last resort

 

 早川裕作は今夜月面を離れ、東京・武蔵野にあるI.N.E.Tの施設を訪れていた。
 照明が最小限に落とされた格納庫。裕作は、その片隅に置いている自分のバイクを見遣り、愛しげにミラーに触った。「次はいつ会えるかなあ。俺がいない間は、たぶん省吾あたりが面倒見てくれると思うけど…」
 彼は名残惜しそうにいつまでも愛車の脇に佇んでいたが、コンクリート剥き出しの床に俯き深く息をつくと、足許に置いていたカーボンファイバーのアタッシュケースを携えてそれから離れた。
 そして、バイクが彼に手を振る訳でもないだろうに、振り向き振り向きしながら、明るいエレベーターホールに向かって歩いて行く。
 彼はやがてやって来たエレベーターに乗り込み、5階のボタンを押した。そこは、I.N.E.Tの通信全体を統括する部署の置かれているところである。
「…」
目的階への到着を告げる軽やかなチャイム音とともにドアが両側に開いた。裕作の目の前に広がったそこは薄暗闇だった。
 非常灯が緑色の光を撒き散らし、誘導灯が足許を白く照らしている。その部分的な光の先に、煌煌と電灯を点けた一角がある。裕作が目指しているのはそこであった。
 寒々しい白色光を湛えたオフィス。
 ガラスで遮断された中に、パソコンのモニターを置いたデスクが多く置かれている。窓を背にした上座の机に女性が座っていた。彼女の他には誰もいない。
 白衣を着たその彼女は、裕作の来たのにも気付かず、たったひとりモニターを見つめていた。その様子を見て、彼女らしい、と思った。裕作は思わず笑みがこみ上げるのを隠せない。今夜彼女に会えたことが嬉しかったのである。
「こんばんは」
彼は言いながら彼女に近づいた。
「…早川くん?」
特に嬉しそうな顔をしてくれる訳ではない。つんと気取っている訳でもないが、素っ気ない対応。しかし、いつも彼女はこんな感じだった。
 どこかへ女性らしい感動の仕方を置き忘れたような感じ。
「どうしたの、そんな地味な格好して」PIAAのジャンパーは?、と彼女は無感動に言う。
「地味かな?」
裕作は苦笑した。ここを取り囲んでいるガラスに自分が映っている。――ジーンズに、杢グレーのヘンリーネックシャツ、紺色のナイロンジャケットといういでたちは、確かに白いジャンパーと、黒いレザーパンツの組み合わせに比べたら物足りないだろう。
「うん。君にしては地味だね」でも悪くないよ、と言って薄く笑ってくれた。
 彼女は残業をしながら、ペットボトルのウーロン茶とコンビニの弁当で夕飯の途中であった。裕作の姿を認めても箸を置こうとしない。
「げ。こんなもんいつも食ってるの?」
持ち帰りのためのビニール袋さえ、デスクの上でくしゃくしゃに丸められたまま。
「そうだよ。ほぼ毎日、夕御飯はこれ」
その答えに裕作は悲しくなったが、あらゆることで他人から同情を受けたくないと考えている彼女にはただ呆れたように見えるよう、宙へ手を広げる仕種をするに留める。
 そして彼女の食事風景を上から眺めた。美味しくなさそうなご飯、美味しくなさそうな卵焼き、美味しくなさそうな鱈のフライ、美味しくなさそうな…。
「すごく美味しくなさそうだけど、美味しい?」
「辛辣な質問ねえ…。美味しくなんかないよ」
彼女は劣悪な材質の割り箸を割るのに失敗したらしく、長さが異なってしまったその箸をできるだけ長く持って、窮屈そうに食事をしていた。
「…」
一人暮しの独身サラリーマンか、妻に先立たれたやもめのような食事だと思った。これならば男の自分のほうが余程精神的に健康で満たされた生活をしている。
 しかしこれが、組織の中でノージェンダーをモットーに頑張ってきた彼女の払わなければならない代償かも知れない。――法律が雇用の機会を性の別なく一定に与えてくれても、与えたきりである。仕事の評価を得るために、あの組織の中で男性以上の努力と犠牲は欠かせないものに違いない。最も彼女は、学生の頃からこういうことを当たり前としてきたのに違いなかった。
 彼女は、そういった事情の中で周囲が勝手に定めた肩書きの上では、数日前の早川裕作と同じであった。しかし給料は、数え切れないほど始末書を書いた彼より、2枚しかそれを書いていない彼女のほうが高額に違いない。彼は反省の意を込めてつくったその書類を提出するのと引き換えに、減俸処分という有り難くないものを数度もらっているからである。
 裕作は彼女の前に置かれたペットボトルを手に取ると、躊躇もせず断りも入れず、がぼーっと中身を飲んだ。
「…勝手に飲まないでよ」
彼女は、かさの減った中身と彼の顔を見比べて恨めしそうな顔をする。上目遣いをすると睫毛の長さよりも、眼の下の隈が目立つのが悲しいが、
「さっきから意地悪ばっかりね」薄い唇を尖らせるのが、どうにも可愛らしい。
 普段ばりばり働いているひとの見せる、ほんの少しの媚び。それに気づかないふりで、裕作は本題を切り出した。
「もう、あなたにしばらく会えなくなる」だからお別れの挨拶に来ましたと告げた。
 これが、今日こうしてここを訪れた目的だった。――彼女に直接別れを告げること。
 恩師であり上司でもある久保田にさえ黙って日本を発とうとしているくせに、彼女にだけは会って行こうと思ったのは、一方ならぬ恩義を感じているからに他ならない。
 言ってしまってから裕作は、自分が今どういう顔をしているだろうかと気になり始めた。表面はともかく、目的の言葉を発してから、しくしくと胸が痛み出している。
 彼女は驚いていた。しばらく口にする言葉を考えているように箸を両手で持ったままじっとしていたが、やがて
「そっか」
ぎこちない仕種で裕作を見上げて笑う。「元気でね。君の異動は聞いていたけど、こんなに急に行くとは思わなかった」
彼女は視線を裕作に据えたまま立ち上がり、箸を置くと、右手を躊躇いなく差し出した。

