしているので、彼が外にいて、しかもけっこう賑やかな場所のようだということは分かった。
「健太、あのな…」尚も声を顰め続ける耕一郎。何故か泣きそうに声がしぼんでいる。
 そこへ、割りこんできた、甘い女の子の声。
「こーおちゃーん、何してるのお? はやく来てー?」
「健太、違うぞ!」と、今度は大きな声で否定してくる耕一郎に
「何が違うんだよ」苦笑しながらも一応ツッコミを入れると、
「あっ、三島さん――」
と小さく叫んだきり、耕一郎の声が遠くなる。どうやら携帯を取り上げられたらしい。
「耕ちゃん、さっき電話に出ちゃだめって言ったでしょう?」
 そして、代わりに大きく聞こえてきたのは、先ほど猫なで声で彼を呼んだ女の子の声だ。ただし、喋る調子だけはまるで別人のものである。つんつんとトゲのある口調で
「もしもし?――あなたたち、耕ちゃんにつきまとってた悪い友達でしょう?」と言ってきた。
「こらっ、何てこと言うんだ。俺たちは悪くなんかないぞ」健太が言い返すと、彼女も負けておらず、
「前のときも思ったけど、どうしてあなたたちは、耕ちゃんを拘束するようなことばかり言うの? そんなのいい友達とは言えません」
「拘束なんかしたことないぞー、耕一郎を出せ、おいっ」
しかし健太の言い分も彼女相手では、暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏、更に状況に酔いしれた声が返ってくる。
「耕ちゃんの恋を邪魔しないであげて。お願い」
「…」もう一度書くが、健太の携帯は今、ハンズフリー状態である。
 しーん、とした場を気遣って、みくが苦笑いの混じった声で「…耕一郎、彼女のこと『三島さん』て言ってたね。どこかで聞いたことあるなあ…」と言った。
 もう瞬は笑い死にする寸前で、腹を抱えて震えている。その背中を叩く健太も思い出したらしく、急にひっくり返って笑い始める。
「三島さん…て、誰だっけ?」みくは千里に答えを求めた。「千里、知ってる?」
「――彼女に耕一郎が振られた後、みんなでクリームあんみつ食べたでしょ」千里は溜め息するしかなかった。
「あーっっ」
 そして千里以外の三人は、お互いを指さした。「“おっかけ迷惑娘”だあ!」

「遠回りして帰ってやる」
恩着せがましく健太が言うのを、千里はすげなくあしらおうとした。「そんな面倒なことしなくていいよ」
「遠慮するなって、有り難い説教してやる」健太は、定期券の千里に遅れないように、さっさと切符を買って追いついてくる。
 千里は不機嫌なままの自分を隠そうとせずに、健太の前だというのに平気で無言になり、無礼な態度を続けた。
 耕一郎が三島ユリカと一緒にいると知ってから、みんなと別れるまでの辛抱と思って無理に笑っていた顔は、もう緊張をなくして、不遜な表情しかできないのである。
「千里」
「はあ?」全然女の子らしい媚びも何もない上目遣い。「何よ、何か文句ある訳?」
彼女がムキになるのがおかしくて、健太は思わず笑った。「元気ないよな、また」
「元気がないんじゃなくて、今は機嫌が悪いだけだよ」
始発のこの駅のホームに、電車が滑り込み、降車する客と入れ違いにふたりが乗る。「本当についてくる気なのね」
健太にとっては、何の得にもならない遠回りの帰路である。このまま自分と同じ電車に乗ると、彼は自宅までこの先二回乗り換えなければならなくなる。
 そこまでしてもらっても嬉しくないし、千里には心当たりのない説教とやらも、聞く耳を持てるかどうか分からない。
「おう、ついていくさ」千里の隣に座って、健太は彼女の顔を覗き込んだ。「どうして機嫌悪いのかなー?」
「…」
 そんなことの理由は、健太に訊かれなくても分かっている。
 発車時刻までにはけっこうな混雑となった車両。その人ごみの間から、向こうの窓を見れば、自分の可愛くない表情が映っている。
 発車を知らせるけたたましいチャイムの音。ドアが閉じて、電車がゆっくり加速していく。
 ――あの瞬間、自分は頭から冷水をかけられたように、血が引いて行くのが分かったくらいショックだったのだ。
 そして今、そんなことがこの不機嫌の理由なのだと思い当たる自分が、また嫌だ。
 ぶすぶすと焦げるような不快感が千里の胸を塞ぐ。
「まだ耕一郎はどうでも“いいやつ”か?」
