眩暈

 

 姉の名前は琴絵、弟の名前は筝太郎。
 その話をすると、少し気の利いた人間ならば「お父さんは雅楽奏者か何かなの?」と笑いながら言ったりする。
 そんなことはない。彼女の父は高校の国語の教師だった。大学の頃、平安文学を専攻して、特に源氏物語に没頭した彼が、自分の子ども達にそれぞれ何となくつけた名前だった。
「笙子」
呼ばれた。
 自分の名前は雅楽に使われる笛のことなのだと知ったとき、どうしてそんな名前をつけたのかを不思議に思っただけで、特にそこに有り難味も何も感じなかった。
「なあに?」
テレビの前に胡座をかく父親に背後から近寄る。「この間教えてもらったばかりなのに、ビデオの録画の仕方がまた分からなくなったよ」
白髪の目立つ髪に、彼に日々寄りつく、逃れられない歳の波を感じた。

 東京に勤めていた竹松笙子が実家に戻ったのは、母の入院がきっかけだった。
 婦人科を悪くして母親が入院したのだと連絡を寄越したのは弟だったが、既にその時点で入院から一週間ほどの時間が経過していた。
 その一週間で、実家の運営が立ち行かなくなったのだという。
「どうしてすぐに教えてくれなかったの?」
「遠くにいる笙子姉ちゃんに教えても仕方ないって、親父が言ったんだもん」
またか、と思った。この手の疎外感は慣れっこだった。
 遠く離れていれば家族の構成員に数えてもらえないということは、学生時代から感じていた。法事で親戚が集まったとか、親戚の誰かが結婚したことなどはすべて、良くて事後報告だ。中には、姉の結婚を結納の日取りが決まってから教えられたというのもある。
「それで?」
「家に帰って来られないよね?」
弟は性急だった。
 実家には、両親と姉夫婦、そして姉夫婦の子どもがふたり暮らしていた。
 父は既に定年を迎えていた。姉夫婦は両方とも仕事を持っており、母が家事と孫ふたりの面倒をみていた。
 弟が言ったのは、今、家事と子どもの世話をする人間がいないらしいということだった。母の、家での役割が大き過ぎていたと、母が欠落することで気付くとともに、仕事一筋でここまで来てしまった父が、仕事をやめて数年経過しているにも関わらず、家のことに何一つ馴染んでいないということを浮き彫りにしたらしい。
 実家のある県の隣県に暮らす弟へ、あんたが帰りな、と、言う前に合理主義の彼女は家政婦を頼めと言った。
「俺も言ったよ。家のみんなだって言ったみたい。でもそれは母さんが嫌がってるんだって」
「どうして?」
「他人に、家のことをいろいろしてもらうのは嫌だって」

 母の気持ちは分からないではないと思えたとき、血縁というしがらみに自分が捕らわれていくのを感じた。

 実家に戻ることを六割方決心して――そう、六割しか心を決められないままに――そのことを久保田という上司に相談したところ、ここ数年ですっかりてらてらしてしまった頭に手を遣り、彼は心底困った顔をした。そして、
「…今度は君か」と言われた。
「?」
「せっかく来月、“あいつ”が戻るというのに」
その言葉に、足許へいきなり穴があいたようになる。
 彼女は立っているのが不思議なほどの動揺を感じているにも関わらず、
「そうですか」
平然とそう言えた自分に驚いた。
 思ったより笙子が話に食いついてこないので、久保田は慌てたように情報を追加する。「いや、本当なら帰国は来年の三月だったが、私が呼び戻したんだ」
「…そうですか」
と、同じ言葉を繰り返しただけでこの話題を終わらせたかったのだが、久保田が悲しそうに見つめてくるので、さすがの彼女も上司に気を遣ってしまった。下手な作り笑いで「でも、彼と私が揃えば、また博士に御迷惑をおかけしますし…」と言った。

 彼女が所属している組織は、設立理由であった地球防衛の任を全うしてから暫く、新しい役割を見つけるのに迷走した。しかしこの頃、活動の中心の柱を、宇宙開発事業への参加と遺伝子解読の分野のふたつにやっと絞った感があった。
 特に後者は、組織の設立当初から強大な権力を握っている来島副長官という人物が強い意向を示してのことだった。来島という男はもともと国家官僚で、俗に言う「天下り」の形で乞われてこの組織に来た人間だった。
 遺伝子解読においては、日本の成果は欧米のそれに比べると明らかに立ち遅れている。そのことが副長官には許せないのかもしれない。彼女はそんなふうに、来島という男の経歴に歪んだ愛国心を見ていたのだが、真相たるやもっと複雑なことであった。――最もそれを彼女が知るのは、この年の年末のことである。

「まさか、辞める訳じゃないだろう?」
「はあ、できればそうしたくはないんですが…」辞めなければ戻れないとは思っていた。
久保田はデスクに肘をついたまま少し考えていたが、しばらく笙子を待たせて席を外し、
「在宅でいいから、私の仕事を手伝ってくれないか」戻ってきて、嬉しそうに言った。身分は降格、原則残業手当はつかないが基本給はしっかり規定通り払えると付け加える。
 こちらとしては断る理由はないが、この優しい管理職にまた迷惑をかけたと思った。「よろしいんでしょうか?」
「いいんだ」久保田は笙子の背中を叩く。「必ず戻ってきてくれよ」

