BEFORE “FASTEST DELIVERY”

 

 まだ人類のすべてが地球に住んでいた頃から存在する、童話と呼ばれる類のフェアリー・テイル。
 クランも幼い頃、母からそれらの話の絵本を読んでもらったものだが、魔法が作り上げたその世界をすんなり素敵だと思えなかった。それどころか彼女の生きている現実が理想を押しつけてきて苦しめられることになった。
 何故か、必ずお姫様は素敵な王子様と出会い結ばれる。その偶然性が既に怪しく思われたが、更にクランの理解を越えていたのは、挿し絵のお姫様は――いや、その彼女を愛することになる王子様は、絶対にお姫様より背が高いということだった。
 それは絶対、だった。例外はなかった。
「うーん、それがどうかしたの、クラン?」
ある日それを、幼なじみのミハエルに話したところ、彼にとってはそのことより、それを不思議がるクランのほうが不可解だったらしい。
「どうかしたのって…」
ミハエルはこじんまり、クランの膝の上で答えを待っている。夕暮れが近づいて傾けられたフロンティアの人工光が、色の薄いミハエルの金髪を明るく照らしていた。昔から、つくりもののようにきれいな子だった。
「そんなに不思議?」
この世界で多数派サイズの彼には悩みにならない事柄かも知れない。あまりにも同意が得られそうにないので、クランは話題を変えようと息を吸い込んだ。しかし、
「ねえクラン」
不意にミハエルがくりん、と上を向いた。
「あ、ええと、何だ?」
「このままじゃムリだけど、マイクローンのクランよりは、僕そのうち大きくなるから」
クランの王子は、彼女の膝の上でにっこり、一本乳歯の欠けた前歯を見せて笑った。
「えっ?」
「だからクランは、そのままで待っててね」
 遠くでクランの母と、まだ存命だったミハエルの母が談笑する声が聞こえていた。お菓子の焼ける甘いにおい。もうすぐシフト交代の時刻で、それぞれの父親が帰ってくる。
 日だまりには、自分とミハエル。
 それだけしかなかったのに今思うと、この上なく幸せな午後だった。

 そのままで待っててね。

 自分の身体は待っているというのだろうか。
 クランは論文を綴っていた端末の蓋を閉じた。結論はわかっている。仮説を否定するだけの材料だけは揃っていた。



「ランカちゃん――ごめん、アルトじゃなくて」
言うと、光に満ちた表情が一転した。
 ああいう顔を前にも見たことがある。
 いつどこで、だったのか?
 ガリア4へ慰問に向かうシェリルの護衛が、何故か政府から秘匿事項に指定されたため、アルトは事前にランカへ連絡することが不可能となった。そのため、彼が旅立ってから「アルトはここに来ない」と告げる悲惨な役目をミハエルが負うことになったのだった。
「ただいま、っと…。まぁ、またすぐ行くんだけどね」
ひとりで言って、鞄を寝台へ載せる。
 アルトの誕生日に関して、自分はどこまで世話を焼く運命にあるのか。
 いや、アルトの、と表現するには既に語弊があるところまでランカの面倒を見ている気がする。
「…」
ロッカーを開けると、そこには鏡。見慣れた自分の姿は姉と同じ髪の色、瞳の色。それがこちらを見つめていた。
 ミハエルは制服のネクタイを解いた。鏡に映る自分と目を合わせたまま、ワイシャツのピンホールからピンを抜く。
 鏡の中に姉がいて、思い出した。
 ――あの顔は、姉さんだ。
 非番の日。会えない日。自分以外のよすがに、好きな男が縋っているとき。
「そっか…」
比較して結論づけるのは申し訳ないが、ミハエルは初めてそのとき、ランカの気持ちが本物なのだと思えた。
 届けてやる価値はある。



