IN THE NAME OF FLOWERS

 

 姉の墓石の前に、一輪、花が置いてある。
 花の首には、水色の細いリボン。
 幾重にも花びらが重なったまん丸い花だった。
 色は、真っ白というより、ふっくらしたクリーム色で、花弁の先がほんのりピンクに滲んだようになっている。茎は濃い緑でまっすぐだ。
 この花を置いた者の見当はついていた。
 ほぼ、間違いなくクランだろう。彼女はけっこう頻繁にここへ来てくれている。
 しかし彼女と示し合わせて一緒に来たことはなかった。ただ、遠くの木陰に隠れていることもあるので振り返ってみたが、今朝はいないようだった。
 ――また来るよ。
 ミハエルは、持参した薔薇の小さなブーケのひとつを一輪だけの花の横に置くと、この墓地の管理人に聞いた別の墓石を探した。今日は姉のほうは、ついでだった。
 公営のこの墓地は、少しずつ放射状に拡大している。フロンティア船団が新天地に辿り着くまで、この石のモニュメントは数を増やしていくのだろう。
 その石の群れの、最も外側の位置に目的の墓石はあった。
 やはり花が一輪供えてあった。
 水色のリボンが結んであり、姉の墓を訪れた者と同じ人間の仕業だろうとわかるが、花の種類が違った。
 細かな赤い斑の入った黄色い小さな花。それが細い茎に鈴なりについている様子は、少し大人しめの雰囲気だが、色はとてもエキゾチックだ。
 なんとなく、故人の褐色の肌と細身の身体を思わせる。
 クランはおそらく、彼女たちに似合う花をそれぞれに選んだのだろう。がさつな普段の態度からは想像できない意外な気の利かせ方だ。
 ミハエルはそんな思いつきができない自らを恥じた。
「すみません、芸がなくて」
そっとまた、小さな花束を置いた。先に姉の墓に供えたのと同じ、薔薇とかすみ草の組み合わせだ。
 売っている花の中に、名前を知っているものがほとんどないため、これが唯一、彼が店で注文できる花束だった。――野の花なら、小さな頃に幼なじみにたくさん教わったのだが。
 朝日が墓石の肩に、真っ白な日だまりをつくっていた。見慣れた光景だ。
 ミハエルが今立っているのは、ララミア・レレミアの墓前だった。
 特別親しい訳でもなかったが、クランを間に挟んで軽口をよく言っていた。ミハエルが一方的に喋って、彼女が相づちを打ったり、言葉少なに短く否定したり。
 しばしば彼がクランを軽んじるような発言をすると、むっとした感情を込めた視線で睨めつけてくる。それで、クランがどれだけ部下に慕われているかを知ったりもした。
 もう彼女が自分の前に現れることはない。
 クランをいくらからかったところで、仲裁に来てはくれない。
 それは、彼にとっては涙が出るほど悲しいことではなかった。
 ただ、心が鈍重な灰色の何かに埋め尽くされる。
 この何かは、いつも突然やってくる。しかし、突然去ってくれることはない。



