バレンタインな話
フラッシュが光って、みくは手を止めた。そして連続してもう1度光ったのには金切り声を上げる。「いやあ、もう。どうしてこんな写真撮るの?」
みくが手を置いたのは、編みかけのセーターの袖だった。今はまだほんの少ししか編まれていないグレーの塊。
作業中の彼女を、千里が向かい側から写真を撮ったのだ。
「後でみくがどれだけ苦労して編んだか、瞬に教えてやろうと思って。去年は編み方を教えるのでいっぱいで撮るの忘れたから」
今年のセーターはチャコールグレーだった。
去年の紺もなかなか上品に仕上がって悪くなかったが、色のセレクトが変わったことがみくではなく、瞬の成長を表しているような気がした。
千里はテーブルに、既に出来あがっている両身頃と右袖を並べてみる。今のところ、去年みくが犯したミスは繰り返されていない。今年の編み物はみく曰く、去年の自分への「リベンジなの」…ということである。
去年はクリスマスのプレゼントにするつもりで秋口に毛糸を買ってあったのに、編んでは解き、解いては編み目を数え足りず再び解くといった具合で、努力に関わらず、完成はぎりぎりバレンタインデーに滑り込んだ。
それに比べたら今年は二度目だけあって、取りかかりも進行もはやいようだ。編み目も揃っていてきれい。
「千里は?」
「なあに?」
みくは目を手許から外さずに溜め息した。「去年もそんなふうにして誤魔化された気がするよ。―― 千里は今年も何もしないの?」
それでも訊きながらみくは、既に千里の答えを見抜いていた。
千里も、もう答えが決まっているくせに、だらだら冷めた紅茶を飲んだりする。
去年のクリスマスイブのこと。
耕一郎が始めからローテンションだったこともあって楽しく食事をすることが出来ず、ありあまる時間が全員に重くなった。それを破って
「…とりあえず場所を変えるか?」と言ったのは瞬である。
場所を変えてまで五人一緒にいるのがいいのか、とりあえず解散したほうがいいのか、みくにはよく分からなかった。ただ、瞬が言ったことなので従ったような気がする。
そしてみくだけではなく、他の四人も移動する場所のアテだけはあったのだ。
「じゃあ、駅行こっか」と千里が言い、向かった先は23区外の早川裕作の家だった。
しかし五人の考えに相違して、裕作は留守だった。
「…イブにいないってどういうことだよ?」
健太は引き戸を何とかスライドさせようとしたが、勿論外から全く明かりが見えないくらいだから、戸締りだってしっかりしてある。
「健太、野暮言うな」と言いながら、瞬も諦めきれず健太が手を掛けたのとは反対を開けようとしてみる。がしゃがしゃとガラスの震える音だけがして、勿論開くはずもなく、
「…事前に連絡をしておけばよかったんだ」はあ、と耕一郎の溜め息がした頃だった。
自動車がこちらに寄る音がして門の表側が明るくなり、ドアを開ける音がして急に裕作の声が聞こえた。誰かに暇を告げているようだった。
裕作にしては畏まったような敬語で、千里は思わず門から顔を出す。
シルバーのスカイライン。室内灯の消えた暗さで、中に誰が乗っているのかは分からない。ただ、エアロパーツをしっかり装備した車から、今健太と瞬が言ったようなことではなさそうだと思った。裕作の言葉遣いからも、気の置ける相手なのだということが窺えた。
その車が発進して、こちらに体の向きを変えた裕作が
「誰かいるのか…?」
と誰何する。
「メリークリスマス、裕作さん」
千里はいたずらを見つかったのに似た気まずさで挨拶した。
その夜は結局、裕作の家に全員が泊まってしまった。五人の姿を見たときからそれを覚悟していたらしい裕作は、特に嫌な顔をせず、自分で布団を敷きなと言っただけだった。
カチカチという音でみくは目が覚めた。見上げた天井に一筋光が射していて、その出所は閉めた襖の合わせ目だった。どうやら隣の居間で裕作がキーボードを叩いているらしい。
みくの隣には千里がまんじりとせず横たわっている。そういう動いてはいけない状況なのだと思ったら、余計動きたくなってしまった。
「…」