 握手を求めるその手は、裕作と彼女の間に築かれた交誼の質を物語っている。

 裕作は彼女の手を握った。
「どうもありがとう」素直に言うことができる。
しかし彼女に直に触れることで、明らかにぐらつき始める部分が心の中にあった。「――今までのことも、本当に感謝してる」
「どういたしまして」
そんな彼の動揺は彼女に微塵も感染しなかったようで、彼女はやはり衒いなく裕作の手を握ってくる。「私も君と仕事できて楽しかった。毎日スリリングで」
「あれは、あなたにとって仕事だったんですか?」
彼女は声を立てて笑った。
「うん。無償の労働どころか、始末書と減俸を食らった訳だけどね」
その返答に裕作は安心した。ここで、じめじめと君のためのボランティアだったなどと恩を売るようなことを言われたら、勝手だが興醒めである。この彼女のドライさが彼を救った部分は大きい。
 彼女が書いた始末書の2枚は、私な理由で組織の通信システムに介入したことであった。しかしそれは彼女が企んだことではない。
 裕作が組織の力を部分的に私用する課程で、彼女を意図的に巻き込んだのである。

 エレベーターのボタンを押してから、裕作は振り返った。どこにそのベクトルが向けられているのか分からない衝動に駆られる。たぶん、これが別れに際しての寂しさなのだと思った。
 彼女はエレベーターホールまで出てきてくれたものの、特に改めて何を言ってくれるのでもない。裕作とは目を合わせようともせずに、つま先でフロアをトントンと叩いて遊んでいるだけだ。手は、まるで何かに触れるのを怖れるようにそれぞれポケットに入れている。
 俯く白衣の肩が細かった。
「じゃあ」
彼女は裕作がゴンドラに乗り込んでから、やっと目を上げる。「うん、早川くん――」閉じかかった扉の隙間に見える暗い照明の中で、小さな顔がほんのり白かった。
「さよなら」
彼女の声がドアに遮られようとしており一瞬だけ裕作に、彼女の、手を顔のあたりへ持っていく動作を見せて無常にも更に閉じようとする。

 胸を鷲掴みにされる。

 裕作は咄嗟に「開」ボタンを押してしまった。

 

 彼女は彼が隣で寝息を立てているのを確認すると、そっと起き上がった。
 何気なくリモコンでテレビを点け、消音にして眺めると、NHKがこの深夜という時間に不似合いな、実に健全な番組を再放送していた。
 乾いた黄土の舞うまばらな草の茂みを、獅子が跨いでいる。群れから、何か事情があって離別している雄のライオン。
 可哀想に、誰の助けも受けられず、彼は自ら狩りをして命を永らえなければならない。
 映像が切り替わり、獅子は猛り、細い体をしなやかに空へ投げ出して駆けるガゼルを追いかけた。個体の大きさの差は大きく、ばさりと一撃で倒された茶色い鹿は、咽喉笛のあたりを猛獣によって容赦なく食いつかれる。
 双方、表情ひとつ変えず、地面に叩きつけられるように共倒れになる一瞬――素早く再び起き上がるのはライオンだけ。
 ガゼルは、噛み切られた急所からどくどくと血を流し、綺麗な白とキャラメル色に塗り分けられた毛並みを汚す。
 嫌がって暴れる身体もやがては動かなくなり、あとは死体に変わっていくだけのそれを獣に好きにされるだけだ。
 びくり、と大きく痙攣するように全く生気のない鹿の前足が、真っ青な空に浮かび上がった。その残像に胸が落ち着かず、彼女は自分の咽喉に手を遣った。
「…」
 ライオンの食事風景という、この手の番組にはありきたりな映像がひどく――。
 ひどく…。
 やがて獅子は満腹が呼び込んだ眠気を抵抗なく受け入れた。
 彼女が振り返るとそこに、やはり同様に充足したのだろうか、眠っている者がこの部屋の中にもある。

 少しばかり彼を恨んだ。
 彼女が必死になって遠ざかろうと努力を続けていた場所を、彼はただ一度の抱擁で、再び眼前へ持ってきてしまった。
 その場所の奥深くから声がする。

 ――「お前にもう少し胸があればなー、せめて俺よりバカだったら良かったのに」

 思い出すのは久し振りなのに、その言葉が心を突き刺してくるのは、初めて言われたときと変わりなかった。
 すごろくの「ふりだしに戻る」というマスに停まってしまったように、突然に簡単に不幸が蘇る。
 でも、その不幸を再び招き入れたのは他ならぬ自分なのだ。

 

