AFTER “FASTEST DELIVERY”


2.

 明日退院だったのに。
 最後の一日に会いに行けなかったのは、当たりクジを誰かに譲る残念さに似ていた。
 それでも叫び出すまでには悔しくないのは、身体が睡魔にごっそり蝕まれているからだろう。おそらく万全な自分なら歯がみして喚き、地団駄踏んでいる。
 ミハエルを独り占めできるチャンスは、彼が野に放たれてしまえばそう多くはない。更に、従順にこちらの言うことを聞いてくれることなどは、言うまでもない。
 彼が子どものときのように邪気なく口を開けるのを思い出して切なくなった。形の良い唇、少しだけ覗く真っ白い歯。
 クランは、閉じこめられた彼が、徒然に女性看護師でも口説いているかと思い、だから毎回、怒鳴るための台詞を準備してドアを開けた。
 が、彼は必ず、眼鏡を外して静かに窓のほうを眺めているだけだった。
 昨日もそうだった。
「こらミシェル、横になっていないとダメだろう!、何をしている」
用意した言葉を慌ててすげ替えてクランが言うと、彼はすっと眼鏡をかけ、視線をこちらに据えて答えた。
「ああ、お前が来るの見てた」
「なっ…!」
この補正用の眼鏡を外せば、冗談ではなく本当に千里眼になってしまう彼だった。しかし、クランは彼がこういうことを誰にでもさらりと言えてしまうことも知っている。後者が素直な歓喜にブレーキをかけた。
「ま、またそんな適当なこと言ってお前は」
「いや、本当さ」
病院の敷地に入るところで躓いてリンゴを落としただろ、と、遠くの門のところを指さす。ほら、あのあたりで、と。それは当たっていた。
「!」
絶句したのが肯定の返事になり、彼は満足そうに唇の端を持ち上げる。
「じゃあリンゴむいて」
「でもこれは」
さっき落としたのを見ていただろうに。絶対赤い皮の下には、黒いあざができている。
「すりおろせば一緒だって。どうせそうするつもりだろ?」
「…」
全くこいつは、人の気も知らないで言う。こんなに浮き上がらせてどうするつもりなのだろうか。それがこの小さな身から感情がはみ出ていないか、心配になるほど だ。
 彼がこれをせがむ気持ちで言っているのではないと、全否定するのにどれだけ苦労することか。
 クランは呆れたような溜め息をついて、ミハエルを見上げた。
「早く」
言われて、じゃあ自分でやれ、と返す気がないのに気付く。この苦しく責め立てられるような心は、何もかもがミハエルのせいではない。
 自分が願っているからだ。
 
「カナリア、また、頼む…」
「何時までだ?」
「二十時…。今日は予定航路の偵察がある」
更にその後で大学の研究室に行かなければならないことは伏せた。
「お前の隊の当番ではないだろう」
「ああ」
現在ひとり欠けているスカル小隊がフロンティアの運行予定航路の偵察を行う際、ピクシー小隊から人員を割いて協力している。ふたりになったピクシー小隊が当番のときには逆もまた然りだった。
「ネネを行かせろ。寝不足のお前が行くことはない」
「今から寝れば二時間は寝られる…――いいのだ、私がやりたいのだから…」
返事が明らかに途切れて、カナリアがベッドを覗き込んだときには、安らかな寝息を立てていた。
 答えながら眠りに落ちたらしい。その寝顔を見て、カナリアは確信する。
 あの写真に写っているのは、やはりクランのようだ。