重なる乾いた音の連続に眠気はなくなるばかりである。いっそ、起き上がって居間に行こうかと思ったのだが、
――お仕事だったら邪魔になるしー…。
躊躇しているうちに、すっかり眠っていると思っていた千里が呪われた人形のように突如上半身を起こした。驚いて叫び出しそうになるのを、みくは必死に飲み込む。
「裕作さん…?」
千里が襖を開けず、その細い光の向こうへ呼びかける。途端、ふつりと音が止んだ。少し間をあけて落とした裕作の声が帰ってきた。「うるさいか?」
「ううん。そっちに行ってもいい?」
「いいよ」
言われて千里は髪を少し撫で付けたようだった。そういう気配の後、一瞬光が強くなって、次にみくが目を開けたときには隣に誰もいなくなっている。
…。
先を越されたような感じがしたが、気を取り直して、みくは枕許の自分の荷物に手を伸ばした。
小さな四角い紙袋が触れて、暗い中、ひとりでに顔が笑ってくる。そして、母親の声が聞こえた。――「別に誰も取らないよ」
まだ両親に挟まれて寝ていた頃、その日買ってもらったものを枕許に置いて寝る癖があった。さすがにひとりの部屋を与えられてからはそんなこともなくなったが、その幼い日を思うに、新しく自分の所有となったものを眺めて嬉しいうちに眠気が襲ってくるのが好きだったのかも知れないと思った。
「裕作さん、せめてツリーとかないの、ここの家は。今日はイブだったんだよ?…もう日付が変わってるから、クリスマスだけど」千里はまだ襖のすぐ向こうに立っているらしい。やがて畳を踏んで向こうへ一歩踏み出したらしく、天井へまた先ほどと同じ長さの光の跡がつく。
みくは手探りで袋の中から箱を出した。その鮮やかな水色すら感じられない暗さがもどかしい。
「ちさっちゃんにはサンタさんは来たかい?」
言われて千里は密やかに笑ったようだった。「…サンタが来る時間に、こうして起きてちゃだめだよね」
「ボケんなよ。ほら、誰かの歌にもあるだろ?」
隣からの話し声を感じながら薄暗闇の中でこそこそしていると、とても悪いことをしているような錯覚が起こった。しかしそんな負の要素など、このときのみくには、しっかりここにあるものに纏わる好きなひとの心遣いを浮きあがらせるだけである。
「あー、私、ああいうのダメ」
「どうして?」
みくはとうとう箱からそっと取り出すと、それを着けて、限られた光に透かした。
仰向けに手だけを空に突き出して眺める。途端、今まで漫然としていたものがくっきりしたような気がして、やはりただ嬉しかった。
しかし隔てられた向こうから現実論者の声がする。
「イベントじゃないと何もできないなんて嫌だよ」
みくは手を休めて、つくづくと千里を眺めた。
――それを自分が聞いていたなんて知らないんだろうなあ、と思う。「あのさ、バカでしょ、私?」
「えー?、何で?」
お茶を熱いのに替えて、みくのママがさっき差し入れてくれたクッキーを口許に持って行く。気付いてみくにも新しいお茶をくれた。
「イベントがある度に大騒ぎしてそれに乗っかろうとするから」
「可愛いじゃない、そういうの。みくは偉いよ」
そして千里はみくの予想通り、カップに残っていたお茶を飲み干すと、でも私はいい、今年もやめておくよ、と笑った。
明るくない笑顔だった。
翌日の朝になって残った袖は出来あがり、すべてのパーツを繋いでいる作業をしているみくの写真を撮った。
とりあえず目的を達成できたということよりも、みくは自分の目の前にセーターという形あるものが現出している状況自体が嬉しくて仕方ないらしい。頑張っても目許が笑っている彼女の、左肩先からのアングルがちょっと自画自賛の出来ばえ――と思う。
「できたよ、千里ーっっ」
「おめでとうー」…これで寝られるわ、と千里はみくを抱き締めて思ったが、みくはセーターをちゃかちゃか畳むと
「次っっ!、ケーキ!!」おーっ、と右手を空へ突き上げる。
「…え?」
セーターだけでいいじゃない、と千里が言うと、そんなの去年と同じでしょ、とみくは言った。
この向上心には、ほとほと、感心するしかない。