 夏の“初陣”からしばらく経ったある日のことだった。

 相変わらず早川裕作に対しての組織の信頼は回復している訳ではなかったが、戦局の悪化が自動的に彼を戦場へ借り出すことになってしまっていた。
 そして夏休みのある日を境に、彼と例の“高校生たち”との下方硬直したままの関係も、急速に良い方向へ構築されているようだった。
 今日も無事ひとつ戦いが終わって、彼女が主任を務める通信セクションでもみんな揃って拍手したところだった。
「主任、元気ですか?」
何の前触れもなく裕作は、ひょっこり彼女の勤める部署までやって来た。ついさっきまでモニターの向こう側だった人物である。そこにリアル感が伴わなくて、彼女はぼんやりと彼に言った。
「早川くーん、どうしたのー?」
彼は真っ白い歯を見せてにっこり笑っただけで、このおとないの理由をすぐには言おうとしなかった。困ったように前髪を掻きあげる手を彼女は見咎める。
「あーっ!」がっと裕作の手首を掴んだ。「手、ケガしてるじゃない」
「ああ…気付かなかったな」
「消毒くらいしてあげる」
そして会議用のブースにふたりきりになった。

「あなたは、スーツの装着時間を長くできると思いますか?」
白衣のあなたに手当てをしてもらうと、保健室の先生みたいでドキドキしちゃうなあ。高校の保健の先生、美人で優しくて大好きだったんだよね、俺。――いつでも彼はこんなふうで、どこに真剣味があるのか分からない。
「…もうその可能性を探る段階じゃなくて、長くしようと決めたんでしょ?」
そのために医者の出した過酷な条件をクリアしようと苦労しているのも知っていた。
「なあんだ、知ってたんですか」
「『なあんだ』じゃないよ、早くそういうことは言ってくれないと困るんだよ。装着時間を延長するってことは、それだけ回線を繋いでおく時間を長くしなきゃならないってことでしょう?、あの情報量を2分半送り続けるのだって、どれだけ大変か」
彼は、はいはい分かりましたと言いながら、自分の傷口を拭ってくれるガーゼの手許をじっと見つめている。確かに、先程口にしたように昔を思い出しているのかも知れなかった。遠くを探るような疲れた目をしていた。
「…今日はこんなことしてるの、つらくなってきちゃった」
ぽつりと零された、弱気。
「何か嫌なことあったの?」
「いや、反対。いいことがあった」彼はふっと口許に笑いを浮かべ、空いている左手で頬を撫でた。あの高校生たちが、とても優しくしてくれたのだと言う。「俺が明日にでも死ぬと思ったらしくてね」
 彼女はよく日に焼けた男の手に新しいガーゼを四角く折ると、テープで貼りつけた。
「それならいいじゃない。“正義の味方”が何をつらく思うの?」
「“正義の味方”?」
彼女の目を下から覗き込み、すぐにひっくり返って笑い出した。「何言ってるの、俺、高校生じゃないんだよ?」
「…」
悪戯っぽいその目は、実は叱られたかったのだろうか。静かに見返すと、かえって落ち込んだようだった。伏し目になって小さな告白をする。
「――あいつらみたいに純粋な理由で戦えないもん」
手当ての済んだ手を、ありがとう、と短く礼を言った後で膝の上に置いた。
 “純粋な理由”とは、この場合おそらく正義のためということになるのだろうか。――自分たちのこれまでの生活とは全くかけ離れた位置にあったものを理由にして、一介の高校生は戦うことを余儀なくされた。
 もっと正確に言うと、余儀のない道を彼らは選んでしまったのである。彼ら五人を俯瞰的に眺めることのできる立場である彼女には、彼ら自身も気付いていないであろうそのことがよく分かっていた。
 いい機会だから、彼に訊いてみようか。