 そして母は、笙子が実家に戻って三ヶ月後に他界した。母親以外の全員が悟っていた死期だった。その死には、あれだけ他人に台所へ入られるのを嫌ったくせに、自分が一度もそこへ戻らないという皮肉がおまけについていた。
 待ってくれている上司があるのに、彼女は東京に戻るタイミングを失ったまま、どうしようとも考えることができないでいた。
 完全に家族の構成パーツのひとつになってしまったのである。そうなってから、今まで係累から自由であったことの幸福を感じた。――既に遅いということは分かっているが。
 そして、もしかしたら父は最初からそう思って、自分を物理的にも精神的にも家族に近寄らせなかったのではないだろうかとも思う。
「…これは、こうで良かったかな?」
「うん」
しかし、ビデオデッキのボタンひとつ押すのにもこちらを頼っている父親を見て、その考えは消えて行った。

 

 まず姪と甥を保育園に送り届けることから、笙子の一日は始まる。
 教職に就いている姉夫婦は出るのが早いし、父親もしょんぼりしていたのは母が亡くなった直後だけで、今は習いごとのスケジュールをこなすのに忙しい。ぼーっと日がな一日縁側に胡座をかいたりして、庭先の植木の影が動いていく様を見つめられるよりはましだと思い込むことで言葉を飲み込むが、そんな時間があるなら家のことを少しでもして欲しいものである。
 三歳の甥を抱き上げて、玄関で姉を見送る。「お姉ちゃん、悪いけど今日は早く帰ってきてね」
「…今日何かあるの?」
「私、結婚式に行くから」
 中学から高校までを一緒に過ごした友人の結婚披露宴だった。笙子と同じく理系に進んだ彼女は看護学校を出た後、所謂“お礼奉公”で暫く働いたが、それから病院を移り、この度めでたく医者と結婚することになった。電話で、おめでとう、と言ったら「お医者さんと結婚なんて、ベタベタでごめんね」と笑っていた。
 出欠のハガキを投函するとき、今日の姉の予定を尋ねてこの旨を話し、更に一週間前と昨日に重ねて念を押していたのだが、忙しさに紛れてか、やはり忘れられていたらしい。別に驚きもしない。姉はこういうひとだ。
「いいよ。筝太郎が帰ってくるから、どうせそうするつもりだったし」パンプスの踵から靴べらを引き抜いて、琴絵はそれを笙子に渡す。
「ええっ?」
笙子は、自分が弟の帰省を知らなかったほうがショックだった。「…たあ、筝が来るんだって。知らなかったな、びっくりしちゃったねえ」
 姉が出たドアが閉じてから、笙子は腕の中の甥に言った。彼は靴べらを小さな手で遊ばせながら、ちらりと笙子を見上げた。
「たあ、しってたもん。そーたん、にゃあにゃあつれてきてくれるっていってた」
 今度は猫か。――獣医学部の弟は帰省の度に動物を連れてきた。母親がいよいよとなったときも大量のシマリスを連れて帰ってきて、姪がその籠を開けてしまい、沈み込んでいる家の中に場違いな騒ぎが起こったのだった。
 そのときは疲れていて、リスを追いかけるばかばかしさと、どうしてこんなことをしなきゃならないのだという理不尽さに筝太郎の背中を握り拳で殴ったが、今思い出すと懐かしくて笑える。
 しかし、甥に向けたのは寂しい笑顔になってしまったと思う。「知らなかったのは、また笙子ちゃんだけかあ…」

 昼間の間だけが、笙子がひとりになれる時間だった。それにしたところでのんびりしていられる訳ではない。コードレスの子機から回線を引いたインカムをつけて、東京から指示を受けて仕事をしなければならない。
 今日は晴れたいい日だった。
 淡い水色の空に、薄く刷毛で掠ったような雲が浮かんでいた。こういうのを五月晴れとかいうのだろう。季節は明らかに移っている。笙子がここに戻ったのは、気鬱をいっそうひどくするような重い雲の立ち込めた十一月の暮れだった。
 そして今日はゴールデンウィークのはざまである。
「お茶飲もう…」
台所に行くと、テーブルに和菓子屋の包みがあり、包装を開いてみると中身は柏餅だった。どうやら姉の琴絵が甥のために買ったらしい。気付けば五月人形が和室に出してあるし、普段仕事で構ってあげられなくても、やはりあのひとはあの子の母親なんだと思った。
 笙子は皿に自分の分を取ったが、思いついてもう一枚皿を取り出し、柏餅を箱からもうひとつもらった。

 メガスーツの開発が終わった日の明け方のことだった。
 夜中に完成して、とりあえずチーム全員で乾杯ということになった後、笙子はそのままI.N.E.Tに泊まってしまった。この日に漕ぎ着けるまで何度もこんなことがあり、彼女はこのときも、自分のデスクに常備していた耳栓とアイマスクを使っていた。
 飲み物の販売機のある喫煙室のベンチで、柏餅が葉を巻いたように半分に折った布団に包まって寝ていると、嬉しそうな声が近寄ってきて、上からぐっと誰かの肘が重く脇に入ってきた。
「?」
耳栓を外すと、
「わーい、柏餅があるー」
と、男の声が言った。「おっきい柏餅だあ」しかもいちいち呼吸が熟柿臭い。
「…柏餅じゃないってば…」
 “彼”だろうと思った。――笙子はこの男が苦手だった。

