unforgettable

 

 街の雑踏からざわめきさえ消えた。

 竹松笙子は、早川裕作が脇道に入ってバイクから降りる仕草を、まるで二度と見られないもののように息を殺して見つめるだけだった。
 感覚は急に研ぎ澄まされて敏感になって、裕作が動く度に起こる空気の波動さえ肌に突き刺さるのに、ふわふわした現実感の失われた状況。履き慣れない靴が足を痛めつけるのも、胸の痛みが強まるにつれ麻痺していく。
 信じられなかった。
 かかる事態を幸福な偶然だとは思えなかった。――自分と彼の意識がシンクロして、距離さえ越えることはあり得ない。もしあったとしても、それは天文学的数字分の1のことに違いない。
 でも、これがそうだとしたら…?
 ますます笙子の気持ちは甘く厳しく追い詰められる。
 対して裕作は、このシチュエーションに何の特別性も見出していないらしかった。ヘルメットを取って、素っ気なく尋ねる。「どうしてそんなカッコしてるんですか?」
 久し振りに会ったのに、開口一番にこれか。――と、裕作も笙子も思ったが、その発言自体についてはお互いにノーコメントとする。
「…」裕作は返答を待っている間に、しっかりと笙子の目を見たけれど、
「友達の結婚式だったの」笙子は、裕作の目を見ることができなかった。
 見てしまうと、この偶然を全くの僥倖だと勘違いしてしまう。彼の今の表情が自分を無闇に明るくさせる予想がついた。そこまで夢を信じたくなるほど、彼女はもう幼くなかった。

 ――幼くないのだと思い込んでいた。彼女自身だけが。

「ああ、それでこんなお姫様みたいな格好なんですね」
本当に裕作は全く心が揺れていないようだ。いつも見せてくれていた何の屈託のない笑顔で、こちらを覗き込んできた。
 五歳の姪と同じ発想をする、二十八歳の天才エンジニア。無理矢理合わせられた瞳に笑いがこみ上げる。
「何かおかしいですか?」
「ううん」彼女は誤魔化すように胸の前でストールをかき集めた。「…今夜、これからどうするの?」
 言ってから、しまった、と思った。失策を犯した羞恥心が瞬く間に彼女を包んでしまう。

 二年前にも同じ台詞を彼に言ったことがある。

 そのときは、今よりも深い含蓄を込めていたのだが、今回はそういう目論みは笙子になかった。しかし、
「分かってます」
その一言で、二年前のことは彼の中でもまだ時効になっていないのだと分かった。「連れ込みます」

 

 

 ビジネスホテルのツインルームに朝が来ていた。

 人間はふたりいるのに、ふたつあるベッドの一方はシーツにしわ一つない、チェックインしたときの状態のまま。まるでそこは現実から置き去られて、こちらとは隔絶されているようである。
 笙子はこちら側の現実に目を遣った。
 また私のほうが先に目が覚めた…。
 彼女を最高に憂鬱にさせるのは、自分が先に夢から抜けたという事実である。白々しい朝の光にすべて映し出されて、自分だけ甘い空気から放り出されたような、ひどく冷たい気持ちになる。
 上体を起こして隣の人物を見下ろす。早川裕作は笙子に背を向けていた。
 彼は、笙子が見た限り外見に変化はなかった。余程気をつけているのだろうか、座ってばかりの仕事に戻って二年経過している割に筋力が落ちたようでもない。
 背筋の稜線を区切る背骨の落ち窪み。美しくさえある。
 裕作の手首に時計がされたままで、それが昨夜の慌しさを無言で物語っていた。リアル。恋愛は美しくない。

 彼は今度もまた、彼女の努力を無にしてくれた。
 この度は、他の誰でもない、彼自身へ彼女を引き戻したのだが。

 裕作の寝息がひとつ長く吐かれた。

 このひとと一緒にいると、おかしな度胸がついていく気がする。――加速。そしてそれに続く慣性。これ以上付き合うと、自分が止められなくなりそうだ。
 以前の、何もコンプレックスのなかった頃の自分のように。

 笙子は枕に落ちているヘアピンを拾った。そして、まだ髪に留まっているピンを抜いていった。
 昨夜は、言葉のない訴えをするだけで、彼は笙子の事情は何も尋ねなかった。笙子もまた彼の来訪の理由を訊かなかった。
 そういう、関係を定義づけるような質問をしてしまうと、途端に破滅へのカウントダウンが始まりそうで怖かったのだ。
 それならば、不安定この上ないけれど、知らないほうが次の機会が永遠に訪れなくても、そのことを素直に諦められる。――諦められずに思い出していたくせに、また同じ轍を踏んでしまった。
 急に、できるなら彼が目覚める前にここを出たいと胸が騒ぎ出す。
 そうすべく、笙子は裕作をそのままにしてバスルームへ入る。