「じゃあ、君の戦う理由は何?」

 低く空調の音がした。その音の上に重なる彼の、かさかさした男らしい声が答える実に抽象的な理由。
「自分の過ちを正すためかな」
 しかし“正義”よりは具体的な気がした。
 ただその目的だけに邁進してきた彼は、実に純粋な自己犠牲の心を持つ者たちに出会ってしまい、誰のためでもなく自分のために力を振るうことに戸惑い始めたらしい。
「――さん」
そこで、名前を呼ばれた。初めてだった。
 いつもは彼自身が他人から呼ばれるのと同じように主任、か、チーフと素っ気なく呼んでくれるだけなのに。
 彼女は救急箱を戻そうと立ち上がったところで、箱に手をついたまま彼の顔を見つめる。「何よ?」
 裕作はとても厳しい目だった。挑戦的に見上げてくる、まるでこちらが彼の敵であるかのように。
 そしてゆっくり、自分に言い聞かせるように芝居じみた口調で言った。「ごめん、“私怨”なんだ」
ごめん、と口にしたものの、これは謝っている者の表情ではなかった。開き直り、自分が過ちを犯したとは微塵も感じていないようである。「ある意味、復讐なのかも知れない」
「…そう」
彼女は何も思わなかった。そういう理由で自分を追い詰める彼を、悪いとは全く思わなかった。「それでいいから」
「えっ…?」
 所詮、科学の進歩なんていうものは、後から美しく飾り立てたところで最初の存在理由はあくまでも兵器開発の歴史であった。戦争、ひいては殺戮のためというその事実は歴然と変わりないのだから。――彼女は科学が人間を幸福にしてきた過程を好ましく思っているが、根本ではそう思って諦めている部分もあった。
 だから裕作の、私利私欲とも言い切れないが、あくまでも自分のためなのだという事情を明かされても、別に騙されたとは思わないし、利用されたのだと腹を立てる訳でもなく、やめさせる気も起こらなかったのである。
 彼女は救急箱をスチールの棚に戻す。「別に謝らなくていいわ。どんな理由であっても、私のする仕事は同じだから」
 しかし責められないことで、彼は更に苦しくなったようだ。手当ての済んだ手を見てうなだれた。可哀想になって、彼女はコーヒーメーカーから注いだコーヒーを手渡す。いい香りが漂い、ほんの少し空気を軟化させたようである。
「元気出して?」
すると彼は壊れた玩具のように急に顔を上げ、にかーっと笑った。「また手伝ってくれたら元気出るんだけどなあ?」
 懐からディスクのケースを取り出して、彼女の眼前にかざしてみせる。「これをまた忍ばせて欲しいんです」
 やっと彼女は気がついた。「…それが今日、ここに寄った用件だったんだ?」これはなあに?、と尋ねる。
「俺の声紋で楽しいことが起こる仕掛け。今回は声を月面に飛ばすだけだもん、軽いでしょ?」技術的にも、情報量も、と彼は試すように言った。
「まあまあ、次から次へと素晴らしいものばかり開発してくれる」
受け取って、彼女はその四角い箱の中の、オーロラに輝く円盤を眺めた。これも彼の言う“私怨”を晴らす礎のひとつになるのだろうか。
「やってくれるんですね?」
そんな確認をする前に断らないことをちゃんと知っていたくせに。軽く裕作を睨んで承諾すると同時に、彼女は再び始末書の覚悟をしたのだった。

 

 彼女はテレビを見ているらしい。
 白っぽい液晶画面からの逆光の中でも、彼女の細い背中で、目立つ肩甲骨が長い髪の毛に埋もれているのが分かる。
 裕作は起き上がらなかった。
 後悔はしていないつもりだが、実に平等だった自分と彼女との関係が全く崩壊したことを感じていた。
 鶴の機織を目撃してしまったあの物語のばかな男の心境。――それは、初めから予想のついていたことで、その予想に違わないものかどうか確かめるだけの作業である。ただ、無駄な好奇心が満たされただけの虚しい、暖簾に腕押し的な感触だけが裕作に残っていた。

 裕作が好ましく思う、彼女の、ある種虚無的なまでの現実主義、割に合わないことは切り捨てる部分。そのくせ彼女は、何度も自分の我侭をきいてくれたことに示されるような度量の大きさも確実に持っている。
 アンバランスさが絶妙のバランスをとる彼女がここに存在している理由を、今でははっきりと知りたくなっていた。

 ――「ごめんなさい」
 彼女の背中を見つめているうち、暗闇で遠ざかった彼女の声が聞こえた気がして、裕作はこの部屋で起こったことを思い出し始める。

 彼女の部屋は極めて無機質だった。フローリングがつやつやしているのが、また素っ気ない感じである。
 多忙で世話が出来ないため動物も飼っておらず、植物も置いていなかった。
 事務室のような剥き出しの蛍光灯の下には、女らしからぬ趣味で統一された家具が寒々しく並んでいる。無駄や遊びのない空間。
 リビングのソファの前に大きな座卓があった。その上にはコードの抜かれたハンダごてと、細々した電子部品が散らばる。――作りかけのラジコンカーと、その箱が無造作にフローリングへ投げてあった。色とりどりの部品が、何故か彼の目に痛々しく映った。
「明かりはどうしますか?」
裕作はまず彼女へそう尋ねたのだった。
 この非理性的な状況に際しては妙に浮いた理性的な質問。野暮といえばそうだが、彼女は嫌悪しなかった。
「君、落ちついてるね」
彼女は裕作に横たえられたそのまま姿勢で腕だけを枕元に伸ばすと、そこでリモコンを掴み、宙へ向け照明を消した。
 突然の暗闇に全く視界が閉ざされた中、彼女の苦笑だけが下から聞こえた。「こんな真っ暗じゃ、表と裏が分からなくなっちゃうなあ」
「…どういうこと?」
尋ねても答えず、彼女はくつくつと忍び笑いを続けていた。あまり長くそうしているので、それがだんだん笑い声に聞こえなくなってくるようである。――まるで彼女がさめざめと泣いているように感じられた。それほど空気はひっそりとしており、裕作の気持ちへやましさに似たブレーキがかかる。
 全く動作を止めてしまった彼へ、彼女が言った。

「ごめんなさい」
漆黒の中、宛てもなくぽんと放り出された言葉。彼女の声は小さく掠れていた。

 言いながら顔を背けたらしく、声の出所が捻じ曲がって遠ざかっていく。
「何が…?」
裕作は身を起こした。やはり自分は彼女が望んでいないことをしているのだと思った。しかし彼女は、
「早川くん、違うよ」
その気遣いを笑いを含んだ声で否定する。
 それならどうして彼女が謝るのか尚更分からなくなったが、裕作は頭を覆い始めたその疑問に構わず、リモコンを持ったままの右手首を枕へ押しつけた。言葉通り、窮屈そうに少し肘のあたりを浮かせただけで、彼女はこれといった抵抗の意志を示さなかった。かと言って迎合するのでもない。
 ただ裕作が彼女を欲しがるだけのキスの最中に、がたりと床へリモコンが落下する音がして、それきり無音になった。