 彼は、某国立工業大学で教鞭をとっていた頃の久保田の秘蔵っ子なのだと、来る前からI.N.E.Tの中では噂になっていた。そして実際、その先行した噂に違うことなく優秀であり、その才能には久保田も全幅の信頼を置いているように見えた。
 笙子よりひとつ学年が下だが、修士まで修めており入隊は彼女より三年遅い。そのせいか、笙子には年の差より多く距離をあけるような敬語を使って話していたが、態度は妙に馴れ馴れしかった。躊躇せず、まずひとの領分に踏み込んでみるようなところがあった。しかし、明るく無邪気な彼を誰も憎めなかった。
 笙子とて彼を嫌いではなかったのだが、敬遠していた。いたずらに明るい人間が彼に限らずもともと好きではなかったし、人懐こいところを何処まで信じたらいいのか考えなければならないのが面倒だったのだ。

「じゃあワッフルですか?」
どうしてもお菓子から頭が離れないらしい。
「…」起き上がって、アイマスクを引っ張る。
 案の定、彼だった。
 笙子の隣に足を組んで座り、膝のあたりで手を組んでいるのが何だか生意気な感じがした。昨日と同じ煤けた白衣の中は、黒いざっくりしたニットとチノの組み合わせ。少し気にした左手首の時計はタグホイヤーだ。そんな表面的なことくらいなら見ずとも分かるほど長く彼と仕事をした。
 にこにこ、真っ白い歯を見せて笑っていた。笙子は対照的な仏頂面で彼を見つめる。「まだ酔ってるでしょ?、お酒臭いわ…」
「臭いかも知れませんが、もう酔ってません」
確かに目の色が寝不足のあまり濁っているだけで、顔色は普通だった。彼は、もし下戸ならばこちらがガッカリしてしまうような体格で、その外見の語る通りけっこう強いらしい。乾杯のビールをご相伴に預かっただけでここに倒れ込んだ笙子とは、アルコールのキャパが違う。おもむろに立ちあがって販売機に歩み寄るのもしっかりした足取りである。「何か飲みますか?、おごりますよ」
「…オレンジジュースがいい」起き抜けで声が掠れていた。もしかしたらこんなところで寝たせいで風邪をひいたのかも知れない。咳払いをしたら、彼が振り返って「大丈夫ですか」と言った。
 彼のこういうところは好ましい。――彼がただ底抜けに明るいだけならば邪険にできただろうが、こういう心遣いをしてくれることもあったから追い払えなかったように思う。
「うん、大丈夫」
「氷は?」
「要らない」
静かなフロアに、かたんという紙コップが落ちる音だけがした。
 これを飲んだら、もうしばらく大変な仕事はしなくていいのだと、ぼんやり思った。こうして布団じゃないところに寝なくてもいい。今は自宅に戻って風呂に浸かって、ベッドに倒れたかった。
 服を着たまま眠ったせいで、ひどく身体がだるくて熱かった。首から下げていたはずのIDカードの紐がねじれて首を締めている。とにかく全部がぐちゃぐちゃだった。
「…」
長椅子の上に上げていた足をサンダルに下してやっと、その履物に入らないくらい足が浮腫んでいることに気付いた。顔もこれくらい腫れているに違いない。
 長身の彼は、普段笙子がそうするよりずっと窮屈そうに覗き込んで、中身の入ったコップを取り出した。――このひととも、しばらく別のところで仕事をすることが既に決まっている。目障りだったけどけっこう楽しい相手だったとは、別れることが決まっているから思えるのだろう。
 コップを笙子に受け取らせると、自分のコーヒーの紙コップを軽くぶつけてきた。その子どもっぽい仕種に自分で照れたのか、少し彼が俯く。それを無視するのが惜しくて彼女は「おめでと」と言った。
「とうとうできちゃいましたね。すぐにオーディションするって、博士はもう取りかかっているみたいです」
「芸能人じゃないんだから、せめて選考と言ってよー…」
だいぶ眠気が遠ざかったが、上手く口が回らなくて突っ込みの割にのんびりしていた。その切れ味の悪さを彼は笑い、アイマスクを取ったときから巻きあがったままの笙子の髪を撫でてくれた。その手に遠慮がないので、彼女も何の気遣いもなく、当たり前のことのようにそれを受ける。
 大きな手の乗せられた笙子の頭に、疑問が降ってきた。「でも、それはどうしても外部から選ばないと駄目なのかな?」
「何で今更そんなこと言うの?」
昨日の夜に完成した段階で久保田から、製造者は自らの製造物に責任があることを明確にしておく意味で、とりあえずI.N.E.Tからは人員を出さないことになったと言われていたのだ。製造者と使用者を同一人にしないためである。
「…」
答えを誤魔化すようなタイミングで、彼はコーヒーを啜った。その後で笙子と目が合うと、少し目を笑わせてから伏せた。
 ――今なら、このつくられた沈黙の意味が分かる。

 実に笑顔をよく見せる彼が、細々と動き回っては心を蝕む寄生虫のようなものを自分の中に棲まわせていたひとなのだと知ったのは、この朝の他愛ない会話から半年以上が経過してからだった。
 彼の中だけにある真実は、今もよく知らない。ただ、常に周囲へ照射する明るいエネルギーの強さと全く同じ大きさで逆向きのベクトルがあったのだと気付いただけである。
 排除することも可能なものを、敢えて飼いならそうとする、第三者からすれば全く無駄な心の動き。