 

 携帯電話が鳴った。
 そのけたたましい音に目を開けると、サイドテーブルに向かって座っていた笙子がそれに出ようとしていた。
 裕作は慌てて、その手に自分の手を被せる。寝ぼけた身体に触れてくる、乾いた布地の感触と石鹸の香り。力任せに彼女を後ろから抱き締めて思う。

 どうしてこのひとは必ず俺より先に起きてるかなあ?

 笙子は鬱陶しそうに裕作を振り返り、彼に構わず電話に出た。裕作は、急に外界とこの空間が繋がることの不快感を露わにして何か悪戯をしてやろうと彼女を更に深く抱いた。――結局、彼女の意識が自分以外に注がれる寂寥に何もできず、彼女の項に頬を寄せるだけになってしまう。
 笙子が電話に話しかける声が振動になって伝わってくる。

 自分の聞いたことのない、優しさをほんの少し含んだ声だった。

 こんなふうに喋ることもあるんだ…。
 今まで意識したこともなかったのに、そういう彼女があることを知ると、今まで知らなかったことが妙に悔しくなる。
 勝手なものである。

 笙子に応えるスピーカの向こうの声は、不機嫌に甲高い子どもの声だった。「しょーこちゃん、どこにいるの?、はやくかえってきて」

 

「おはよう」
どういう顔をしていいのか分からなくて、笙子の声は鋭角的になってしまった。彼に黙って帰ることに失敗したのだと思った。
「姪御さんと甥御さんですか?」
声を出さず、彼女はうん、と頷く。裕作の咽喉のあたりで、さくりと彼女の髪の毛が揺れた。「世梨花と多美也っていうの」
 さっき、男の腕の中で、姪と甥の、純真無垢に自分を求める声を聞いた。今、頭のすぐ後ろで聞こえる裕作の声が、子どもたちの要求のほうをあっけなく嘘にする。「あなた、スカイラインに乗る前はトヨタのセリカに乗ってましたよね。田宮模型のラジコン大好きだし」
「…私、いつか彼らの話を君にしたことがあった?」私は提案しただけで、名づけたのは姉よ、と彼女は言った。
「昨日の夕方お会いしましてね」裕作は、笙子に会う前に彼女の実家を直接訪ねていたのだ。
 それを明かすと、自分が彼女にかけた魔法が解けてしまうことは分かっていたが、いずれ知れるなら自分が知っている範囲でばれたほうが彼女を傷つけない気がして告白した。 案の定、笙子はひとつ吐息する。「何だ、やっぱりそうだよね…」
「うん?、何?」
裕作に独り言の尻尾を踏まれ、仕方なく笙子は白状した。「偶然会えたのかと思ってた」
「だから昨日言ったでしょ、“サエない王子ですみませんねえ”って」
笙子は申し訳程度に笑ったようだった。

 やっと分かった。

 彼女は、嘲笑でしか笑顔を見せてくれない。だから、彼女の笑顔はこちらの胸に重く支える。彼女が笑えば笑うほど、こちらが苦しくなる。
「お嬢さんの行き先をお尋ねしたところ、お父さんに胡散臭そうな目で見られてしまいました」
八王子ナンバーのバイクに乗った、革の上下の男がいきなり娘を訪ねて来たのだ。そのことは、頭のカタい一昔前の教育者である父には、けっこうな衝撃だったに違いない。
 たぶん父の常識では、今でもバイク乗りは全員不良ということになっているだろう。笙子は溜め息した。
 …家に帰りづらくなったな。
 それでも、
「帰らなくちゃ」。
 まだ自分には、あの家にいなければならない理由がある。
 それが、自ら望むことではなくても、さきほどの姪と甥の電話がじゅうぶんな理由だった。
 望んでいなくても、望まれている。
 それは枷に近い存在であるけれど。
「もう?」
夢のない話で悪いけど、と、笙子は前置きした。「もう行かないと、姪と甥が保育園に遅れるんだよ」
 帰らなくちゃならないのは自分もだ。裕作は笙子を抱いている腕を緩めた。「俺もです。気は向かないけど、先延ばしにできないことがあるから」
「仕事?」
「…そうとは純粋に言いきれませんが」彼を、ここまで連れてきた理由。ひどく裕作を寂しくさせてしまった事実。
「“彼ら”のこと?」
「はい」気が重かった。
 今回のことは、久保田と自分にとっては、ふたつの側面を持っている。
 ひとつは彼らの知己として、心配なできごとが起こった、という極めて個人的に捉えるべき側面。
 いまひとつは、I.N.E.Tが抱える最大の規模、最大の秘密であるプロジェクトが破綻する危機に直面したという、組織的に捕捉すべき側面。
 どちらも久保田と裕作の中では、既に複雑に絡まり合って不可分なことではある。そして、どちらも自分たちを究極に憂鬱にさせる材料だった。