 クランは隣室を覗いて、宇宙服の準備があるのを確認すると、ランカをそちらへ促した。
「じゃあ、中にある宇宙服に着替えてくれ。何かわからないことがあったら申し出るように」
「は、はいっ」
言われるままランカが隣室へ入る。見届けて、クランはドア横に寄りかかった。
 おろしたばかりのニーハイのソックスに包まれた自分の細いだけの足が見える。ゴムにぐるりとあしらわれたレースが可愛らしくセクシーに見えなくもないが、自分が履いているとこの上なく幼稚な仕上がりとなっているだろう。
 少しだけ、今取り組んでいる論文の結論を思った。
「…ミシェルのばか」
彼女はその憎々しい幼なじみに言いつかって、先ほどまでランカにフライト上の注意事項を説明していた。
 ランカが宇宙服に着替え終わったら格納庫まで案内し、そこでスピーカーとホログラム投影機を搭載し終えているはずのVF-25Gで音を流し、リハーサルをさせる段取りだ。
 このクランの仕事のギャラは、果たされるかどうか怪しい約束だった。
 今から三十分前、ミハエルがいつものことながら、大尉に少尉がものを頼む態度とは思えない横柄さで言ったのだ。
「お前ももう知ってるだろ、ガリア4の件。あの要求にランカちゃんを連れて行くから、彼女にフライトの準備してやって」
ランカちゃんてオズマの妹のか?、というあたりから問い質したかったが、とりあえず
「何を言うか、私だって暇じゃないのだぞ!」
と、ぷんぷんしてみた。いつもであれば黙って言うことを聞くのが癪で言うことだが、今回は本当のことだった。――SMS社員の勤務評定会議と、大学の論文発表が重なって迫っていた。彼女は一個小隊を預かる隊長であり、生物学を専攻する大学生だった。
「頼むよ、ほら、長旅の準備を男の俺がしてやったんじゃ行き届かないこともあるだろうし、宇宙服着せないといけないし」
 行き届かない男はモテないものだ。だがお前はそうじゃないだろう。
 クランは精一杯視線で抵抗した。
 ナチュラルにやってのけ、本人に自覚がないのがまた始末に負えない。
「むうー…」
考え込んだら半ば了承したことになっている、ということに気づいていないのはクラン本人だけだ。ミハエルはとどめを刺しにくる。
「おごるよ、今度。お前がこないだ言ってた、渋谷のカフェのアップルパイ。約束」
な?、と、手を合わせて片目を閉じる。
「…」
確かにに先日、ミハエルと一緒にいたとき、携帯サイトでおいしそうなアップルパイの写真を見て、渋谷かぁ、今度行ってみよう!、と小さな独り言を言った。
 それだけの呟きをミハエルが覚えていてくれた事実は嬉しかったが、その一方、お菓子で自分を釣ろうとしている彼の浅はかな企みを蔑んだ。彼が誰にでも見せる優しさは自分には発揮されない。
 一応、せめぎ合ったふたつの感情。一応、心は戦ったのだ。一応、一旦は。
 しかし、
「頼むよクラン。な?」
ぐっ、と了承の側に針が大きく振れてしまった。
「ま、まあ、い、いいだろう。それくらいならできないことはない。任せておけ」
 ――自分がそう答えてしまったところまで回想して、クランはあらためて溜め息した。
 自己嫌悪。こんなだから、わかりやすい、と言われるのだ。絶対確信犯なのに、どうして自分は了承してしまうのだろう。
「あ、あの…」
ドアを薄く開けて、遠慮がちにランカが顔を出していた。「着られたんですけど、これってこんなにキツいんですか…?」
「どれ?、見せてみろ」
確かに張り付くような素材だが、そんなに窮屈でもないはずだった。肩を縫製のラインにうまく合わせられなかったらしく引きつっている。クランは少し背伸びして、服の合わせ目を一度開き、襟元を引っ張った。その中にランカを大切にしまい込む。
 まるで種子か、サナギ。
 成長のポテンシャルを身体に漲らせている。彼女は、これからも身長が伸びるかも知れないし、胸も胴も腰も女性らしく成長するのだろう。
 そして、それを尊いことだと思うことはないのだろう。
「どうだ?、まだ変わらないか?」
「あ、今は大丈夫。ありがとうございます」
 果たしてその宇宙服の薄い皮の中に、伸びしろの期待できる身体はぴっちり詰め込まれた。そして臨界を越えた彼女の想いはあたりに飽和していた。触れたら、針で突いた風船のように爆発するほど気持ちを膨らませて。――
「よし。では行こう」
「はいっ」