 それを彼は“私怨”という言葉で表現していた。

 そういう名前を自分でつけて、自ら抱えているくせに不純なものだと位置づけていた。そして、エスケープゴートを閉じたまま、彼は暫く戦局を眺めていた。
 そう、暫くは大人しくしていたのだ。

 あの夏の日までは。――

 

 盆に柏餅とお茶をふたつずつ持って和室へ移動した。
「お母さんも柏餅食べよう。三時のおやつ」
そのうちのひとつずつを仏壇に上げる。仏壇の写真の母親は、病魔に冒される前のふっくらした笑い顔だった。

 笙子が家に戻ることになったとき、姉は「頼りない筝ちゃんでも相談してみるものだね。まさか笙子が帰ってきてくれるようになるとは思ってなかった」と、ひどく嬉しそうに言った。
 おこがましいこと、この上ない。
 この姉が教職を捨てたら良かったのだ。担任を持っているからやめられないのだと言っていたが、仕事への思いの深さなら自分だって姉に劣っているとは思えなかった。
 それなのに。――仕事の相手が機械だったため、思いがけず融通が利いてしまった。…それに、私は真面目過ぎるんだ。
 受話器から聞こえる姉の声に、帰る前から後悔していた。やっぱり帰ることになんてしなければよかった、と思っていた。
 自分と少し歳の離れた姉は、最初の子どもとして可愛がられたに違いない。そしてまた、自分と少し歳の離れた弟も、遅くにできた男の子が憎く思われるはずはなく、実際可愛がられていた。
 それに比べて笙子は、父が教師として円熟味を帯びてきた頃に生まれ、彼女の成長期は父の出世の時期と重なってしまった。だから、と一概に言うことはできないが、自分は親を少し遠くから眺めるばかりで、見つめられることは少なかったと思う。
 子どもの頃のことを今更とやかく言うつもりはないが、どうして一番手をかけてもらえなかった自分がここで大きく犠牲にならなければならなかったのだろう。

 母親の遺影を眺めた。たぶん自分より、どうしてこんなことになったのか知りたいと思っているに違いないひとが黒い枠の中にいた。母の口惜しさと自分の今の気持ちを比較することなどできない。微笑みがこちらを咎めているような気がして、これ以上悪く考えるのをやめる。

「あ…」
笙子は湯のみの中を見てささやかに感動した。――茶柱だった。優しい琥珀色のほうじ茶の中にぽっかりと不安定に浮かび上がる。
 何かいいことあるかも、と思いついて、その非科学的確率論に頼る自分の精神を笑った。

 ある訳ない。

「竹松くん?」
自動着信で、呼び出し音が一度鳴るとすぐに笙子のインカムに相手の声がした。久保田だった。口の中のものを慌てて飲み込んで、上に上げていたマイクを下す。「はい?」
「――を知らないか?」
先ほどまで懐かしく思い出していたひとの名前だった。こういう偶然に遭うと、否定したばかりの非科学的なものの力を少しばかり信じたい気分になる。
「存じません」
だいたい、彼が最後に連絡を寄越したのは去年の暮れである。年始も、笙子の母親が死んだときも何も言ってこなかったし、今年度異動になったことも久保田から聞いたくらいなのだ。それなのに昨日今日の彼を知るはずがない。――最近の彼を知らないということよりも、そのことを何とも思わない自分が寂しかった。
「ドクターをとりたいなんて殊勝なことを言い出した途端に行方不明になるんだから、全く気まぐれというか、とにかくこっちは困ってしまうな」
「…当たり前のことを申し上げるようですが、携帯電話におかけになりました?」
という笙子の質問は、余計久保田を怒らせたようだった。「携帯で縛っておけるような人間じゃないから尚困るんだ」
 はい、そうでした。
 彼女はひとり、上司のいる東京から遠く離れたここで声を立てず苦笑する。
 


 

 夕方、保育園へ姪と甥を受け取りに行く準備をしていると、拡声器での触れ込みが聞こえてきた。古新聞の回収だった。
「あ」
昨日義兄が新聞を整理していたのを思い出し、笙子はトラックを止めた。
 物入れの中、出そうと思っていた新聞の束の上に、何故か住宅のパンフレットがいくつか置いてあった。白黒の新聞の上にぽっ、とそれだけが明るい光を湛えている。きれいな部屋に、洒落た応接セットのある風景。――
「…?」
思わずそれは横に置いて、新聞だけの重さを計ってもらった。
 そのパンフレットの中身を確かめ、それに老人向けのマンションのものと二世帯住宅のもの二種類があるのを知ると、笙子は自分の部屋にそれを隠して急いで出かけた。姪たちを待たせてはいけないと思い、ゆっくり眺められなかったが、あれは誰がもらってきたものなのだろう。
 父か母のどちらかが言い出して物件を見に行ったり、あのパンフレットを比べながら話し合って、けっこう本決まりのところまで話が進んでいたような雰囲気がした。
 根拠はないし、ここから遠く暮らしていた笙子は家族の事情に疎い。しかしそう思う理由は、姪と甥の成長だ。
 今は保育園のちびでも、将来は必ず大きくなる。父親が二十五年のローンを組んで建てたあの家が手狭になることは決定的である。
 しかし今日、あの場所にパンフレットが捨てられていたのは、母が抜けたことで話が立ち消えになったことを表しているに違いない。
 定年になって、今までは仕事に打ち込んでいた時間を、とにかく何かしらの行動で埋め尽くさなければ気が済まないように見える父は、母親との老いをどのように考えていたのだろう。初めて、毎日習い事へ出かけるのが父の本意なのだろうかと疑った。
 もし、定年という最大のチャンスを活かせなかった父が、代わりに家を越すなり建てかえることを転機として、母との間に新しい関係と生活を構築していこうと考えていたなら、こんなことになって一番悔しかったのは母自身でもなく父だろう。