 訊かなくても分かるなら、訊いてこないでよ。
 ぐっ、と健太を睨むが、彼は飄々と交わしてしまう。今の千里なんて健太には全くこわくないのだ。
「でも、もういい加減に二回目なんだから分かっただろ、お前がそう思ってる間に横から耕一郎にちょっかい出すやつはいくらでも出てくるんだぞ」
にしても、あの電話の耕一郎の慌てぶりはおかしかった。この先一週間くらい思い出し笑いができそうである。
「何?――あの三島 ユリカのこと言ってるの? 彼女は…」どうせ飽きたら耕一郎から遠ざかるに決まっている。現に前回、そうして彼に何も言わせないで、三島 ユリカは“耕ちゃん”とお別れしているのだから。
 しかし、そう言おうとした千里を健太はたしなめた。
「ユリカちゃんのことを言ってるんじゃなくて、俺はお前のことを言ってるの」
「――」千里は言葉に詰まった。
 停車駅が来て、電車がスピードを落とす。
 千里の心臓は逆に速くなった。健太の目を見ることができないくらい、もう自分の非に気付かされた。
 あ、これは私の問題なのか、と今更思ったりする。
 しかし、健太はそんなことでは許してくれなかった。「お前さあ…」
 次の言葉が、自尊心の強い千里を傷つけることは十二分に承知の上で言う。「ちょっとばかしズルいんじゃないのお?」
「ずるいってどういうことよ」
夜のホームに電車が入ってドアが開く。その脇に座っていた千里の足許で、暖房に暖められた空気と冷たい外気が一瞬にして入れ替わった。
「耕一郎はお前のもんなの? そういう法律あるの?」
 何もしていないくせに、ということなのだろう。「耕一郎が、お前のもんになってやるって言った訳じゃないんだから、ヤツがこんなことになっても千里にはショックを受ける権利もないと思うけど」
 千里のことは好き、けれど耕一郎のことも同様に好きだから敢えて健太は言った。
「あんまり自惚れないほうがいいんじゃない、ちさっちゃん」
 ふふん、と笑って、更に立ち直れなくしてやるという念の入れようだ。
 こうして健太は、ちいとばかり高かった千里の鼻っ柱を粉々に粉砕し、さっさと乗換駅で千里を置き去りにした。
 ――耕一郎、上手く慰めてくれよ。
「なーんて、絶対無理だよなあ…」
呟いて、昔からスマートな外見に中身がついていっていない友人に苦笑する。そしてまた思い出してしまった。
 健太、違うぞ!
 分かってるよ。そんな度胸がお前にあるなら、今日、こんな遠回りしてねえよ…。
 降りた電車が過ぎ去るのを完全に見送って、健太は接続電車のホームへ階段を下って行く。
 そして、ポケットに手を入れると、瞬とみくとのじゃんけんに負けた自分を恨んだ。耕一郎との通話の後で自殺しそうなくらい暗い顔になってしまった千里を、誰が送って行くかを決定するささやかな戦いに健太は負けていたのである。
 ――嫌われ役で済まなくて、ほんとに嫌われた気がする…。
 ふと、耕一郎に電話を入れようと思ったが、
「瞬のやつがしてくれてるかな…」
健太はやめた。

 翌日の昼過ぎ。
 部屋の中で千里は買うだけ買って溜まっていた雑誌を整理していた。別に今日のうちに急いで片付ける必要はないが、何かをしていないと昨日の不愉快なことが全部彼女を取り囲んでしまう。――耕一郎のこと、瞬の態度、健太の言葉、全部。
 捨てる雑誌を積み重ねて紐をかけていると、机上に置いていた千里の携帯電話に耕一郎からの着信があった。液晶はしっかりと彼の名前を表示している。
「…」千里は机についたが、携帯を手にも取らずにただ眺めた。
 出たら彼は何を自分に言うつもりなのだろう。
 彼の性格からして、言い訳はしないだろうと思う。最初から最後まできっちりと、昨日あったことをすべて説明してくれるに違いない。その上で謝ってくれるかも知れない。
 誠実と言えば誠実な態度だが、それは千里が彼に望むことではなかった。しかし、それなら何を求めているのか、と訊かれると何も答えられない。
 電話に出る前から耕一郎の言葉の予想がついてしまったことで、千里はその電話を、結局は黙殺した。しばらく経つと、死んだように携帯は黙りこくる。
 それから間もなく、また電話が千里を呼んだ。
「?」
 番号非通知での着信である。今度は出てみた。
「千里」