 

 そのあたりまで回想して、布団の切れたところの肩がふと寒くなり、彼は思い切りくしゃみをしてしまった。彼女はそれに驚いて一瞬飛び跳ね、胸元を手の届く範囲にあった自分の服で押さえた。
「驚かせましたね」
その服を身につけてから彼女は振り返る。テレビ番組の場面が変わる度、彼女を縁取る色はくるくると彩りを違えた。
「起きてたの?」
ベッドを這って裕作のすぐ傍まで寄り、まるで実験動物を観察するような好奇心でまじまじと上から見つめてくる。
「こういうの、下世話な言葉で“お持ち帰り”って言うんだよね」
彼女がにこりともしないので状況が分からなくなりそうだった。しかしどうやら冗談で言っているのではないようだ。
「そうらしいね」
裕作にも、このスラングめいた言葉は聞き覚えがある。修士課程にあったとき、久保田の研究室にこういうことにはまめな男がいて、ほぼ毎日と言っていいほどその武勇伝を聞かされたのだった。
 しかし、今とは比べものにならないほどストイックだったその頃の裕作自身には無縁の言葉でもあった。
 久保田のかけてくれる優しい慰めの言葉さえ、まだ苦しかった頃のこと。――その頃のことは思い出したくない。それなのに毎日のように思い返すのは、自分が回顧するのをやめた途端に、“あの少女”の存在が何か激しい流れに持っていかれて、世の中すべてから切り離される気がするからである。
 勿論、そんなことは錯覚だと分かっている。
 “あの少女”の名前は、今や世界中の科学者が、“愚かなフライング”の代名詞として記憶している。ひとりの女の子の名前が、ある分野の科学者ならば忘れないだろう名前となったのだ。
 しかし、だからこそ。
 記号として書物に記憶されている彼女ではなく、生きていた彼女を覚えているのは自分だけだとの思いが深くなる。
 ただし、その笑顔を思い出しても、恋慕のような甘さはそこにない。ひたすら斬りつけてくる刃物のような痛さだけである。

 ――この閉塞状況はいつまで続くのだろう。
 放出できないままの閉じた想い。

 裕作は身体を起こして彼女を至近距離から見つめた。
 彼女はぺたりと子どものように座り込んでいる姿勢で、シーツに手をついていた。直接触れなくても互いの存在を感じられるほど狭い寝台の上、じっと視線を逸らさずに見つめ合う。
 丸めの顔と、段をあまりつけていない長い後ろ髪、更に前髪を眉のあたりまで下しているのが年齢を多少見誤らせる。
 彼女の目は黒目がちではないが澄んでいた。土壇場では求めてこなかった唇、少し大きな耳、白い咽喉、今はTシャツの下に隠れている鎖骨。――
 視覚が彼女の部品を感じるだけで、それらが先ほどどんな感触を自分に与えたか全身が思い出してしまう。その新しい親密さが、裕作の胸に甘く苦しく圧し掛かった。
 それは別に今までの関係を否定するのではない。ただ、いつも仕事で相対していただけの彼女に、違う存在意義が加わってしまった。自覚しない訳にはいかなくなるほど、その感覚に強くとらわれる。
 彼女の頬へかかった髪を横へ払おうとして、裕作が手を伸べたそのときだった。

「いやっ…」

 彼女はいきなり激しい雰囲気を纏って、顔を彼の手から退けた。まるで攻撃を回避するような鋭さで身を縮ませる。
 裕作としては何気ない動作に過ぎなかったのだが、彼女にひどい動揺を与えたらしい。
「あ…」
唖然とする裕作に気づいたが、彼女は自分のしたことへの驚きから抜け出せないらしかった。その驚愕に言葉が見つからず虚ろに喘ぐ。
 しかし結局、また彼女は言った。

「…早川くん、ごめんなさい…」

「…早川くん、ごめんなさい…」
彼女は身を守るように腕を抱いた。――ショックだった。
 裕作の優しい仕種を密やかな加虐性と勘違いして身が強張った、その反射を自分の身体がまだ忘れずに備えていることがショックだった。
 ごめんなさい、という、その言葉を口にするときの彼女は、妙な不快感さえ伴って裕作の胸に引っかかってくる。こちらがもどかしくなるほどおどおどしていた。
「どうして謝ってばかりなの…?」
一瞬にして構築されてしまったバリアを突き破るように、再び彼女へ手が差し伸べられる。
「そんな急に俺のこと、嫌いになっちゃった?」
大きくて脂のない荒れた手が不器用に頬へ触れてきた。胸の中心を掴まれるような痛みに、思わず彼女は目をきつく閉じる。裕作は彼女のおとがいに指を添えると、唇の上で動作を止めるだけのキスをした。
 その接吻の長さに、先に苦しくなったのは彼女だった。
 彼の肩を指先で少し押しとどめ、ゆっくり顔を離して解放してもらう。目を開けると、裕作の瞳の中に四角いテレビの画面が映り込んでいるのが間近に見えた。
「さっきのは…早川くんのことが嫌なんじゃないの」
か細く消え入りそうな声で言い、彼女は覗き込む彼の視線から逃れようと俯いた。「自分に自信がないからよ」
テレビが、どこか外国の高く澄んだ青空を映していた。その色で蒼く染まった彼女は表情を一転させ、裕作が見たことがないほど明るく笑って言った。
「私、“洗濯板”なんだって」
言う必要はない。しかし虚しく口をついて出る最大のコンプレックス。「平らでガタガタしてるから、そう呼ばれてたの」
 彼女は再び自分を固く抱いた。そしてそこにまた殻ができる。