 少なくとも巻き込まれただけの自分ではない、と笙子は思った。

 そうだ。
 母は周囲が可哀想だと思うほど、生に執着はなかったかも知れない。第一、彼女は笙子が戻ってきて暫くすると、生きることに望みを抱くのをやめてしまったように見えた。ただ孫たちとの触れ合いだけを楽しみにして、自分の存在証明を幼い彼らに残そうと必死だったような気がする。
 そうして小さな胸に残されただろう、かけがえのない思い出という遺産。――母は死にたがっていた。

「しょーこちゃん」
園内に目一杯響き渡る子どもたちの声の中でひとつ、自分を呼ぶ声がする。姪だった。帰り支度を既にして、甥と一緒に砂場にしゃがみ込んでいた。
「待った?」
「待った」子どもは正直だ。弟が姉に3秒遅れて「待った」と言った。
笙子は砂場に踏み込んでふたりの子どもを立たせる。「せり。いい女はこういうとき、嘘でも『全然待ってないわ、今来たところよ』って言っておくんだよ」
「?」分からない、という顔で姪は笙子を見上げた。
 ふたりの受け持ちの先生それぞれに挨拶をして、すれ違うお母さんたちにも頭を下げて園を出る。半年の間で、それまで全く周囲に気遣いをしなくてもいい環境にいた自分が、よくぞここまでの所作を身につけたものだと思う。

 そうして、だんだんと染まっていくのだ。

 自分のスカイラインの後部座席にチャイルドシートがふたつ取りつけられている様子にも慣れた。姉から、
「子どもたちの送り迎えをしてくれるなら、私の車からチャイルドシートを移さないとね」と言われたときは、まるで死刑でも宣告されたような気分になったのに。――スポーツカーにチャイルドシートなどビジュアル的にも最悪だが、それ以上にプライベートスペースを奪われた気がして嫌だったのだ。
 いや、気のせいではなく、実際に奪われたのである。
 ひとりになりたくて車を出して遠くに来ても、バックミラーにはしっかりといないはずの子どもの影がふたつ映り、自分が彼らに常時拘束されていることを思い出させる。しかも彼らは、本来ならば自分が責任を負うべき実の子どもではない。あくまでも姉の子どもである。
 しかし、その激しい嫌悪感すら感じなくなったということは、今の自分はどんどん日常に食われて鈍化しているということだった。
「はい、座って」
まず弟のほうを抱き上げて座らせる。人形のように無垢な瞳がこちらを微塵も疑わず真っ直ぐ向けられ、笙子の手に、彼の小さく柔らかな指が触るともなく触る。

 無邪気な彼らのせいでここを離れられないのかも知れない。
 ふたりは大人の本音を鈍らせていく。黙らせてしまう。

 彼らのことを考えると、拠点を再び東京に戻す気は明らかに減退する。少し母の気持ちが分かった気がした。
 あれだけ病状が悪化していたら、日ごとに変化する体調に気付いていない筈はないと思う。しかし母は孫に縛られ、ぎりぎりまで医者にかからなかった。始めは姉たち夫婦の問題でしかなかったはずのことを優しい母は請け負ってしまい、それを放棄すれば困るのは孫ふたりだと思ったのだろう。
 癌だった。突然歩けないほどの腰痛に襲われて病院へ行ったところ、思いがけず婦人科に悪性腫瘍があることが分かったのだった。
 結果的に母の判断は、姉夫婦の負担が当たり前に他の家族員に転嫁されることを容認することになり、永遠に母は孫を見捨てることになったのだが。

 笙子は信号停止でバックミラーを見て吐息する。窓の外を眺めていて子どもは静かだった。

 

 帰宅して、家にいた父に姪と甥を渡すと、予約を入れていた美容室で髪を結ってもらうため、再び出かけた。
 器用でなければ長い髪の毛など宝の持ち腐れで、こういういざと言うときに他人の手を煩わせることになる。それでもまだ髪を短くできそうになかった。

 人生で初めて結婚式の招待状を受け取ったのは、大学を卒業して間もなく、別れた恋人からのものだった。
 レストランを貸し切りにしたささやかな披露宴の案内が書かれていた。その会場は、ふたりでよくペペロンチーノを食べたところだった。
 そのことを、やけに挑戦的な当てつけだとは思っても、無神経だとは感じなかった。それに、彼が自分の次にどういう女性を選んだのか非常に興味があった。それほど彼との別離は笙子を鋭角的にしていたのである。
 彼女の学生時代の殆どは、彼との交際期間と重なっている。四年生の始めに別れ、大学院へ行くという彼の進路を知って笙子は進学を諦めた。他の大学の院へ行くという方法もあったが、一から教授との新しい人間関係を築くのが負担だった。
 しかし招待状を受け取り、出欠のハガキを見つめて数日が過ぎたが、いつまで経っても行く勇気は出なかった。結局しばらくしてから、何気なさを装って共通の友人に電話をした。彼が学生結婚という中途半端なやり方をしてまで手許に留めたかった女性は、
「んー、竹松に似てたよ。経歴を見る限りじゃ、お前ほど賢くないけど」。
 それを聞いて、別れなければ良かったと思った卑屈な心の動きを、笙子は未だに忘れられないでいる。――