耕一郎の声だと思った途端、ただでさえ敏感になっている神経が、ぎゅう、と握られたように痛み出して、彼女は
「…」
無言で、通話を切る。
 耕一郎と話したくない。何も聞くことはない。
 切ってしまってから、更なる痛みを伴った強い後悔が彼女を襲った。それでも無理矢理、自分を庇って、思う。――知らないよ、もう、耕一郎なんて…。
 机に座っていることすら苦しくなって、ベッドの上で仰向けになってみれば、窓から見える空は太陽を西側にしている。
 ――もっと電話してきていいのに…。
 自分から拒絶したくせに、そんなことを思ったりする。
 遠藤 耕一郎というひとの思考は健全で建設的である。電話を切られれば、そうですか、と思ってもうかけて来なくなる。「三顧の礼」の例えは彼には通じないらしい。
 それが分かっているくせに切ってしまった。
 でも千里は、どこか諦めのいい彼に勝手だが苛立ちを覚えてしまう。あまりにもあっさりし過ぎていて、彼の中での自分の存在が軽いのではないかと思えてくる。
 この日、耕一郎はこれ以上、彼女に電話をしてこなかった。
「だめか…」耕一郎は自宅の居間で溜め息した。
 非通知でかけてみたのは、一種の賭けだった。
 かけてみても出てくれないのは、出られない状況なのか、自分がかけているから出ないのか確かめるためである。
 耕一郎が千里の昨日の様子を知ったのは、健太の予想通り、あれから瞬が連絡をしていたのであった。何でも放っておく瞬にしては、気を利かせたと言えるだろう。
 その瞬の告げ口があってから、ずっと耕一郎は気が気ではないのだ。
 切実に諦めたくないと思う。
 そう思うが、どうしたらいいのか分からない。
「あー、もう…誰か助けてくれ…」
彼には珍しい、他力本願な気持ち。
 しばらく、家族がまだ誰も帰って来ないのをいいことに、耕一郎は居間の絨毯に横たわった。
 白い天井に四角く貼りついた照明器具しかない、日本画のような幽玄を湛えた景色。それがぐるぐる回転する錯覚に落ちこんで行く。
 眩暈のように彼を囲い込み、耕一郎は追いこまれた動悸の激しさに動けなくなる。
 ――。
「お兄ちゃん、何でこんなとこで寝てるの?」妹に揺さぶられて目が覚めた。「起きてよ」
「…三哉子…」妹はまだランドセルを背負ったまま。兄の肩にかけた手は、外から戻ったばかりの冷たいものだった。「お帰り」
 上体を起こしてみる。
 電話を切られてしまったのから、さして時間は経過していないようで、夕暮れは、まだ若干西側の窓を明るくしている。
「ただいま」小学校三年生の彼女は年齢相応の無邪気さで、兄に尋ねた。「あのね、お兄ちゃん、ユリカちゃんて知ってる?」
知っているも何も、彼女のおかげでここまでの窮地に立たされている訳である。
「知ってるけど、どうして三哉子が知ってるんだ」思わず、事情を何も知らない妹に対してなのに、棘のある声になってしまった。
「ユリカちゃん、今、うちの外に来ているの。お兄ちゃんを呼んで来てって」
 おい。――裁判所に、半径50メートルでいいから接近禁止命令を出してもらいたいくらいだ…。耕一郎は思わず目許に手を遣った。
「ねえ、ユリカちゃんはお兄ちゃんの彼女なの?」
「…彼女だったら、いくらお兄ちゃんでもこんなイヤな顔はしないぞ」自分の、あくびをかみ殺した溜め息が、憂鬱さを余計に増してくる。
 しかし、はっきり話をつけた方がいいのだろう。耕一郎は、また彼女の目の威圧感を思い出して、身震いする思いである。それでも立ち上がるのは、千里に申し開きもできない今の状況を打破しなくてはならないと分かっているからだ。
「お兄ちゃん、頑張ってねえ」
三哉子は応援するとか心配するとか言うよりは、面白がっている。好奇心に目を輝かせて、居間の入り口から靴を履く兄の背中を見ていた。「お兄ちゃん、私、ちさっちゃんの方が好きだからね」
「…」これにはノーコメント。「三哉子、お兄ちゃんが出たら鍵をかけなさい。真二が帰るまで開けちゃだめだぞ。遅くなるかも知れないから、お母さんに夕飯は待たなくていいと言ってくれ。分かった?」
「はーい。行ってらっしゃーい」そして可愛い妹君は、重ねてエールを送ってくれる。「頑張ってねえ」