 去ってくれないことに対しては、成功体験で上書きするしか浮上はないのだろうか。
 戦闘機を生身の手足のごとく操るまでには、墜落まではいかなくとも、それに近いことをどうしても経験することになる。これは不可避だと言ってもいい。
 その体験自体を目的とした訓練であったり、自分のミスでそれを招いたりと、至るまでの過程は様々だが、どんなに度胸がある者でもその経験を放置すると、身体に恐怖が刻まれる。
 それが一生消せない疵とならないよう、そのような場合は、可能であれば事故体験の直後にコクピットに戻される。
 そして、死ぬ一歩手前まで自分を引きずり込んだ空を、また飛ばされるのだ。
 アルトはどうか知らないが、ミハエルも、たぶんルカも、そうやって技術への厳しさを自らに叩き込んだ。
 ただ、普通のパイロットと明らかに異なっているのは、彼らは常人が経験する年齢よりもずっと幼い頃に、意図しない通過儀礼としてそれを済ませてきたということだけだ。
 クランの操るクァドランが、漆黒の中で妖しい気焔を吐き続ける。実に活き活きとした動きだ。
 いつもと何ら変わりのない、光が引きずられてしまうような敏捷性に富んだ動作。
「…」
それをスコープ越しに遠くから見て、何故だかミハエルは思い出していた。――無理矢理乗せられた棺桶のような狭い空間から、まだ涙の溜まった視界に無数の星が見えたことを。
 それを綺麗だと思えた瞬間、自分は大丈夫だと確信できた。まだ飛べると。
 同時に、これが契機になって挫折する者もあるだろうと想像し、自分は絶対にそちら側の人間になってはいけないとも思った。
 生きていくために、死に近づかなければならない。彼は知らず知らずにアンビバレンツを内包する存在になっていた。――
「ルカ!、後ろッ」
苛つくアルトの声。彼は既に、翼に被弾した判定を受けている。
「わかってます…!、あ――」
ルカの後方モニタは、おそらく赤い機影の肉迫するのを捉えただろう。
「獲ぉった」
大人の女の声が低めに響いた。全く嫌いではない。しかしミハエルの本能とは別に、理性は思い切り舌打ちする。
 ルカの機体を護衛しようと健気に集まったゴーストをかわして、真っ赤なクァドランのミサイルポッドからは情け容赦のない無数の模擬弾が放たれた。
 ミハエルは、その赤い影が、ミサイル発射の衝撃でふわりと減速したところを撃ったが、勿論彼女は彼のそんな姑息さには気付いていたようだ。再加速し、くるりと美しい弧を描いて標的は遠ざかる。
「――くそっ」
舌打ち、二度目。
「残念だったな、ミシェル?」
半笑いの、まるで吐息が耳にかかるような挑発だった。
「ああ、全くだ」
 当たれば、もうやめさせられたのに。
 屍を越えて征く覚悟を彼女が自身に問うような行為を。
 姉が死んだ後、自分以外の世界が何も変わらなかったように。
 その変わらなかった世界のほうへ、クランが自らを組み込むのを。
 ミハエルはもう一度ライフルを構えた。目を凝らし、コントローラを握り直す。
 自分を落ち着かせるように、彼がひとつ息を吐いたときだった。
「タイムアップ。テスト終了。スカル小隊、これはちょっと情けないんじゃなくて?」
ブリッジのキャサリンが通信に割り込んだ。モニタに、呆れ顔が映っている。
 言われなくてもそんなこと、自分たちがよくわかっている。エンジンを載せ替えたでもない。フレームを大幅に軽量化したでもない。たかだか、駆動制御系パラメータの値をひとつだけ変更したクァドラン 一機に滅多打ちにされたのだから。
 ミハエルは思わず意地悪い声を出してしまった。
「このデータは後の参考にはならないかも知れませんよ?」

 