 LAIから技術提供を受けているSMSの装備のすべてにおいて、事故破損品、不良品が出た場合、それらは同社の品質調査部に送られることになっていた。
 LAIにとってのSMSは、大口顧客と有用な外部検証機関を兼ねた存在と言える。
 そうして自社製品を多角的に徹底調査分析することが、LAIの製品やサービスの品質を高め、同社があらゆる分野でナンバーワンのシェアを獲得し続ける技術力を支える礎となるのだ。
「ミシェル先輩、これ、LAIから預かってきました」
回収されたスーツとヘルメットについていた、ミハエルの私物と思われるものが入っているとのことだった。
 仰々しい強化プラスチックの平たい箱を、何も知らないルカは無邪気に差し出してくる。おそらくこの顔は、中身を見ていない。この後輩は表情で嘘をつけない。
 この箱には、明らかにSMSという組織とは全く関係のない写真が一枚入っているはずだった。そういう予測の下、ルカから死角になるように箱を開いてみて、ミハエルの心臓が軽く止まる。
「…」
ころん。
 と、シェリルが監禁されていた部屋で拾った薬が一錠入っているだけだった。
「えっ?」
入っていると思われたものが、入っていない。
 完全にアテは外れ、さすがに顔色が変わったらしい。
「先輩どうかしました?、もしかして何か足りませんか?、大切なものとか」
 大切なものとか。――大切なものとか。
「いや…」
心配する可愛い後輩に気の利いた返事もしてやれず、嘘もつけず、ミハエルは曖昧に笑って自室に戻った。
 どこをどう歩いたか、やっと我に返ったのは自分の後ろで部屋の自動ドアが閉じた音が聞こえて、だった。
 こんなに真っ白になって思考が停止する自分を、かつて知らない。
 こういう自分を知りたくない。自分にも誰にも知られたくない。早く切り替えたくて、まずはベッドへ身体を雑に投げた。
 写真でこうなのだから、もし本物が失われたら自分はどうなるのだろう。普段粗雑に扱っていたくせに、全く勝手なものだ。腕を目の上に持っていったが、口元は自嘲的に歪む。
 寝返りを打つと、頭が何かを潰した。
 起き上がって振り返ると、封筒を敷いていた。SMSのマークが入っている会社の事務用のものだ。宛名に自分の名前が書かれている。
 裏返すと、カナリア中尉の署名。さらりと美しい筆跡だ。しかしミハエルには、中身の見当がつかなかった。
 …もう治療費の請求か?
 このようなものをもらう心当たりが全くないが、まずは開封する。
「…あ?」
我ながら、間抜けな声が出たと思ったが、幸い同室のアルトは今いなかった。
 中に一枚、諦めかけた写真が入っていた。



 ――ミシェルはもう気付いただろうか。
 その写真はヘルメットの内側に貼られていた。
 意識のないパイロットから外したヘルメットが事故遭遇品としてLAIの回収がかかる前に、カナリアはそれをポケットに入れていた。社内規範に抵触する行為だという意識はあった。同時に、これくらいならば咎められまいという確信もあった。
 ゼントラーディの少女と、マイクローンの少年が遊んでいる写真。
 ふたりとも現在に繋がる容姿をしている。特に少女のほうは今も同じ顔だ。
 カナリアは、それを持ち主に返却する封筒に敢えて記名をした。
 そうしなければ、おそらくあの老獪とも言える少年将校は、体力回復の妨げになるほど犯人捜しに暗躍しただろう。彼ならば、それを知った者を突き止めるに違いない。
 そう思ったのは、普段の態度から見るに、このことは他人に知られたくない事柄のひとつだろうと察せられたからである。
 そうでなければ写真など、普段目に入る場所に置かなければ意味がない。ケーニッヒモンスターのデスクトップに我が子の写真を貼っている彼女はそう思う。眺めてこそ力になる。
 彼は、その写真に写るものが自分の力にならなくても良いが、形は欲しいのだろうか。それとも、誰かに知られるくらいなら自分の力になどならなくて良いのだろうか。
 果たして予想通り、ミハエル少尉が自分を訪ねてきた。カナリアと視線がぶつかると、らしくなく、すぐ目を伏せた。
「見つけたか?」
「はい」
物言いたげだが、切り出し方がわからないといった様子で、平素余裕ぶっているぶん滑稽に見えた。やはりまだ子どもなのだな、と経産婦である彼女は思う。
「私は何も知らないぞ」
「?」
「ただ、少しクランを労ってくれ。あいつはお前のことになると頑張り過ぎてしまうようだ」
 俺のことになると頑張り過ぎてしまう。
 どこかで聞いた台詞だった。そして、何度も聞いた台詞でもあった。
 だが今回、確かに彼女は言っていた。
 ――私だって暇じゃないのだ。
 それは、急な依頼を交わす口実ではなかったらしい。どんなに自分が彼女に無意識に甘えているか思い知らされる。
 カナリアから事情を聞いたその足で、ミハエルはクランの大学へ向かった。

To be continued.

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