「髪はずっと長いの?」

鏡を通して、カーラーを巻いていく美容師の手を見ていたところ、不意に訊かれて驚いた。「えっ…」
「髪は、もうずっと長くしてるの?」
きれいに流行りのメイクをした若い美容師は、くるくるの短いパーマの頭を傾け、笙子にもう一度訊いた。厭味も飾り気もない気持ちのいい女の子だった。
「うん。似合う髪型が分からなくて…」
でも、それは本当の理由ではない。
「ええー、お客さんは何でも似合うでしょう?」切りたくなったら、また来て下さいね、と愛想よく言われた。それに対し「うん」と返事をして、本当にこの彼女を指名しようと思ったが、果たしていつになるのかは笙子にも分からなかった。
 カーラーをすべて巻き終えた髪に温風が当てられる。美容師が遠ざかるのを確認して笙子は憂鬱な吐息を零した。

 どうして今日はこんなに、“彼”を思い出すのだろう。
 思いも寄らないところにリンクが張られていて、触れれば彼が意識の表層へ引き出されてくるのだ。代わりに笙子を現在取り巻く状況と、彼女自身の今の感情が下層へ沈み込んで行く。
 その、すっぽりと場所も時間も関係なくなってしまう感覚は、立ちくらみに似ている。自らを捕らえるものすべてから解放され、感情さえも感知できなくなり、次の瞬間には誰かが心配そうに覗き込んでいる場面にトリップする。それまでの間、自分はフラットになっているだけである。
 突如現在をを覆い尽くし状況を切り離す、そんな真っ白さそのものだった。

 ―― 髪は…ずっと長いの?
 笙子の肩にかかる髪の束を掌に載せて静かに尋ねてくれた。眼窩の深い彼の表情は、その暗い部屋の唯一の光源だったテレビの映像に翳り、掠れた声が彼女の胸の底に響いた。
 
 抱いた背中の大きさ。抱いてくれた腕の強さ。聞こえた吐息の深さ。ただひたすらにすべてが優しい。

 前後のことは何も関係のない、それだけで確立している点になって落ち込んで行くだけの快感。

 

 美容室の帰りに銀行に寄るのを忘れた。
 祝儀袋に入れるための現金を新札に交換してこなかった。笙子は着替えた後で、滅多に持つことのない黒いレースのハンカチと一緒に福沢諭吉へ当て布をしてアイロンをかけていた。
 諭吉さん、さようなら…。
 わざわざデパートの文具売り場にまで出かけて行って買った可愛いピンク色の和紙でできた祝儀袋に、一万円札を四枚葬った。普段ならケチをして確実に二枚だが、この度嫁ぐ友人は祝い金を自分の基準の倍額にして余りあるほどの親交の深さだった。笙子にとって他にこれほど長く深く付き合っている友達はいないから、それだけでも大盤振る舞いの十分な理由である。

 あ。

 「四」という数字に「死」と同じ音を見つけ出して、笙子は迷った末に一枚抜いた。笙子自身は科学の徒でありそんなことはまるで信じないが、この世の中には「縁起」という言葉がある。
 それにしても、久し振りに結構な出費だよね。――それは祝儀金だけではない。今日の衣装もだった。はっきり言って高かった。
「もっと地味なのだったら私も着られたのに」
琴絵は、アイロンのコードを始末する妹を見下ろす。もう少し後のことを考えてよ、と言った。
 今日のために妹が買ったのは、黒いストレッチ素材のTシャツとスカートのスーツだった。しかしこれは、Tシャツと言って思い浮かべられるような安直なものではない。
 しゃり感のある布地、スタンドカラーの襟元から胸元までリボン刺繍が施されている贅沢さ。その細工の花がそのまま零れたように同じ縫い取りが続くスカートの裾は緩く斜めに裁断されており、そのせいで右の膝頭だけ見えるのが変に色っぽく、妹の肌の色とのコントラストで、黒という無彩色がやけに派手に見えた。
「…」
笙子は黙ってアイロン台の脚を折り曲げる。
 姉は、教師という職業柄、式典や祝儀不祝儀に立ち会うことが多く、礼服をいくら持っていても持ち過ぎることはない。そのことは知っていた。この衣装がもし共用できるようなものなら、今日が済めば彼女に取られるだろうとも予想がついた。
 この服を再び着る機会が来るのかどうかは分からないが、無償で姉の箪笥に仕舞われるようになるのだけは嫌だ。
 初めから姉にやるつもりはない。
 どうして着る服まで姉に気を遣わなければならないのだ。そんな謂れはないはずだ。
 五分袖の上着に、これも今回買った極上のパシュミナストールを纏って立ち上がった。
 ――棘が、自分の身体中から隈なく生えているのが分かる。しかし笙子自身にはどうしようもない。
 私だって、こんなふうになりたくてなったんじゃない。

「わああ、しょーこちゃん、お姫様みたーい」

 このまま出かけようとした彼女をそうさせてくれなかったのは姪だった。居間からぱっと飛び出してきて、笙子の行く手を塞ぐと叫んだのだった。
「せりか…」
裏の意図のない子どもの言葉に顔が熱くなる。恥ずかしかった。そんな素朴な感想を素直に喜べる歳ではなかった。彼女は今年で二十八になった。
 琴絵も笙子と同じことを思っていたらしい。続けて、間髪いれずに
「…お姫様っていうトシじゃないわよねえ」と、言葉で妹を刺した。