 ミハエルは、できることなら飛行二時間前までには食事を済ませるようにしている。飛行中嘔吐した場合に吐瀉物が気道を塞ぐのを防ぐためだ。
 ランカの準備はクランに任せたので、慌ててゼリー飲料を飲み下すのではなく、もう少し人間的な食事が摂れそうだった。と言ってもせいぜいが、娘娘の銀河ラーメンなのだが。
 格納庫のロフト部分から、居並ぶ戦闘機を眺める。ルカがLAIから調達した新型フォールドブースターをVF-25Gへ積んでいるのも見えた。愛機は、赤いリュックサックを背負った青い鳥になっていた。
 ベンチに座って携帯のタイマーを三十分後に設定すると、出前のラーメンを待つ間に傍らに置いた端末で今回果たすべきミッションをおさらいする。あらためて見ると、意外と初物や珍しいことが多い。
 新型フォールド機関、主翼下にスピーカー、ホログラム投影機を搭載した機体で。
 同乗者を乗せ、アルトと合流するまで単機で、大気中を飛行する。
「そうだ、大気な…」
 ガリア4には大気がある。
 それは要するに空である。あのアルトが焦がれてやまないもの。
 しかしアルトでなくてもパイロットなら本物の空に興味があって当然だ。ミハエルもその例外ではなかった。
 大気か…。
 ミハエルは先週の、アルトとシェリルの遣り取りを思い出していた。
 ――なによアルト、あんた誕生日なの?
 ――まあな。
 今回出発に際してアルトがミハエルにそうと言った訳ではないが、シェリルサイドが慰問の護衛にアルトを指名してきたことはサプライズプレゼントの仕込みだったようだ。
 アルトへの誕生日プレゼントは、空。
 好きな男が一番欲しがっているものを用意する。しかもそれはシェリルにしかしてやれないこと。ランカには到底できないこと。
シェリルの自己演出能力に感心するしかなかった。
「あいつは、ほんっとに幸せ者だなぁ」
そして、空を贈り物にしようとした可愛らしく傲慢なその心を、やはりランカの気持ちと同様に愛おしいと思った。
「先輩、出前来ましたよ」
ルカが岡持ちを持って上がってきた。この所帯じみた銀の箱がここまで似合わないのも珍しい。出前を持ってきたのがナナセだったのか、顔がやに下がっていた。