 雑誌を整理しているのに拍車がかかって、千里はあのまま閉じこもり、部屋の模様替えまでしてしまった。それも労力だけが無駄に費やされた感じで、家具の配置が変わった部屋を見渡しても、新鮮な気分にはちっともならない。場所の変わったベッドに横になってみても、こんなことしなきゃよかったと思わせる落ち着かなさであった。
 そして、こんなに気が滅入っているのに時間がくれば空腹になる。――身体さえ、自分の精神を置いていくような気がして、千里は更に苛立った。
 太陽は完全に沈んでいて、階下からは母親が夕飯の支度をしている気配がする。カーテンをしに立ち上がるのさえ面倒くさい。窓の外は夜である。
 机上には、沈黙を続ける携帯電話。
 天井を見上げたら、不意に健太の言葉が蘇る。――あんまり自惚れないほうがいいんじゃない、ちさっちゃん。
 でも、耕一郎はかつて言ったのだ。自惚れの強いほうがお前らしくていい、ずっと自惚れていろ。
 ただ、耕一郎がどれほどの重みをこの言葉に持たせようとしていたのか、それが千里には分からない。
 それこそ自分の自惚れが、彼がこの言葉に込めようとした意味以上のものを勝手に拾い上げているような気がしてきた。
 そして、思い出そうとする。
 思い出そうとする。
 遠藤 耕一郎を、遠藤 耕一郎たらしめている部品のひとつひとつを。――部室の床に置かれた、お行儀のいい黒いローファーの足とズボンの裾。サッカーをやっていた割に真っ直ぐな脚。白いカラーの入った学ランの襟。キーボードを叩く指。――
 どうしてディテールばかりこんなに明瞭なのだろう。
 苛々する。
 やっぱり顔が出てこない。
 自分は、彼の顔を見ていなかったのだろうか。
 そんなことはない。…そんなことはないのだと思いたかった。
 しかし思うように裏付けができない事実を前に、千里はとうとう“カンニング”をすることにした。
「写真見ればいいんだよ…」
自分が撮影した写真の量は膨大であるから、その中に山ほど耕一郎も写っているだろうが、本当は、自分のためにもとりたくなかった最終手段だった。
 高校に入ってから写真に収めたくなるような楽しい出来事が増えたからということもあり、その三年間の思い出がアルバム何冊にも渡ってぎっしりと納められている。
 千里は三年生の夏頃のものを手に取った。――この頃、新しいカメラを買ったばかりで、その物珍しさも手伝い、何かというと撮りまくっていたのである。一度ボタンを押すと露出を変え、三回連続でシャッターが切れる機能がやたら嬉しかった。
 それは、狙った瞬間より、次や、次の次の瞬間にくる被写体の何気ない表情のほうが良いということがあると気付いた面白さでもあった。
 果たして未だ高校生の耕一郎が、千里の記憶と比較にならないほどしっかり鮮明にそこに存在していた。
 答え合わせをしてしまえば、何と簡単な問題だったのだろう。情けなくて泣きそうになる。彼の顔をあらためて見ると、男にしては優し過ぎるような顔なのだと思った。――目許に影を落とすほど睫毛が長くって、口元もきれいで。それを、何事にもきびきびした性格と、体格の良さがカバーして一人前になっているような。
 彼はカメラに対して同じ笑顔をするのが不得意らしく、こうしてたくさん一遍に見ると、全部違う顔をしていた。パラパラと眺め、ページを繰り続ける。
 しかし、
「何これ…」
見開き二ページに収まっている六枚すべてが、耕一郎メインというのを見つけて、半分呆れて手を止めた。
 一枚目は、耕一郎が真ん中ではあったが、横に健太や瞬やみくもちゃんと写っていた。みんな上着を脱いでいるが制服のようである。少し見上げるようなアングルで、背景はただ高く青い空と、刷毛でかすったように薄い雲だった。
 覚えている。――夏というよりは、もう土用波のある秋口だった。五人で飽きもせずにバスに乗って夢が浜に行ったときのこと。二学期開始から着るように義務付けられた上着が邪魔なほど暑かった。
 三脚を持っていかなくて、彼女が手に持ったまま撮ったから千里はフレームの中にいないのだ。
 二枚目で、耕一郎は目を閉じてしまい、ヘンな顔。他の三人も視線をカメラから外す。
 三枚目、四枚目で僅かずつ三人がフレームから逸れていくが、耕一郎だけがその場に相変わらず佇んでいて、不意にきつい視線をこちらにくれる。
 その、射抜くような目が再び閉じられる五枚目。