 ふと、明かりをどうするか尋ねたときの彼女の言葉が思い出された。
「こんな真っ暗じゃ、表と裏が分からなくなっちゃうなあ」
 そして彼女は、自分が覚醒していると気付いたとき、すぐに胸元を覆った。その伏線が今集まって、裕作の中にひとつの像を結ぶ。

 意外だった。
 だから全く言葉が出なかった。
 沈黙が訪れそれが蓄積されていくと彼女の羞恥心も比例して高まり、彼女は彼女でまた言葉がなかった。
「…」
唯一テレビだけが動いていて、彼女は我慢し切れずその箱の作り出す陰影の中から抜けようとした。
「どこに行くんですか?」
それに答えず、膝で立ち上がると裕作の隣からいざろうとする。彼から急に離れたくなった。
 しかし、それはできなかった。
「だから…」更に遠ざかろうとして膝を下げた彼女の体を自分へぶつけるようにして、裕作は彼女を強く抱いた。「どこに行くんですか――」
 ばらばらと散らばるものを一心不乱にかき集めるように、何度も手の位置を変えてできるだけ自分に引き寄せる。
 彼女は人形のように膝で立ったまま、腕を身体の横に垂らしたままぼんやりした。
 彼の男らしい硬く力の張った腕に引き寄せられると余計みじめになる。意識が自動的に、彼の逞しい身体と、薄っぺらな心を容れる器にはぴったりの造形をした自分の躰を引き比べた。
 裕作の鼻先が、首筋に触れる。
 彼女は拒絶するように肩をすぼめた。怖かった。
 ぎゅっと閉じた瞼に蘇る、ライオンの捕食の場面。真っ青な空に投げ出された、細い草食動物の足。
 食べられて、血となり肉となる。――ああいうふうに、明らかに相手の糧になれるならいい。
 しかし、そうではない、極めて精神的な価値で執着を見せてくれればくれるほど申し訳なくなってしまうのだ。

 こんなに私はつまんない女なのに。

 彼は自分と彼女の身体の間に右手を差し入れると、彼女の鼓動を掌に感じた。先程告白された劣等感の向こうに、速く打つ心臓の動きが確かにある。
「…っ」
そして恥ずかしさで声のない彼女へ、まるで何か誓いを立てるようにそっと軽いキスをした。

 

 あのひとはもっと、平坦な顔をしていた。――平坦だった、というのはあくまでも彼女の感覚的な記憶であって、別にのっぺりした顔だったという訳ではない。
 彼女が学生時代に付き合った男は、この早川裕作に比べたら生きていたのかも怪しくなるほど、感情を表に出さない人間だった。
 理系学部は圧倒的に男子生徒が多い。
 そして、彼女が学生の時分はまだまだ男子生徒に有利だった。大学に残って研究を続けるにしても就職をするにしても、男に任せておけという信仰めいた有無を言わせない空気が漂っているのは時代錯誤的な話だが、少なくとも女性にとっては事実である。
 そんな環境の中でフェミニズムは、男性の中でも女性の中でも自然と退化する。

 ――「お前にもう少し胸があればなー、せめて俺よりバカだったら良かったのに」

 彼女が圧倒的勝利をおさめた言い争いの後、彼は彼女を力ずくに組み伏せてそんなことを言った。
 高圧的なその視線には冗談の色は全くなかった。ましてや、自分への暖かな心の欠片もそこに見出すことはできなかった。その瞳の色と、肩を押さえつける腕力の強さが言葉の本音であることを如実に表していた。
 バカだったら良かったのに、というのは、たぶん付き合い始めてからずっと彼の心の中に鬱積していたものの発露だったと思う。彼はふとしたことが原因の喧嘩においても、彼女が理路整然と抗議してくるのをうっとおしく思っていたのだろう。

 傷ついた。
 傷つけられた。
 でも、彼は悪いひとではなかったのだ。言葉少なだが、研究と彼女にだけは優しいところも確実にあった。そして彼女もそういう彼の性質を好きでいた。
 しかし、ただそれだけの愛着でしかなかったのであり、それはその一言に耐えられないほど脆弱な繋がりでしかなかったという話だ。
 彼女はこの言葉の後、無意識に彼から女性として扱われるのを避けるようになった。

 

「ありがと…」
彼女は開いた瞳をゆるゆると裕作へ向けると、彼の右手に自分の両手を重ねた。
 冷たい手だった。
「何だか泣きそうだわ」という声を聞いた途端、裕作のほうが泣きそうになった。
 嗚咽のような感情の塊がいきなり咽喉の奥に詰まってきて、その激しさに抗えず、再び彼女の身体全部を引き寄せる。
 改めて抱き締めた彼女は、そう思えば確かに平坦だった。女性らしさのない少年ような体つきは、着けている全く色気のない一部丈の下着で強調されて、ひどく倒錯的な気分にもなれる。
 痩せていて脂肪が薄く、関節が細く、すぐに折れてしまいそうで怖いくらい弱い感触。――肋骨が浅く浮いているあたりが、彼女が先程陽気を気取って口にした前時代の生活用品の名前を連想させた。

 その名で彼女を呼んだのは誰なのだろうか?