 緊張のあまりか、沈黙は悪と思っているのか、格納庫までの道でランカはよく喋った。
 彼女は、自分が最後に宇宙に出たのはたぶん十年前だと言った。察するに、オズマに連れられてフロンティアに来てから外に出ていないということだろう。
 着替えの前にクランが今回の飛行について説明をしたときには、一言も聞き漏らすまいと息を凝らしていたが、フライトの間は彼女が座る補助シートが低温状態になり、寝ている間に移動が済むと教えてからは少し寛いだ気分になったようだ。今も、本当に良かった、私、フォールド酔いがひどくって、と笑った顔は愛らしく、こちらを和ませる。
「ミシェルくんと、ルカくんに感謝しなくちゃ」
「何故だ?」
「ふたりのおかげで、明日アルトくんに、お誕生日おめでとう、って、やっと言えます」そのチャンスをくれたのがふたりだから。
 現在のフロンティアの位置からガリア4の間には深いフォールド断層がある。客観時間は七日も経過しており、アルトの誕生日は既に先週の出来事だ。タイミングとしては遅すぎる感は否めない。
 それでも、伝えたい。伝えることができて嬉しい。
 伝えたいのは、おめでとう、という祝いの言葉ではない。ずっとおめでとうと思っていたということだ。
「そうか」
伝えるというのは、自分の想いの丈を知らしめることだ。何とエゴの強い行為だろう。相手の意向などお構いなしである。実際ランカは、構っていないに違いない。
 ――それに、ミシェルがランカを運ぶのは、別にそれだけのためではないのだがな…。
 今のランカには、ガリア4での事件は意識の外のようだった。
 もし彼女が、反乱鎮圧の取引材料という自分の立場を思い出すことがあるとしたらやはり、それによってアルトが解放されるという希望と一緒に、だろう。
 好きなひとに、何かをしてあげられるだけで嬉しい。してあげたくて仕方がない。
 それは、ともすると、独りよがり。
 しかしその全く独善的な図々しさが、ひとをスキになるということだ。
自分もそうだったな、とクランは寂しく思った。まだ彼女とミハエルの成長速度が同じだった頃、彼のために行う行為すべてにおいて衒いはなかった。
 今の自分は敵前逃亡している。
 してあげたいと思うし、してあげられたら嬉しいだろうが、ミシェルはどうせ喜ばないのだと思うと二の足を踏んでしまう。きっと、同じことを、私ではない、誰か他の美人にされたら嬉しいのだろうなあ、と思ってしまったらもう踏み込めない。
 我が儘を許容されれば、めでたく両想い。
 拒絶されれば――。
 それは退路を断ってまですることなのだろうか。幼なじみというエスケープゴートを失ってまで。
 いつもそこまで考えて、行き詰まってやめてしまう。
「あ、ランカさん、こっちです」
格納庫に入ったところに、ルカが気を利かせて立っていてくれた。
「じゃあ、私はこれで失礼するぞ。ランカ、ミシェルが一緒だから大船に乗ったつもりで行け!」
「はい、ありがとうございます」
こうしてランカをルカに引き渡すと、クランは金髪のパイロットを捜した。機体のそばにいるかと思ったが、なかなか見あたらずきょろきょろすることになった。
「クラン大尉、先輩は上にいますよ」
「わ、わかった」
捜していると言っていないのに声がかかったということは、またわかりやすさを露呈したようだ。
 カツンカツン、靴底で金属音を鳴らしながら階段を上がると、機体の部品のスペアが散乱しているその先で、ミハエルが左手にラーメン丼を持ち、行儀悪く、口と右手で割り箸を割ろうとしているところだった。
 彼はクランに気付くと、身体の横にひっくり返して置いていたヘルメットを、自分の足下に伏せて置いた。
「座れよ。ランカちゃんのことありがとな、ご苦労さん」
ぱきんと箸を割る。感謝の言葉はそのついでのように軽々しかったが、クランはやはり動揺した。
「あ、ああ」
「あと、太鼓判も」
「へっ?」
「『ミシェルが一緒だから大船に乗ったつもりで行け』」
天井から下がっているモニタに、ランカがルカから何やら説明を受けているのが映っていた。それでミハエルは自分を見ていたらしい。
「そっ、そそそそそそそ、それはだなっ」
「それは?」
ちらり、とクランはミハエルを見た。ミハエルが思いがけずこちらを見ていて心臓が跳ねる。答えを待っている顔だった。
「ほんとのことを言ったまでだ。ランカは戦闘機など初めて乗るだろうから、お前は、う、腕は――腕だけは良いからなっ、安心材料が多いほうが良いと思ってっ」
だけは、に殊更力を込めたが、ミハエルは満足したらしい。にやにや口元を笑わせている。
「ミシェルお前っ、民間人を乗せて行くのだぞ、心してかかれよ」
「それは言われなくても」
答えて、麺を手繰り始める。クランはその隣に座った。
 格納庫の天井に、空間が足りなくて展開し切れないホログラムが、映画のスクリーンよろしく投影され、「星間飛行」の前奏が始まった。ランカが恥ずかしそうに微笑んでいる。
 驚愕とも歓喜ともつかない声が格納庫の各所であがった。
「お、始まったな」
ふんわりと場違いな醤油の香ばしい香りが漂う。銀河ラーメンは今日も素晴らしい渦を巻いていたが、ずるずる、その渦は壊されてすすられる。
 ミハエルは最近、箸の持ち方が変わった。以前もそんなにひどくなかったが、箸文化の中で育ったアルトに矯正されたらしい。この間、少し嬉しそうに言っていた。
「なあミシェル?」
「うん?」
ランカの歌が大きく流れている中なので、少し身体を倒してクランの声を傾聴する姿勢になる。
 肩に、青いパイロットスーツの腕が触れた。急に激しく通電した小さな胸を、彼女はそっと手で押さえる。
「お、お前は、ランカの味方なのか?」
「いや、俺がランカちゃんかシェリルのどちらかだけを応援するってことはないよ」
意外なほどすっきりした答えだった。そしてたぶん、これはランカが想像もしていない答えだろう。
「機会は平等に与えられるべきかなと思っているだけさ。最終的に決めるのはアルトだとしてもね」
クランはミハエルの横顔を見上げた。その機会というのは、自分にも均等に与えられているのだろうか。
「だから俺は、その時々で形勢が不利なほうに手を貸すよ」
「…ふーん」
 ―― その手は、いつか自分に差し向けられることがあるだろうか。
 ふたりの間は、ランカが紡ぐ恋心で満たされ始めた。このままでは甘い言葉の海に溺れてしまう。
 素直で、迷いもない、どこまでも届きそうなランカの歌声が、きらきらした舞台効果用のネオンが、自分の想いにまとわりつく濃い影を浮き彫りにする。
 苦しい。
 ミシェルと同じ時間の経過を、この身で感じたいだけなのに。
 もしそうできるなら、その後にどんなことが待っていてもいい。この、最大最強のリミッターを解除できるなら。

 ――クラン君、これ以上やっても結果は同じだと私は思うが、まだ続けるつもりかな?