 そして柔らかな表情になって「千里も上がるか」と言ってくれた六枚目。――そうだ。バストショットで足許は写っていないが、このとき自分以外の四人は、バス停から海岸に続く石段の上にいたのだ。
 更にページを繰った七、八、九枚目で、彼が右手をカメラに向かって差し出す過程が写っている。「来い」手にピントが合って、耕一郎の顔がぼやけていく。――今の、自分の記憶のように。
 堪らなかった。
 この写真のように、皆がいなくなっても彼だけはそこにいて、自分に手を差し出してくれるだろうか。
 耕一郎自身のいる高みに、その大きな手は自分を引き上げてくれるのだろうか。
「…」
千里はかっ、と頭へ血が上るままに立ち上がった。
 携帯を掴むと、耕一郎にかける。
 動悸が彼女の身体すべてを支配し始めた。――ふと目を遣った窓からは、街灯に照らされた狭い道路と、そこを通る学生服の高校生の背中が見えた。
 何て言えばいいのだろう。もうさきほど自分は、彼に対して言い訳のきかないようなことをしてしまっている。
 何て…?――何て…?
 しかし興奮する彼女を余計勢いづかせる、のんびりとしたアナウンスが耳に届いた。「…電源を切っておられるか、電波の届かない場所に…」
即座に大学の図書館だと思った。彼が図書館で電源を切るのは分かっている。
 部屋を出ようとノブに手をかけると、電話をしてはいけないと耕一郎に言っていたユリカの甘い声が蘇って千里は立ち竦んでしまう。が、そこは健太の言葉が後押ししてくれた。
「ユリカちゃんのことを言ってるんじゃなくて、俺はお前のことを言ってるの」
 床に散乱する、まだ読んでいないニューズウィークのクリントンもゴアも踏みつけにして、彼女は部屋を出た。

 三島 ユリカと再会した場所に佇めば、彼女との縁が既に切れた今だから、また会えて良かったのかも知れないと、何となく優しい気持ちになれたりする。
 それにしても疲れた。
 腕時計が、耕一郎が家を出てから軽く三時間経過していることを知らせる。まだ彼女の甘ったるい声と、腕に寄りかかる感触が残っていた。もう彼としては、その強烈過ぎる愛情表現の対象が早く新たに見つかるよう祈るだけだ。
 前回のように自分を捨てる理由があった訳ではない彼女は激しく食い下がってきた。それで多少骨は折れたが、ユリカがこれ以上自分にまとわりつかないように、何とかすることができたところだった。
 独自のロジックがあり、丁寧にお断り申し上げただけでは分かってもらえない相手に物事を通すのは――特に、良くも悪くも優しい耕一郎にとっては――困難な作業だった。
 そして最終的に泣かれてしまう。ユリカに限らず、彼には毎度のことであった。
 どうも自分は、女の子に笑って諦めてもらうように仕向ける話術を身につけていないらしい。
 ただ、妹の三哉子がよく泣いて自分の意見を通すのに慣れていて、実は女の子の涙にさほど感動しない彼は、確かに少し慌てたが、もう彼女の言いなりにはならなかった。
 彼女の涙が耕一郎にもたらしたのは、軽い興醒めの気持ちだけ。それでもそれは、台風の行き過ぎた後の静かな、寂寥の混じった感情に似ている。
 更に耕一郎にとってラッキーだったのは、ユリカが別れにも敏感であり、それにも酔うことのできるタイプだったことである。
「耕ちゃん、耕ちゃんとのこと、ユリカずっと忘れないからね」と、泣き叫びながら遠ざかってくれたのには、さすがの彼も苦笑せずにはいられなかったが。
 だって、昨日と今日で何があったというのだ。ただ明らかなのは、確かに三島ユリカは嵐であり、耕一郎はこれからそれが及ぼした甚大な被害を回収しなければならないということである。
 深く、溜め息ひとつ。
 ――帰ろう…。
 まずは千里に連絡しようかと思い、携帯電話の電源を入れたけれど、耕一郎はかけないまま家路に就こうとしていた。また彼女に拒否されてしまったなら、疲れが倍増しそうだった。

「…」
 いない。
 春休みの、しかも閉館時間ギリギリの図書館の中で、千里は耕一郎を捜していた。
 耕一郎どころか、誰もいない本棚と本棚の間で彼女は踊るように一回転してみる。
 どこまで行っても無人の自習用机。天井の白色蛍光灯が白々しい。外の景色に目を移せば、窓に迫る樹木の葉が室内灯に照らされて妙に緑色であった。
 …耕一郎、ここにはいないの?