 ぐさっ。

 分かっていたが、改めて言われると傷ついた。
「…出かける」
ビーズがぎっしり縫いつけられたバッグを開け、祝儀袋を入れ、その他の持ち物を確かめる。
「帰りは?」
笙子は姉の顔を見なかった。「…門限がある訳でもないし、帰宅時間を言い置く義務があるほどコドモじゃない」“コドモ”のところを強調して言った。
 そこで姉は、初めて妹の機嫌を害したことに気付いたらしい。「笙子ぉ」と意味もなく呼んできたが、彼女は黙って新品のミュールをつっかける。
 そこへ外から砂利を踏む音が聞こえて、誰かがこちらへ向かっている気配がした。
「よ」
ドアを開けたのは筝太郎だった。甥が言っていた通り今回も動物を連れてきたらしく、プラスチックのケージの中で縞縞の小さな何かが動いていた。うぞうぞ。
「お帰り、筝ちゃん」
笙子の冷たい態度にうんざりしていた琴絵が、弟に縋るような笑顔になる。姪が歓声を上げて、筝太郎の手から籠を床に下させた。

 姉弟三人が顔を合わせたのは、母親の四十九日以来だった。

 普段着の姉と弟、ヘンに飾った自分。
 三人の間にはおかしな沈黙が訪れたが、あたりの空気は、籠を開けた姪の甲高い声だけで満杯になっている。
 笙子は自分のすぐ脇に立つ弟と、上がりかまちの上の姉を見た。姉と弟は、母親と同じぱっちりとした二重の目で、それなりの親愛を込めて笙子を見返した。
 三人で狭い玄関に立っているだけで、圧迫されるようである。そこへ、動物に興奮する姪の声を咎めながら、父が向こうから来ようとしていた。笙子は密度が更に増すのを怖れ、ドアを開けた。
「私、行って来るね…」
小さな動物のか弱い声だけが笙子の背を追いかける。

 県道で拾ったタクシーの中でコンパクトの鏡を出して、自分の顔を見た。――笙子の目は、父親似の奥二重だった。

 息苦しい。――

 

 新郎の職業柄だろうか。
 出席者は極めてお行儀がよく、式次第も実に保守的だった。つまり危うさもないが、取りたてて面白い訳でもない。でも、笙子を含め新婦の友人というのがけっこう出席していたので退屈はしなかった。それと同時に、今日この場に来なければ再会できなかったような、自覚もなく縁の切れていた知り合いの多いことに驚いた。
 そして、自分と同い年のそういうひとたちに子どもがいる事実に愕然とする。それは自分が独身であることへの劣等感ではなく、二十代も後半になると係累に対しての責任が発生することを改めて見せつけられた感じだった。
 それを全うしようとしている、かつての同級生たち。対して、それに取り囲まれただけで物怖じしてしまう自分。
 逃避に近い暗く後ろめたい気持ちが容赦なく笙子を打ち据えた。そして、すべては筝太郎ひとりに対し好転しているのだとやっと気付く。――

 急に盛大な拍手が起こり、現実に引き戻された。

 誰なのかは分からないが、いかにも学者をやってました、という感じの老人がスピーチを始めるらしい。痩せた身体に燕尾服、鼈甲の縁の眼鏡、剥げあがった額。喋り慣れているが、どことなく不健康そうな年の取り方だった。
 笙子はその間に、つくづくと新郎の顔を眺めた。
 友人の夫となったひとは、新婦も勤める市立病院に籍を置いており、新婦より三つ年上である。
「…」
 何となく意外だった。
 友人の好みのタイプには到底見えなかった。――しかし笙子が知っている友人の好みは、まだセーラー服の女子高生だった頃に、彼女がキャーキャー言いながら校舎の窓から眺めていた陸上部の男の子だから、けっこう古い話である。よくも飽かず何時間も見られるものだと溜め息しながら、結局笙子は毎日最後まで彼女に付き合った。その彼は長身で細身で顔も良かったが、確実に自分の注目されていることを知って行動していたような、笙子に言わせると「ヤなヤツ」だった。
 それに比べたら、この度彼女が選んだ新郎はずっと誠実そうである。悪く言うと平凡で面白味に欠ける感じ。

 …お金目当て?

 急にそう思いついたが、医者なんていう職業は開業して初めて儲かるのだ。だから、たぶん勤務医としてのキャリアが続くと思われる彼を友人が選んだ理由はもっと人道的なところだろう。
 それに、時間の経過ばかりが要因ではないだろうが、嗜好なんて変わるものなのだ。
 髪型だって、高校のときは笙子がショートカットで彼女がロングだったのに、今は全く逆である。何の躊躇いも感じられない短い髪が、白いレースの中で跳ねている。笙子は自分の後ろ髪に手を遣った。
 重い髪を、意味もなくいつまで後生大事に伸ばしておくのだろう。

 