 何とはなしに、彼女がかつて好きだった男のような気がした。それがいつ頃のことかは分からないものの、とにかく思春期からこちらのこととして。
 もしかすると実に最近のことかも知れない。さきほどの彼女の口調は、その心に受けた傷がまだ新しいあまり癒えていない印象だった。
 何かイヤだよ、そういうの…。
 だがそのことが現在の彼女のバックボーンになっているらしい。これはとても皮肉なことだった。
「…」
裕作はその支えを確認するように、彼女の背中の真ん中をそっと指でなぞる。
 これが、毎日コンビニの弁当でも平気で、寝るだけの素っ気ない部屋に帰ってくる彼女を保つ気骨なのだ。こんなに頼りない小さな部品の羅列で彼女は立っていることができる。
「…っ――」
小さく拒む声を飲み込んだ後、熱を逃がすようにやっとのことで吐かれた息が裕作の頬に触れ、彼は更に深く彼女を抱き込んだ。その軽い身体が、裕作に応えて恐る恐る投げ出されてくる。
 窺うような探るような用心深い気配に、裕作はできるだけ優しく言った。「こわがらなくてもいいんですよ」
 彼女は、その言葉の呪いの輪から抜け出したいと願いながら、抜け出してしまえば自分の外的生活の柱を失うことを悟っているのだろう。その二律背反を抱えた彼女を、初めて可憐だと思った。
 本当はすべて何もかも、そんなにこわがらなくてもいいのに。
 彼女の髪が、肩を抱く裕作の手に絡んでくる。
「髪は…ずっと長いの?」
「ううん。ショートだったんだよ、伸ばす前は」
裕作は彼女の肩にかかる髪の束を掌に載せた。
「言われたの」その彼の手の動きを伏し目に見る。「髪を伸ばしたのを見てみたいって」
裕作は、誰に、とは改めて訊かなかった。
 ――ああ、やっぱり。
 ただそう思っただけである。
 これで、極めて自己満足的な結論だが、すべてを理解した気分にはなれる気がした。
 彼女は硬化させた心の中に、柔らかい襞を押し込めている。
 実にありふれた女の子として、好きな相手の言葉を素直に受け止めることのできた時代が確実にあったのだろう。
 そして、そういう態度のできる期間を彼女は既に逃してしまっているのではなく、相手の気持ちを優しく受けとめる機能を、現在は停止させているだけなのだ。意図してなのかどうかは分からないが。――
「…そうですか」
それを再び起動させるパスワードは分かっているつもりだった。ただそれは、どう頑張っても今日中に彼女と離れることが決定している自分が言うのを許される言葉ではない。
 その言葉を発することで自分と彼女に及ぶ影響の大きさを、裕作は量ることができなかった。
 告げるつもりもないくせに、自分の思っていることは感じ取って欲しいと強く願う。結局は、彼女のあたたかな感情の部分に賭けて甘えているだけなのかも知れない。
 痩身を覆うラグランのシャツの裾に手をかけた。
「今日、成田まで送ってくれますよね?」
意識が彼女に埋没する手前で確認する現実。
「えっ…」
彼女は、エレベーターの扉に遮られる瞬間、急に突きつけられた覚悟にふと涙してしまった自分の意気地のなさを思い出した。
 ぎりぎりまで彼と一緒にいて、泣かずに別れられるだろうか。
 想像しただけで不安に胸が切り刻まれる。――後戻りするために振り返っても、往路で叩き過ぎた石橋は既に落ちているような状況だった。
 今はもう、別れに対して感情が異なってしまっている。今日迎えるはずの別れは、自分に厚い信頼を寄せてくれた同僚との別れではない。

 だから嫌だったのに…。

 それなのに連れて来てしまったのも自分である。これも意気地のない話だった。そして、そういう自身を情けなく思ったら急に疲れがきた。
 吐息して肩を落としていると、何か言葉を促すように、うん?、と目を見開いて覗き込まれる。彼女は首を横に振った。
「送って下さいよ?」
重ねられた彼の言葉は既に依頼ではない。明らかな誘いの性質を帯びていた。
 彼女は頷いた後「帰りに居眠りしそう…」と呟いたが、その語尾を裕作が半ば奪った。
 この狭い台の上で彼女と抱き合っていると、音を消されたままのテレビが白々しく映り続けているのが、とても遠くのことに思えた。
 薄れていく過去のくびき。少なくとも、直接傷つけてくる鋭利な思い出の破片から今は守られている。
 自分を絶えず追いかけているはずの時間さえ、ここでは全く意味を為さないもののようで。――止まっているのではない。停滞しているのでもない。そうした動きをこちらが感じる以前に、存在していない。
 勿論、そういう感覚は一過性のものだ。知っている。
 しかし、この、人肌の与えてくれる永遠の貴さにもっと早く気づいていたなら、ここまでの意地を通す気概などとっくに失われていたかも知れない。
 そう思う。

 

 成田への道のりは極めて順調に進んでいた。
 渋滞もなく、彼女の淀みない運転でスカイラインGTRはすいすいと進む。高級スポーツカーの、文句のつけようがない高性能が恨めしい。
 彼女の自宅マンションから高速に乗るまでの間、信号が青になるたび、別れまでの距離が縮まることに慄いていたが、やがて高速に乗って車が直進するだけになると、胸の痛みは既に麻痺していた。
「ごめん」
と言ったのは、今度は裕作だった。
 彼女は言われても彼のほうへ目を遣らず、ただウィンドゥのあたりに肘をついているらしい彼の気配を感じていた。