 始め、彼に出会ったときにどういう態度をすればいいのか考えて緊張していたが、二階の開架図書の端まで辿りついたとき、彼女の胸の中でその緊張が別のことに対してのものに変わった。
 今日は会えないんだ。
 そのことに気付いたら、歩けないくらい力が抜ける。
 やっぱり昼間の電話に素直に出れば良かったのだ。――そして、彼の弁解を直接聞いたほうが、絶対今よりはマシな気分になれたと思う。いくら思ってみても仕方のないことだと思いながら、反省せずにいられなかった。
 もう彼女は、初めに自分が何に対してそんなに腹を立てたのかさえ念頭にない。
 構内から出た歩道で、千里はまた耕一郎に連絡を試みた。
 図書館にいないのにまだ電源が切れているなら、たぶん彼女と一緒なのだ。そうではないことを懸命に祈る。
 校舎前には片側四車線の国道と、それに重なって首都高速が通っていた。その間を歩道橋が架かっており、大学から電車の駅に向かうには、どうしてもその歩道橋を通らねばならなかった。
 国道は少し渋滞気味で、とろとろと進んでいる。その騒音に紛れて耕一郎を呼び出す音が耳元で聞こえていた。
 胸が苦しかった。じりじりする。この溜まって行くようなつらさは、彼に直接会ったらどうなるのだろう。
「はい」――果たして、彼は出た。
 途端、何かが咽喉に塞がってきて、千里は次の言葉が出なかった。ただ、こちらが何も言わなくても、耕一郎は自分がかけていることに気付いているのだろう。
「千里か?」と言った声が、優しかった。
 もう懐かしい。その声を聴きたいと思っていたのに、聴いたら余計癒されずに千里は彼を渇望する。
「耕一郎、今、どこにいるの…?」
 苦しい。心臓だけがひどく動いている。指先がヘンにかじかんで震えた。
「大学駅に向かって歩いているところだが――どうした?」
「耕一郎、それ以上歩かないで!!」
向こうで彼は、何を言っているのだと不思議に思っているだろう。
 でも、どうしても今、
「会いたいの…耕一郎、どこ――?」
訪れた沈黙は永遠のように長い。空気が上手く吸えなくて吐きそうだった。
 しかし、その後に
「千里、俺はお前のそばにいるよ」
 確かに聞こえて、目の前の自動車が信号の変化で一斉に流れ始めた。
 何台もの車が、何重もの壁をつくって行き過ぎる間に見え隠れする、向こう側の歩道。
「分かったか?」
「耕一郎――」
とりあえず目が耕一郎の姿を認めた瞬間に、向こう側へ渡る歩道橋に向かって駆け出していた。
 通話も切らないまま、携帯電話を握り締めたまま走る。耕一郎もこちらに向かっていることなど確認している暇はない。
 手すりに手をかけて、階段へ素早く回りこんだ。
 走っているから苦しいのか、違う何かが作用して苦しいのか分からない。千里の息は歩道橋の踊り場でもう切れてしまった。
 耕一郎に近づいているはずなのに、その距離が縮まるのに反比例してますます気持ちが惨めになってくるのは何故だろう。
 最後の一段を蹴り上げた。
 歩道橋の上に、千里は辿り着いた。
 上がった呼吸に立ち止まると、同じように階段を駆け上がってきた耕一郎が、千里の眼前に伸びる真っ直ぐの向こうに現れる。
 ただひたすらに、耕一郎だと思った。
 ガソリン臭い風が、正面から強く吹き抜ける。
 街灯を背後にしていて、お互い顔がはっきりしないが、やがて、千里が彼に近寄るにつれ、耕一郎が彼女に近寄るにつれ、だんだんと明らかになる。
 そして至近距離で対峙する。足許の国道も頭上の首都高速も、何も聞こえない。風すらもう動いていない。
 その濃度を増した空気の中で、耕一郎が一瞬目を伏せてしまった、そのとき――千里は彼の頬に向かって手を挙げた。
 自分の、ほんのすぐ側で大きく破裂音がしたが、耕一郎は何が起こったのか分からなかった。
 分からないのだが、目には星くずが飛んだし、身体が反射で手を左頬に持って行ったので、そこでやっと、ああ殴られたんだと思った。