 知っている。もう何年も前から知っている。
 心を全開にできない訳がそれだけではないことも知っている。そして、それを、彼にしてあげたいことの半分以上を我慢する理由にしていることも。
「デカルチャー…」
小さな唇が溜め息混じりに呟いた。
「何言ってんだ、そんな前時代的な」
笑いながら右斜め下を見ると、ぴかぴかの蒼い前髪の向こう、大きすぎる目の縁で水面が持ち上がっていた。
 曲は少しスロウ。
 クランがぱちり、と瞬きすると、ぽろん、と音が聞こえるようだった。透明な真珠のような涙が、ストロボ効果のような残像を見せて落ちる。
「お前、どうした?――」
その声に彼女の身体が弾かれた。
「違う、これは…、違うのだ!」
何が違うのか。その先に続く言葉が見あたらないまま、階段に向かって走り出している。
「おい、クラン!」
きっ、と立ち止まる。手が白くなるほど拳を握りしめて。
「こっち来い」
振り返る。長い髪の毛が一瞬ふわりん、と身体に巻き付いて、そして解ける。
 眉は、ハの字。
 何て顔するんだよ、こんなときに。このまま離れて行かれては困る。ミハエルは彼のできる最高に優しい声音で言った。
「おいで」
む、と口は、への字。
「…」
「来いって言ってるだろ」
「むー…っ」
てくてく、クランがこちらに歩み寄って正面に立った。俯いて、ぐっと拳骨で目を拭う。
「あーん」
ミハエルは、箸でチャーシューを持ち上げた。
「バカっ」
女の意に染まぬことをすると、男はみんなバカということになる。このことを経験豊富なミハエルに教えたのはクランだった。もちろん彼女が意図してではない。ミハエルだけがそう思って、言われることを楽しんでいる。彼女はそんなことを知らずに、ただ怒るだけだ。
 彼は、彼女以外の女性にはバカと言われるようなことをしないというのに。
 機嫌悪い顔だが、それでも渋々クランが口を開けた時だった。ミハエルの携帯が飛行二時間前を知らせて鳴った。
「むーっ。子ども扱いの上に、時間切れだからか!」
それとも、今といい先ほどといい、まずは餌を与えておけばいいと思っているのか!
「ちーがーうーよ。クラン、お前は被害妄想過ぎだ」
子ども扱いなどとんでもない。もう子どもの顔をしないくせに何を言うのか。
「じゃあこれ食っちまうぞ」
「あーっっっ!」
クランが結局は箸に噛みついてきて、ミハエルはチャーシューを口に入れてやり、ほんの少し安堵して丼と箸を置いた。
 しかし、彼がグローブをはめている間も、まだクランは正面の位置に突っ立ったまま目をこすっている。髪の毛が地面に着きそうなくらい、くたりとしていた。
「クラン」
溜め息して。
 腕をもがれても泣かないと思われる彼女に、泣いている理由を訊いても話してくれないだろう。
 黙ってクランの頬を右手で包んだ。ぎょっと目を見開くのが可愛らしい――とは、絶対に口が裂けても言わないが。
 グローブ越しで今は感じなくても、その手触りがすべらかで温かなのは知っている。
 薄い頬の中で彼女の小さい歯が一生懸命動いているのを指先で感じる。実に愛おしい幼い仕種。しかしクランは、冷や汗と赤面の中、それでも大人がするアンニュイな影を瞳に浮かべてこちらを見下ろしていた。そこに平素の無邪気さはない。
 戦友でもない、幼なじみでも――もちろん子どもでもない、今まで自分が彼女をそうとは扱って来なかった何か。
 彼女以外の女はやすやすとその範疇に入れている自分を彼女は許せないのだろう。
 それは知っている。
 でも、誤解だ。
 そのカテゴリは、自分が本当に大切なものを分類したい場所ではない。――おそらくクランが思うほど居心地が良いところでもない。ただ、  そこにいる者たちは納得して入ってきただけなのだ。
 お前の位置にはお前しかいない。
 そうと言えたら楽かも知れない。しかしそうできずに、勝手過ぎる虚飾で己を満たしている自分にはまっすぐ過ぎる目が痛い。