 心配していたほど、彼女の心は波立たなかった。

 彼は朝になるとコンタクトを外し、今は眼鏡をかけていた。圧縮しているのにまだ厚いレンズ。縁のないデザインが少しばかり早川裕作を賢そう(実際賢いに違いないのだが)で寡黙な男に仕立てている。
 眼鏡をかけた彼というのは、彼女には初めて見るものだった。彼女は裕作の視力の低いことすら今日まで知らなかった。
 彼に関するそんなことも知らずに、自分は彼と二年もの間を過ごしたのだ。しかしそのことを寂しく思うのではなく、それ以上に、そんな表面的なアプローチもないままで、いきなり自分の核心に彼を踏み込ませてしまった、そのバカな度胸がもう愉快だった。
「何について謝ってるの?」
「…」裕作は答えられなかった。
しばらくの直線走行で、彼女は彼へ視線を向けた。「昨日のこと?、それとも今日予定通りに行ってしまうこと?」裕作はフロントへ視線を遣っている。
「…両方」
そう、両方。
「昨日のことは、君だけが悪い訳じゃない」
彼女の言葉は、罪を自分も被るという意味ではなく、ただ裕作だけを許してくれるような響きだった。
「ラッキーだったんだよ、たぶん」
“幸運”という場違いな明るい表現。それが裕作の気持ちにはそぐわず、彼は思わずじっと彼女の横顔を見た。この状況のどこに僥倖が見出せるのだろうか?――自分はこんなに参っているのに。
 しかし彼女はそんな違和感を感じなかったようで、言葉を続ける。
「今日別れることは最初から分かってたんだから、気にすることない。分かっていたから、私もああいう大胆なことができたんだと思うの」
裕作はまた頬杖をしたらしい。納得いかない様子で深く溜め息をついている。それを感知したが、また彼女は運転に意識を戻した。
 嘘は言わなかった。強がりでも何でもなく、思っているままを述べた。
 返答をするとき、裕作を困らせたくないとの意識は不思議と働かなかった。もし自分がここで別れたくないと我侭を言えば――そう仮定する前に自分がそんなことを言うことは絶対にないだろうと分かっていたけれども――彼が一も二もなく聞き入れてくれるような気がしたからである。彼女は、そう予感させてくれただけで満足だった。
 だから先の言葉には、彼が自分にかけてくれた想いの深さに対する感謝だけを込めたつもりだった。好きだった。

「さあ、着いた」
空港ビルの前で彼女は当たり前のように車を停めると、裕作が何かを言う前に強く決めつけた。「とうとうお別れだね」
 彼女はシートに片手をつくと裕作を見上げた。そして、空いている右手を差し出したのである。
「じゃあね、早川くん」

 巻き戻された。

 裕作は車から降りてから彼女の手を取った。こうして触れることで、彼女の指の細いことを感じるのがつらかった。しかし、
「どうもありがとう」
こう言って別れるのが一番きれいな方法らしい。
「どういたしまして」
彼女の上目遣いは、今日もひどく隈を目立たせていた。今日のこれは仕事のせいではないのだと思うと、諦めたはずの言葉が裕作の胸を過る。
 そのことを告げて、もし、今から彼女に待っていてくれるかと尋ねれば、絶対にうんと言ってもらえる自信はあった。
 今ならまだ引き返せる。――
 しかし躊躇してしまった彼より、彼女のほうが格段に強かった。彼女は、握り合った手を先に戻して畳みかける。「気をつけて行ってきて」
「…」
ふと、周囲が急な騒音に囲まれたような気がした。夜のうちには遠くにあってその気配すら感じなかったものたちが、再び自分を取り囲み始める。
 引き返せなくなった。
 彼女は、彼の引き返すことを、おそらく意図的に絶妙に拒否したのだ。
 そのことに気づいて、一気にのぼせ上がっていた脳がすっと沈静化してしまう。まだ往生際悪く騒ぎ立てる部分もあるが、その反抗は理性によって完全に押さえ込まれようとしている。
 やはり許されないようだった。
 裕作は少しタイミングを外したが、先の彼女の言葉に対してちゃんと
「はい」
と返事をした。
 彼女は自分にこれ以上何も求めていない。そのことがはっきり認識されたからである。
 ここで諦めてしまうのを、自分が彼女にしてあげられる最後のことだとは絶対に思いたくなかったが、今はそれを尊重したかった。
「じゃあ」
スカイラインのドアを閉じ、裕作は自ら彼女と空間的に隔離される。彼女はウィンドゥを開けないまま、何かを言ってこちらに手を振ると車を出した。
 笑顔でもなかったが、泣き顔でもないのが彼女らしい。――彼女はそうしてまた、デリケートな部分を自分のずっと奥底に閉じ込めて過ごす毎日に戻って行くのだろう。
 テールランプはあっという間に遠ざかっていく。裕作はどんどん小さくなるそれに距離を実感すると、先程のエゴに満ちた思いつきに打ちのめされた。
 自分が帰ってくる場所を残すために、彼女に二年もの時間をただ費やすことを求めようとしたのだ。
 待ってもらうとは、そういうことだろう。

 彼女は最後に「さよなら」と言った。彼には分かっていた。

Fin.

 

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