「耕一郎の嘘つき!」
暗い高速道路の高架下でも、千里の目が潤んでいるのは分かる。「ぜんぜん私は自惚れてなんていられないじゃない」
 ぐっ、と更に背伸びするように耕一郎の襟を両手で掴んだ。彼はされるまま、少し姿勢を低くして彼女の顔を見つめる。
 千里も視線を外さないが、吊り上がっていた眉はんだんと弱気になり、瞳が震え始めた。
 こんなことしたいんじゃない。
「耕一郎…お願い――」
とうとう目を伏せてしまった彼女の額が強く、耕一郎の咽喉元にきた。ここまで駆け上がった息もまだととのってはおらず、彼女の胸を上下させる。
 揺らぐ。
 足許すら定かではなくなってしまう。
 自分の存在が不確かになっていく。それがすべて崩れる前に手を差し伸べて欲しかった。
 千里は全身を神経にして、ただ耕一郎の反応を待った。
 耕一郎は自分の頬から掌を外す。自分の意志に関わらず、彼女に求められるまま振舞わなければならない場面なのだ。
 その状況を自覚すれば、現実味が速やかに遠ざかり、心がこんな場面にあって異様なくらい静まり返った。
 回す自分の腕が余るほど細い千里の背中をしっかり抱いてやりながら、それでも彼はどこか醒めている。彼女の身体が自分に寄りかかって、先より少し重くなった。
 せがむような仕種で、千里の腕が首に回ってきた。
「…」
結果的に、彼女が言う通り、自分の言葉が嘘になった現実に対して言い訳をするつもりはない。謝罪も出てこなくて、ただ千里が爪先立ちになるほど強く抱き締めた。
 冷たい彼女の髪の毛の感触が、叩かれた頬に気持ち良い。
「千里、俺、千里のこと――」
耕一郎が言い出すのへ、千里は彼の胸から顔を上げた。
 優しく覗き込んでくる彼の瞳は、自分のよく知っている真摯さである。昨日、瞬がほんの少し見せてくれたのと同じ色をしている。
 そして、あの海の写真とも同じ目の色だった。
 嬉しかった。
「負けないから」
半分笑いの混じった不敵な彼女の言葉が耕一郎の耳を掠り、癒すように手が左頬に触れてくる。そして千里は、また少し背伸びして目を閉じて、耕一郎がみなまで言えないように口を塞いでやった。
 耕一郎はその目を閉じられなかった。――瞬きすら。そして、双方沈黙の数秒間。
 前触れもなく起こった非常事態に似た僥倖に、彼の思考はショートしてしまったようだ。頭の中のシナプスがすべて焦げ付いたらしい。
 そのびっくり顔のまま、まじまじと千里の顔を穴があくほどに見つめるだけ。
「耕一郎も、もう少し自惚れていいんだよ」
そして、自分が唇で触れたことを、鈍感な彼にも理解できるように念押しする。彼の口元を指差して、一言。
「口紅」
 始めに彼女がどういう顔だったか忘れそうなくらい、今、千里は威張っている。
 鼻の奥がツンとして、耕一郎は千里の肩へ、お辞儀するように額を寄せた。
「ばか…」――全面、かつ無条件降伏である。
 排気ガスで充満した歩道橋という都会のうてなの上は、忙しく流れるその上下の自動車の騒音とは対照的に、緩徐であった。
 星は見えない。

「…エイプリルフールの、手の込んだ嘘ですか?」
と、思わず瞬が言ったのは、裕作が今日の四月一日づけで地上に勤務になったということに対してである。
「嘘をつくのに、ここまでの準備するかよ」と、健太はあたりを見渡した。
裕作が今回借りたのは、日本家屋の一軒家だった。整然と刈り取られた垣根の横にバイクが駐車してあるというミスマッチが新鮮な感じである。
 家自体は、新しくて綺麗であるとは言い難いが、きちんと掃除してあるし、男所帯らしい物のなさが印象を良くしている。
「でも裕作さんならやりかねないよ」わくわくした調子のみくに
「そうそう!」千里が相槌を打つ。
「んー、期待を裏切るようで悪いんだけど、俺はまだ去年の末の処分で減俸中なんだ。酔狂で引っ越すほどの金はほんとにないよ。それに俺の転勤なんていう嘘で騙されたいか、お前ら。騙されて楽しい嘘じゃないだろ、そんなの」