「お前も兵隊ならわかるだろ」
もしかすると望む通りに扱われないその外見を憎んでしまうかも知れない純粋さで、どうかそうして欲しいという願いが込められたこの眼差しを、いつまで無視することができるだろう。
 今に始まったことではなく、揺すぶられていた。
 だから今は、それに応えるために言葉に少しだけ真実を込める。頬に手を載せたまま、親指でまだ濡れている下睫毛をなぞった。
「これから行くってときに、理由がどうあれ泣いてくれるなよ」
またクランの目が揺らいで、大きな目から大きな滴が落ちた。
 咀嚼して、やっと嚥下する。
「ぐっ…」
しかし代わりに涙声を噛みしめる。
 何故そんなことを言う?
 彼の瞳に誠実さを見つけようとしている自分が情けなかった。どうせ見せてくれないのに。その翡翠色の瞳の奥を、ちらりとも覗かせてくれないのに。
 小出しにするな。して欲しいことを少しずつしないでくれ。
「ミシェル…」
 言いかけたのへ、彼はわざと言葉を被せた。「チャーシュー、美味かったか?」
「!、ミシェル、お前は――」
そのとき、くわん、と一発、強烈なハレーションが起き、クランが抗議を中断して顔をしかめる。
 格納庫を包んでいたランカの歌が急速に萎んでいく。
 お兄ちゃん、と泣きそうな声がして、ポップなメロディが歌なしで流れた。ランカに何があったのか容易に想像できる。
 フォールドアンプで拡幅されたオズマの詰問口調が格納庫いっぱいに広がった。ミシェルくんが…と、か細い声でランカが言い、一拍置いてミハエルの携帯が鳴った。画面からはガイコツの3D。
 ミハエルが苦笑してクランの頬から手を離した。
 全くいいタイミングです、隊長。
 このまま触れていれば、お互い魔法がかかってしまうところだ。不幸な形で彼女を縛ることになる魔法。
「悪い、丼返しておいて。俺、これから隊長に怒られてそのまま出ることになると思う」
立ち上がり、ヘルメットを左手で肩に担ぐ。彼の睫毛が揺れるのをクランは見つめた。
 だから、そこに名残を惜しむ感情があると思おうとするんじゃない、私。
「…ん、わかった。大いに感謝しろ」
「はい、感謝いたします、大尉殿」
しかしミハエルは階段を下りる手前で振り返る。
「じゃあ、一週間後空けとけよ」
「?」
何のために?
 きょとんと見返したのへ、ミハエルがちょっと意外そうに眉を上げた。
「もう忘れたか?――まあ、きっちり一週間じゃ戻れないかも知れないけどな」
「あ…」
彼女が思い出したのを確認して、背を向けて右手でいつもの挨拶。
「じゃ、行ってくる」



 ミハエルが言ったとおり、彼はそのまま出発することになったようだ。
 モニタに、ミハエルのメサイアがデッキに押し上げられる様子が映った。クランは、ミハエルを見送ったロフトからやっと下りた。
 彼の背中が見えなくなってからずっと、左頬に手をあてて考えていた。
 いつからミハエルが自分に向けてくれる善意がすべて信じられなくなったのだろう。
 気まぐれに過ぎないことでも、守ってくれる意志を見せてくれただけでも良いではないか。―― そうは思えたが、やはり物足りない。 自分も何もしようとしていないのに。先送りにしているだけなのに。――
 クランは基地から外に出た。
 今日予定していた作業は全く進んでいなかったが、このままそれらに着手する気にもなれなかった。
 あたりはもう暗い。フロンティアの天蓋は何も映さず、宇宙を透かしている。
 彼女の背後から、青い機体が宇宙へ飛び込んでいく。排気炎を大きくあげた後、機体は急上昇した。
 フォールドの環が花火のようにひとつ、夜空に広がった。
 美しい、光の同心円。
 その中心に流星が吸い込まれた。
 

Fin.

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