 言えば、久保田はまた、彼らを巻き込んだことを後悔するに違いない。
 必要以上の結束を強いたから、彼らを余計に苦しめているのではないか、と。
 ――そして、巻き込んだという罪なら、裕作も同じだけ苛まれるところではある。

「君、大丈夫?」
自分が巻き込んだ人間がもうひとり、ここで自分を見上げている。「…」
 だがそのことを何とも思っていない、有り難い感情の持ち主。
 裕作は小さな子どもにするように、笙子の額に頬を寄せて髪を撫でた。洗い立ての髪の毛はしっとり指に吸いつくようだった。
「笙子さん、お願いがある」
改めて言うべきことではなくて、自分の言葉の空々しさに妙に恥ずかしくなった。「携帯の番号教えて」古いナンパの手のような願いごと。恥ずかしくて、彼女の目を見ることができない。
「いいよ」と、そう答えるまでの激しい躊躇を、笙子はとうとう表に出さなかった。だから裕作には、笙子が、素直にすぐ手の中の端末を探って、番号を見せてくれたように思えた。

 携帯電話のメモリに加えられるというのは、とりあえず、その相手との間に何らかの交友関係が生まれるということである。
 少なくとも笙子はそう考えていたので、尋ねられてから答えるまでのほんの少しの間に、少なからずいろいろなことを考えたが、いい意味で執着がなくなってしまったのだ。
 自分への執着。
 自由な発想を奪う、暗い執着心。

 昨日、彼と数年ぶりに顔を合わせた。それは間違いなく、全く予想もしていなかった形での再会だった。
 彼が静岡まで来た交通手段はバイクで、彼は何のこだわりもなく笑ってくれた。
 そんな、何もかも自由で愉快なイマジネーションに突き動かされた昨夜の存在が、笙子に、他へ対する執着を思い出させていた。

「ありがとうございます」
 でも裕作は笙子の携帯の番号を写し取ることを、今はしなかった。代わりに、
「もうひとつ」
少しだけ離れて、これもまた今更言うまでもない願いごとをする。笙子の瞳にささやかな好奇心が宿っているのが、ひどく照れくさい。
「笙子さん」
年齢不詳、実に倒錯的な外見の彼女に告げる。

「キスしてください――」

 彼女の顔を見ていられなくて、裕作は言った途端に目を閉じる。
 果たして彼女は、驚いたか、呆れたか。もしかしたら怒っているかも知れない。
「…」
あんまり長いインターバルなので、そっと目を薄く開けてみる。
「あ、目、開けた」
笙子はまるで実験のレポートをするような平坦な口調で、彼女の見たままを言った。面食らって言葉のない裕作に笙子は続ける。「唇って、身体で唯一外に露出している粘膜なのよね?」
「はい、そうですね」
「どうして愛情の対象に粘膜を触れさせるんだろうね。誰が初めに思いついたのかな」
「さあ」
どういうつもりで笙子がそう言ったのか理解できなかったが、裕作はもう楽しかった。彼女のこういう観察眼的視線を、前回も受けたことがある。
 全くの非常時に、その空気を分からなくなしてしまう彼女のドライさ。それが相変わらずであったことが嬉しかった。
 笑うのに息を吸い込んだところ。

 不意打ちで。
 探ることのない、短い接吻。

 ずるい、と言おうとする声に、笙子の声が被った。「賛成。思いついたひとは天才」

 

 