 五人が通された部屋は、居間に続いた広めの和室で、そこには床の間もあり、手入れの行き届いた庭に突き出した縁側があった。そしてその先に――
「桜だあ!」五人は吸い寄せられるように、雨戸のそばまで進んだ。
どれくらい古いのか分からないが、がっしりした幹に、平屋の屋根を覆うような低く広い枝振りの立派な桜だった。
 真綿のような、霞のような、泡のような花房をいっぱいにつけている。
「この桜で賃貸契約決めちゃったの。いいだろ?」
「うん、きれい…」
素直に呟いたみくに、瞬が笑った。
「どうして桜がこんなに綺麗か知ってるか、みく?」
「どうして?」彼女が話にのってくれれば、もうこっちのものである。
「それはな、木の下に死体が埋まっていて、その血を吸い上げているからさ」
ふふふ、と不気味な微笑までつけてくれる。
「瞬、坂口 安吾ぐらいみくだって…」半分呆れて耕一郎は振り返ったのだが、みくは既に怯えて裕作の背に隠れていた。
 裕作はそのみくに笑いかけると、自作の花見弁当の重箱を座卓に置いて、五人に座るように言った。
「重大発表がありまーす!」
と、上座に座った彼が更に取り出したのはラジカセであった。そのラジカセからファンファーレが鳴る。ぱんぱかぱーん!!――この光景を、耕一郎は懐かしく思い出した。裕作は自分専用の戦闘機を秘密裏に開発していて、それが完成したときも同じようにラジカセでファンファーレを鳴らしたのである。
「この度、I.N.E.Tでは、冥王星に向けて探査用衛星を積んだロケットを飛ばすことになり、この早川 裕作、そのチーフに抜擢されました、はい、拍手ー!」
「おめでとうございます」「すごーい」「裕作さん、かっこいいー」「へー…」
素直に拍手する四人。しかし健太だけが異論を唱える。「っていうか、まだ太陽系突破してなかったっけ、I.N.E.T?」
「健太、そいつは言わない約束だぜ」と言いながら裕作はじゅうぶん苦笑していた。太陽系など軽く越えられる科学力があの組織にあることを、よく知っている彼である。「今回は、並み居る老舗大手企業を倒して、やっとI.N.E.Tが入札で獲得した国の仕事なの。すごいことなの、これは!」と、言い、自分さえ言いくるめようとしてるようであった。
「そんな大仕事に、こんな減俸中のひとを主任につけるI.N.E.Tはどうかしてるわ」
千里が生意気に鼻で笑う。
「はは、まず乾杯しようよ」と、みくがとりなすように段取りを進行させ、出ていたグラスを回し始める。
「耕一郎」裕作がおもむろに傾けてきたのは一升瓶だ。
「はい?」
「飲むよな。今日は俺、負ける気しないから」
「はい?」理解していないままに、彼のコップに酒が注がれていく。「…空腹に冷やのコップ酒なんてやめませんか?」一番悪酔いする飲み方である。
「やめない。今日はお前を潰すから」
 宴もたけなわになった頃、酔いがまわって暑くなったのか、瞬が縁側のガラス戸を開けた。カッコよく酒をたしなんでくれそうだが、実は下戸に近く、元デジ研のうちで一番飲めないのは彼だった。瞬の顔が赤いのを笑った健太が、早速彼の鉄拳制裁に遭う。
 急に室内に向かって吹き込んだ風は、あたりの熟柿臭さを一掃して、桜吹雪を室内に呼び込む。
「あ」
グラスへ桜の花弁が入ったのに千里が気を取られた隙に、向かいの耕一郎の手が彼女の髪に触った。
「…花びらついた」
笑う彼の目の縁もいい加減桜色である。
 髪に触れてくるなど、酔っていないとしてくれなかっただろうが、千里は嬉しかった。
「ありがと」
 そして彼女は、まだ薄明るい外に目を遣った。
 また春がくる。――新しい春がくる。
 そしてたぶん、自分の近くには、優しくて変わらない春が来たのだ。

Fin.

 

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