 華燭の宴はすべてのプログラムをつつがなく消化し、会場の出口で新郎新婦とその両親が並び立って、今日の招待客を見送る段となった。
 笙子はかなり後のほうで会場から出た。人待ち顔だった新婦が彼女を見て表情を明るくし呼びかける。「笙子、笙子」
 真っ白い衣装に包まれた親友が、誰より大切なひとを隣に置きながら自分に飛びつかんばかりの嬉しさを露わにしてくれるのがひどく照れ臭くて
「きれいだよ、とっても」としか言ってあげられないまま、彼女は友人にこのまま帰宅する旨を告げた。
「何で?、私も二次会に行くのに」ダンナの友達紹介してあげるよ、と彼女は笑った。笙子も合わせて笑った。
「惜しいけど今日は帰る。足が痛くって」
新婚旅行から帰ってきたら連絡ちょうだい、新居に遊びに行くからと言うと、彼女もこれ以上引き止められないと悟ったらしい。「本当に遊びに来てね」
 笙子は頷き、新郎に礼をして、友人の手を握ると彼女の肩に顎を載せる。

「笙子、覚えてる?」唐突だった。
「…何を?」
「…」
笙子は彼女の名前を呼び、言葉の続きをせがんだ。しかし、彼女は薄い笑いを笙子の耳元に聞かせるだけだった。「ううん、いいの」

 ふわり。

 抱き合った花嫁から、昔と変わらぬ匂いがした。これすらもそこにいる彼のものになったのだと、彼女は今日、周囲に示した。――笙子の余地は、笙子が何かを忘れた時点からないはずなのに悔しくなった。
 笙子はエレベーターに向かって赤い絨毯を踏みしめる。じりじりと自分の思い出さなければならない何かがあるということに焦がれたが、同時に突き抜けるような心地良さも感じていた。
 慣れない履物に足が痛かったのは嘘ではない。だが、笙子は何より、友人が忘れずにいてくれた何かしらの事実の甘い空気を身に纏ったままでいられるのが嬉しかった。
 その優しい余韻を引きずるのに都合よくホテルのレーンにタクシーはない。駅前までの道は人通りも少なかった。
 ただ足だけがきりきりして、挙句頭痛がするのが残念だった。歩みを帰宅のために進める度、激痛によって無理矢理外へ引き摺り出されるように、自分に都合のいい何もかもが雲散霧消して、自分が人間的に欠落しているのだと思い知らされてしまう。
 何かを忘れてしまったまま、どこへ行こうとしているのかよく理解していない。

 いっそ帰りたくない。そう思った。それができるなら、どれほど楽だろう。

 どうせ、出迎えてくれた家族に今日の宴の感想を尋ねられた後は、弟の連れてきた生き物にかまけて興奮して未だ寝付いていないだろう姪と甥を叱ることしか残されていないのだ。
 立ち止まると、足の痛さに息が詰まりそうである。

 

 今なら会ってもいい。

 会いたい。
 会いたくなった。――彼がつくり出してくれた、周囲すべてを切り離すような感覚に陥りたい。
 それくらい笙子は弱っていた。もう気付かないふりをできないくらい、自分をこれまで支えていたものが衰弱しているのだと初めて分かった。
 しかし自分は彼に会ってどうするつもりなのだろう。その前に、どうやって会うつもりなのだろう。
 再会したい理由を述べる上手い言葉も出ず、まして笑えもしないと思う。この二年間の無沙汰を説明するきれいな言葉は見つかりそうになかった。それほどのボキャブラリーがあるなら、自分の生き方はもっと楽になったはずである。
 それよりもまず、あのときアプローチを試みてくれた彼を一方的に拒絶したくせに、ここで必要としてしまうのはあまりにも狡猾に過ぎるだろう。
 ――いや、本当にずるくなれるならなったらいいのだ。それすら自分にはできない。

「…」
無理だ。
 どう考えても恩赦はない。それほど彼を傷つけた手応えが残っていた。

 笙子の八方は臆病さに塞がれた。自らの中途半端な理性と真面目さを恨むしかない。
 彼女のすぐ横を、何人かのひとが続けざまに追い越して行き過ぎる。中には、立ち止まっているのを不審そうに振り返る者もいた。
 諦めようとする一方で無性にもどかしかった。咽喉を掻きむしられるような衝動に突き動かされて、口許が叫びを我慢するのに震える。
 もう遅いのだとは思わない。どうして早く気付かなかったのだとも思わない。今でなければ、こういう気持ちにならなかったのは確かなのだ。

 彼女は麻痺しつつある足で、ゆっくりとまた歩き始めた。私はどうせ何もできない。それを笙子は、求めてはいけないという自制に置き換えることで誤魔化そうとする。
 もう望んではいけない。
 だって、今までも忘れたようにして過ごしていたのだ。そうすることができていたのだ。今になって自分を慰めるだけに思い出すなんて惨めだった。
 でも、――。

 特に寒くはなかったが、心細さを覆い隠すようにストールを巻きつける。気を抜くと取り囲まれてしまう、遅過ぎる未練からの、せめてもの防衛。

 ゆっくり、風が通り過ぎた。
 誰かの声のように低く震える、エンジンの音を伴う埃臭い風だった。この市内にあるメーカーのバイクで笙子も何度か見たことがある。
 赤と黒のペイント。
 そしてその見覚えすら、また彼の記憶に通じていく。ライダーがシルバーのフルフェイスだというのも、更に笙子の頭痛を悪化させた。
 しかし、もうそんな胸のざわめきも「私は病気なんだ」と呆れて笑うことにして歩き続けることにする。この世界に同型のバイクの何台あることか。
 だが、彼女を追い越してすぐ歩道の脇にバイクは止まり、乗っていた男はグローブの左手をこちらに差し出して言ったのだった。

「笙子さん、お元気でしたか?」

Fin.

 

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