 ドアは閉まった。
 さすがに崩れた髪型は元通りにできなかったが、彼女は自分と再会する前の彼女に立ち戻り、現在の自分の場所に帰って行った。

 強いなと思う。単純に心から

 それが、実に演技に似た性質のものであっても、彼女はいつも意識せずにそれをこなしてしまっている。
 まるで自然のことのように。

 昨夜、ここに着いてすぐ、とうとう久保田からの電話に捕まった。
「早川ッ、今どこにいる?」
「すぐにはそちらに伺えない場所です。何度も電話を下さってたようで――」そのもの言いが久保田を余計怒らせたらしい。裕作が管理しているサーバのパスワードが何か、という本題に辿り着くまでに、ゆうに30分は説教された。
 笙子はしばらく裕作の隣で、そこから漏れる久保田の声を聞いていたが、やがてバスルームへ消えた。

 電話が済んでしばらくしても、なかなか笙子は出て来ない。
 裕作は心配でドアをノックした。「生きてます?」
 静やかな笑い声がして、生きてる、と彼女が言った。「ごめんねえ、開けていいよ」――あの夜も聞いた、途中から笑っているのか泣いているのか判断がつかなくなる声だ。
 笙子は浅くお湯を張ったバスタブの縁に腰掛けて、その中に足を浸していた。「足が痛くって…。踵のある靴なんて久し振りだったの」ぽつり、と、慣れないことはするもんじゃないね、と呟いた。
 その言葉は、靴のことだけに向けられたものだったのだろうか。
 もしかすると、今このことのすべてが、彼女にとって“慣れないこと”なのか。
 彼女は上体だけを前に倒して、足の指先を少し触った。ちゃぷんという水の跳ねる音がする。この仕種をどこかで見たことがあると思ったが裕作は思い出せないまま、笙子の隣に逆向きで座った。
「私、――…」
語尾が震えた末にかき消える。ユニットバスの密閉性で声音の振動幅が大きく感じられた。睫毛が必要以上に揺れるのを見て、裕作は彼女の肩を起こすと、それに続く動作で彼女を抱えた。
「…早川くん、ごめんなさい」
何度か聞いたことのある台詞だと思ったが、それに伴う彼女の仕種は以前とは全く違っていた。笙子は能動的に寄りかかってきて、自分は彼女の細腕で抱かれている。

 しかしこの動きは、裕作を受け入れてくれたことの証明ではないだろう。
 ただ彼女は心細さだけを露呈していた。そして、たったそれだけなのに、その暴露量に比例して慰められる自分がいる。
 今まで――笙子と成田で別れてから今まで――ずっと、自分が改めて彼女に働きかけたとしても、拒絶が繰り返されるだけだと思っていた。
 だが、それが極めて自分に都合のいいエクスキューズでしかなかったことに気付かされる。

 会いたかった。会いたかったのだと思う。

 どうしてここまで無理が利いたのか分からないほど、やはり自分は彼女に会いたかったのだ。
 空気だけがしんしんと寂しく沈下していくのを、
「“早川くん”、かあ…」裕作は自分から彼女を離して、笙子の首が仰け反るほど彼女の前髪を掻きあげる。
「知ってた?、俺の名前は“裕作”っていうんだけど」
子猫のように目を閉じ、それを甘んじて受けながら「知ってるよ」と言った。だから何?、とも。
「…耕一郎でさえ、会って三回目で“裕作さん”って呼んでくれたのに」
間髪入れず、「呼ばないわよ」との声。
 その返答に怒ったふりで何も言わず、裕作は彼女の脇と膝裏に腕を差し入れた。「よっこいしょ」
掛け声など必要のない、軽い笙子の身体。
 抱き上げられた彼女が意識して呼吸止めた感じ。一瞬身体が強張ったようだった。裕作の視線の先で笙子がぽつんと
「お姫様抱っこ…」と言った。
急な展開に圧倒されたらしい。瞬きもできずにいる彼女を間近から見て、裕作は笑う。
「サエない王子ですみませんねえ」

 

 何しろ身ひとつで来たので、帰り支度は早かった。持ち物らしい持ち物は、現金とバイクの鍵、フルフェイスのヘルメットだけ。
 久保田へ東京に着く時間の目安を連絡した後、部屋の窓から浜松市街地を見下ろした。
 笙子の暮らしている街。――自分と仕事をしていた頃とは全く違ったスタイルで。
 何となく眺めた景色だったが、それで裕作はやっと思い出した。
 建物の屋上、屋根の連なり…すべてが朝日に輝いている。その様子が太陽を照り返す波を連想させたことが糸口となった。
「あー、分かった」
 昨夜の、足を冷やす笙子の仕種。――お辞儀するように上体を倒して、痛むつま先を気にする。――何か、知っているような気がした動作。

 慣れない足で踊り続け、激痛の走る足を冷やす「“人魚姫”か…」。

Fin.

 

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