A SNOWFALL AFTER THE FIGHT

 

 遠くにステージの灯りが見えた。
 真っ黒な港の水の中で、それは宝島のようにぽっかり神々しい。
 ミハエルの目はしっかり、その舞台の上に、自分が守れた者たちの笑顔を認める。
 良かった。
 素直にそう思えた。安堵の吐息が思わずこぼれたときだった。
「全く、無茶をするからだ」
 大きい分、表情がわかりやすい。いつものように覗き込まなくとも見える。
 怒らせた真っ青な瞳に、手のひらにこぢんまりと座るミハエルだけを映し、形の良い唇を真一文字に結んで。
 そんなに真剣に怒られると――照れてしまう。手に載せてもらうのが子どもの頃以来だという要素もその理由に、大いにある。
 だが何より、自分が生きているとわかったときの、彼女の表情の鮮やかな変化を目の当たりにしたからだ。
 ミハエルはわざと子どもっぽい口調で言った。
「だって、遠過ぎたんだ」
「だからってあんな目立つ場所から撃つなんて常軌を逸している」
大きなクランの話し方は、小さなときとは比較にならない知的さで、ずばんと批判をかましてくる。
 頭に血液が集まってさきほどまでふらふらしていたミハエルだったが、それも軽減した今では、彼女は心配するのをすっかりやめてしまっていた。
「だって、見やすかったんだ」
「確かにな」
ミハエルがてっぺんにバトロイドで乗り付けたベイブリッジの主塔は彼もろともバジュラの攻撃を受け半壊している。純白で、すっきり洗練された印象だった吊り橋は、今はその面影もない状態だ。
「だが、お前から見やすいということは、相手からも見つけやすいということだ。ただでさえお前は接近戦向けの装備ではなかったのに。寄られたらどうするつもりだったのだ」
頭にまとわりついているだけのヘルメットを外す。
 そんなことは言われなくてもわかっていた。狙撃を生業としている者にそれは、遥か昔、地球の日本で言うところの、釈迦に説法というやつだ。
「…寄られたからこのザマなんだろうが」
自嘲気味に笑って、切れた口元を拭う仕種にクランは涙が決壊しそうになる。
 ミハエルは、海風が吹いてくる方向を向き、その冷気に汗と血で汚れた金髪を晒した。
 全く涼しい表情だった。こっちがどれだけ心配したかわかっていない。彼の、満足げに細められる目に、あのとき感じた自分の胸の痛みはどうしても届かないのかも知れないと思う。
 それでも、言わなければ気が済まないとばかり、クランが一矢報いるための小言に深く息を吸い込んだときだった。
「クラン、お前は褒めてくれないのか?」
「は?」
聞き返すと、彼は胡座した膝に目を落とした。明らかに視線を逸らしているとわかる。
「説教なら隊長から聞くさ」
少し拗ねた声。
「…ああ」
言葉の意図をクランが理解したとき、彼と彼女の間に、ふわりと白いものが割り込んだ。ゆっくりと重力に引かれるそれに、ふたりは思わず寄り目になる。
「何だ?」
「――雪、か…?」
それは次から次へと絶え間なく降りてくる。艦のすべてを埋め尽くし、濃い群青の空が、瞬く間に絣模様となった。
「あそこに天井が破れたままの場所がある」
環境管理系統のシステムがダウンしているのかも知れない。巨大な天蓋に、小さいが穴があいているのを見つけた。本来であれば、補修アプリがすぐさま修復してくれる仕様だ。
 その穴から宇宙空間へ大気が流出し、代わりにマイナス270.42度が急速に船内に流入しているのだろう。そのためアイランド1の上空大気中の水分が――ミハエルは無意識に理由を考えていた。
 だがクランはおおらかに、うっとりと言っただけだった。
「きれいだな…」
彼女の長い睫毛に、羽根のように軽く雪がまつわる。その様子に、素直に同意する気になった。
 きれいなものを、そのまま受け止めること。
「ああ、そうだな」
昨日までの常識など、もうこの世界には通用しない。
 この仕事を選んでから、こういう日が来ることを何度シュミレーションしたか知れないが、客観視の訓練をいくらしたところで、無意識に固定化した価値観はじゅうぶん揺るがされていた。
 その中でただ目の前で起こっている現象を認めるということ。
 そういう感覚的なことが、これからはあらゆる局面で大切になるのかも知れない。――あの彼女たちの歌に鼓舞されたように。
 そして、身に染みついていたはずの鉄則を飛び越えさせたように。
「ミシェル」
不意に、瞬きの後で、優しく見つめられた。
「うん?」
「よくやったな」
全身で視線と声を受け止めて。
「…ん」
望んだことだがやはり、目をまともに見られなかった。一応、胸だけは熱くしておく。
「だが、あんな思いはもうさせないでくれよ」
 先の、涙と笑顔の早変わり。全部自分だけに向けられたものだ。
 その言葉に、約束はできるだろうか。
 クランの足下には、数時間前まで自分が操っていたはずのバルキリーの残骸。統制された美しい街並みだったはずの場所からあがる煙。どこからか漂う、焦げたような臭い。
 それらを柔らかな白が触れて慰める景色。一方で、突然に現れた非常識の産物を覆い隠そうとしているようでもあり。――
 だが思う。
 許される限り、眺め続けたい。
 おそらくここでは二度と見ることのない、降雪の風景を。
 そして、それを愛しげに瞳に映す彼女を。
 だから、今は理屈抜きで。

「わかった」

Fin.

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