「薄力粉をふるっておく、鍋でお湯を沸かし粗く刻んだチョコレートを加えて弱火にかける、木べらでかき混ぜながら溶かし溶けたらサラダ油を加えて冷ましておく、卵黄に砂糖の3分の1量加え泡立て器で少し白っぽくなるまで混ぜる、溶かしておいたチョコレートを加えて混ぜる、薄力粉をもう一度ふるいながら一度に加えハンドミキサーでしっかりとツノが立つまで泡立ててメレンゲをつくる、メレンゲの3分の1量を…」
千里は淡々と手順を読み上げた。
みくの可愛い字で、細々メモされているのは、どうやらシフォンケーキの作り方らしい。
「…ご苦労さん」
思わず溜め息が出た。
あたりはボウルの中身を泡立て器の針金が打ちつける音で埋め尽くされていく。気を抜くとその音で催眠術にかかり、テーブルに肘をついたまま寝そうだった。
「千里もつくろうよ」
「何で?」
こっちにそういう話をふってくるなと、彼女は全身で言っている。押し殺した寝不足の不機嫌も手伝ってけっこうな迫力だった。
「…」みくは自分が手で押さえているボールの中身を見た。ふっくらした卵白がだんだんと量を増していくが、音の輪廻にはまって、空間全体がぐるぐるに捻じ曲がる錯覚にとらわれた。
「…『イベントじゃないと何もできないなんて嫌』?」恐る恐る尋ねるみくの声。上目遣いで、じっと千里を見つめる。
「みく、あのね、それは」
慌てて言いつくろおうとする千里へ、みくはにっこりした。「大丈夫、分かってる」
手がだるくなって、一旦手を止めると、びっくりするほどあたりは静かになった。千里は何を言えばいいのか分からなくなり、俯いてカメラへかけているストラップを手で遊び始める。
みくは言った。
「毎日頑張ってるけど、明日…じゃない、今日は特に頑張るの。それでいいじゃない」
去年と同じで進歩がないなあ。
千里は自分をそのように反省したが、瞬のためになら無尽蔵のパワーを出せてしまう今村みくという人間に生物学的な関心を抱く。どうしてそんなことができてしまうのだろう。
全く分からない。
みくとは、やはり去年と同じく駅で別れて、それぞれ反対方向の電車に乗った。彼女は大きな荷物を抱えて都心へ向かい、千里は小さな紙袋を持って郊外へ来た。
去年と同じように、千里は川原で少年サッカーを眺めていた。風もなくてなかなか暖かい。遠くの橋の上を電車が過ぎる。水面がきらきらとウロコのように部分的に日を反射させた。
隣では耕一郎が、黒い手袋に頬杖をしていた。今日会おうと連絡を入れたのは千里だが、ここに来ようと言ったのは耕一郎だった。
「…眠い」
来る途中で買った缶のカフェオレを飲んだ。甘ーい温かさが染みて、先程まで一緒だった友人の笑顔を連想させる。ついでに、それを独占する権利を持つ友人の憎い笑顔まで思い出した。
瞬は幸せ者だー。――今頃ふたりはどうしてるだろう。
千里は親友の胸のときめきを想像して吐息した。私は頑張れないわ、やっぱり。
そして、結局巻き込まれるかたちでつくってしまった箱の中身を無造作に取り出す。その彼女の仕種を耕一郎は子どものようにじーっと見つめていたが、ふと
「…去年は肩が凝ったと言っていたな」と言った。
びっくりした。
耕一郎は、去年もここに来たことを覚えている。千里は彼を見上げた。「耕一郎、今日が何の日か知ってる?」
彼は飲んでいたブラックのコーヒー缶を口許から遠ざけて、でも視線はこちらへ寄越さずに
「バレンタインデーだろ」
と、どこか投げやりに答えた。
その答えで、去年の返答の含蓄まで読み取ろうとするのは千里の都合の良さだけだろうか。
彼との関係は、何かあるごとに節目がつくられて、更に成長を続けるような質ではない。それは分かっているし、変質することも望んではいない。
ただ、今耕一郎がくれた言葉に、変わらないこと――マンネリズムに陥ることの快感を見た気がした。
「食べる?」
ふわふわの一切れを持ち上げる。
客観的に見ると上出来なのだが、やはりこのケーキに纏わりつく事情を鑑みると、千里は顔に笑顔を浮かべられない。
それでも昨夜に比べれば、幾分優しくなれた。
「食べる」Fin.