Life goes on

 

1.

 開け放したままの天蠍宮の窓から見上げる空は、今夜も漆黒に無数の星を振りまいていた。ひとつひとつの区別も難しいほど隙間なく。
 視線を落とすと崖下へ続く階段の途中に建つ宮が、所々に燈火を掲げているのが見えた。隣からは大きな笑い声が聞こえ、それが童虎だとすぐにわかって、デジェルは日常に戻ったことを実感する。
 今日の昼に熱が下がったカルディアの様子を案じてここに来たが、そうする必要もなかったらしい。やんちゃが鳴りをひそめて眠っている。
 静かなものだな…。
 そう。昨夜のフランスの夜とは正反対の、安らぎを孕んだ夜だった。
 常に非常に晒される聖闘士である身だが、フランス滞在中に起こったことは、そのあり得なさを比較する対象すら思い浮かばない。
「…」
昨日は、師匠であるクレストを失った。そういう日だった。
 ――デジェル、泣いてるの…?
 肩口からきこえたセラフィナの声がまだ耳に甘く残っていた。
 その前に起こった幾多の衝撃の出来事よりもそれを先に思い出すのは、自分が、その衝撃を事実として受け止めかねているからなのだろうか。だとしたらあまりにも覚悟の足りない話だと苦いものが込み上げる。
 だが現実は、この今も、本のページを繰る指にもしっかり刻まれたままだ。頬に手を遣っても何かしらの傷に触れる。
 ――いいえ、セラフィナ様。
 彼女の問いには否定で答えた。事実涙は出なかったと思っている。そうかと言って喪失感がなかった訳ではない。
 何の根拠もなく、いつまでも師は健在であると思っていた。この先もずっと頼りにできると、それは無意識に、でも確実にデジェルの心のどこかで決まっていたことだった。
 出会った頃からクレストが老人であったのは事実だが、いつか自分のほうが先に死ぬとさえ思っていた。
 物理的には遠くても、海の向こう空の下に今の自分をつくった師匠が確かにいる。そう思うことを許されていた今までは、何と心強かったことか。その身体の幹が、今は外されてしまった。
 師匠が身を置く悠久の時間を、彼自身がどういう思いを抱えて過ごしていたのかなど考えたこともなかった。クレストはそういう弱みを他に見せないひとだった。しかしそれを理由にするのは都合が良すぎるだろう。気づけなかった自分の無邪気さを恥じるべきだ。
 要するに自分は、幼いのだ。まだ。
「ン――…」
さらりと衣ずれの音がして、思考が分断される。
 そちらに目を遣ると、寝台のカルディアが寒そうに身を捩っている。デジェルは、風が吹き込み始めた窓を閉じ、手元の本を閉じた。
 そして、このまま彼が眠り続けてくれることを願い、宝瓶宮へ戻るべく出口を振り返ったときだった。
 誰かがこちらに向かっている気配がした。
 小さく弱く、頼りないが故にかわいらしくも思えるほどの不安定さ。それでもあたたかくこちらに迫るそれは、デジェルが先日身体に刻 むように覚えたものだ。
 しかし、こんな時間に…?
 訪れの理由を不審に思ったが、それが誰かは間違えようもない。ドアに手をかけ、そして相手が扉を押す前にこちらから引いた。
「あ、あれ…?」
果たして、そこには灯りを携えた小さな女の子。サーシャだった。
 ――自分たちにとっては絶対の主。しかし今は、自動的に開いた戸に驚き、こちらを見上げて、自分以外の誰かがここにいたことにもびっくりしているだけの非力さを隠そうともしない子どもだ。
「デジェル?、どうしてここに?」
膝をつこうとするとその動作は、楽にしてくださいと優しく遮られた。
「カルディアの様子を見に参りました。この男の辞書には安静という言葉はございませんので、大人しく横になっているかと」
すると彼女は、にこ、と笑った。
「ふたりは、仲良しなんですね」
仲良し。――という尺度で、自分とカルディアを測ったことがない。そう言われて、この少女からはそう見えるのかと気づかされる。同時に彼女の感覚がまだ幼いままであることも。
 ただ、デジェルはそれに嫌悪を感じなかった。情勢が彼女の早い成熟を望んでいる今、おそらくそういう感覚ではいけないのだろうが。
「畏れながら、アテナ様は何故こちらへお越しになったのですか」
「デジェルと同じです。カルディアがちゃんと寝てるかと思って」
「供は連れていないのですか。シジフォスがこんな時間によく許し――」
言っているうちにサーシャの顔が苦しくなる。それでデジェルは事情を察したが、彼女の行動を軽はずみであると責める気には、やはりならなかった。
「お戻りの際は私に護衛を任せていただけますか。差し出がましくも、シジフォスへの申し開きの口添えもさせていただきます」
「ほんとう?」
「はい」
「デジェルありがとう…!」
一緒に謝ってあげようというだけで表情を明るくするほど、シジフォスは彼女に厳しく接しているらしい。人馬宮の前で腕組みをして彼女を待つ様子が目に浮かぶようだった。
 

To be continued. ??

 

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