 それはミハエルだけではなく、クランもよく知っていることだった。
 彼女が大好きだった小さなミシェルに、それはある日大きな影を落とした。
 どんな形で訪れるかは誰にも予想できないけれど、それが必ず誰の身にも降りかかることは知っていた。
 ミハエルの両親が死んだとき、そしてジェシカが死んだとき、その他にも同僚を失うたび、クランの両親は娘にそれを隠すことをしなかったからだ。
 だから、受け入れなければならないことだともわかる。
 でも思う。
 どうしていつもそれは、試されているのかと思えるほど、こちらをひどく悲しくさせるのだろう。
 もう数え切れないくらい行き来している廊下。マイクローン化装置から、ラウンジまで真っ直ぐに続く。
 今は、クランの隣にはネネしかいない。それについて何か考える心の動きは、もう麻痺したらしい。これが忘却というのかも知れなかった。
「あ、お姉様…」
クランの右手にいたネネが、少し後ろを気にするように振り返る。
「おい」
反対の左側から自分を覗き込む背の高い影があった。
 ララミア…?
 思わず、そちらを歓喜と安堵で仰ぎ見た。が、しかし、
「あ…」
いつもなら、顔を見て一番に嬉しい相手。逆光でもわかる、金色を宿した髪の毛。
 だけど今は
「何だ、ミシェルか」
言って、気が抜けたところでつまずいた。
 がくん、と視界が急に傾いで、次の瞬間右足首に激痛が走る。あまりの痛さに息が詰まった。
「今、足首があらぬ方向に曲がったぞ?」
バカにした声が上から降ってくる。ああ、憎らしい。
「ミシェルっ――」
言い返そうとしたが、意識が最下層に沈んでいたのと、慣れているはずのところで転んだ情けなさで、なかなか交戦体勢に入れない。
「医務室に行ったほうがいいぞ。連れてってやるよ」
すっと、彼が膝をついた。傾けられた背に、彼の意図をやっと察する。
 胸がぐっと締め付けられる。
「要らん」
「ほう?」
ミハエルは長靴の足を、容赦なくクランの足首にめり込ませた。
「いーたーいー!!、何をする貴様」
「黙って言うこと聞かないからだ、バカ」
放っておいて関節の駆動域が狭くなっても知らないぞ、と具体的に説教され、クランの反撃の余地はなくなった。身体は彼女の商売道具だ。
 こちらに向けられた背中の無防備さが、何かの罠ではないかと訝しませるが、何か言っても今は勝てる気がしない。悔しくて歯ぎしりする。
「お姉様、手当ては早いほうが良いですよ」
やんわりとネネが言った。そして、クランの小さな肩を優しく押す。
「ネネ?」
「ミシェルくん、お姉様をお願いしますね」
「任せてください」
ミハエルに一時的にでもすっかり頼り切るのは気恥ずかしいが、赤面しているところを彼に見咎められないのを良いことに、クランはそっと幼なじみに身体をあずけた。にっこりとネネが手を振って見送る。
 ミハエルはというと、どうせならお姫様抱っこがいい、と言い出すかと思い、言われたら嫌々ながらのふりでしてやろうと心づもりをしていたのだが、案に相違して、クランは黙って背負われた。
 軽い。
 実際に体重が軽いのもあるが、兵士として、救助を受ける際運ぶ者の負担を最小限にする力の入れ方を知っているからだ。
「おいクラン」
「何だ?」
寝起きのようなかすれ声が、首のすぐ後ろから聞こえる。元気がないのは、顔を見なくても明らかだった。
 自意識過剰も甚だしいかも知れないが、先ほどのように、何だミシェルか、とはクランから言われた記憶はなかった。それくらい自分は大事にされている。
 いつも彼女を覗き込んでいた誰かと間違えたのだろう。そのひとは、言葉少なで不器用そうで、自分とは似ても似つかないのに。
「姉貴の墓に置いてくれた花の名前、何ていうんだ?」
肩に乗せられた腕が強張り、少し首が抱かれた感じがした。
 決意しないと言葉が出ないような沈黙があった。
「…ラナンキュラス」
悪戯が見つかったような、ふて腐れた声。
 ほんわかした語感がミハエルの耳に優しくぶつかり、胸にすっと落ちる。
「ふうん」
廊下の前後には誰もいない。ミハエルのブーツの音だけがしていた。時折、感情を必死に外へ逃がす深い溜め息が髪にかかってくる。
「――じゃあさ、ララミアさんのとこに置いた花は?」
「!」
途端、クランが急に重くなった。力点への、彼女の意識が飛んだからだ。ミハエルは少しジャンプするようにして、彼女を上へ押し上げる。
「よいしょっ。ったく、ちょっと重いんじゃないか?」
そう言うと、ぼこ、と首の後ろを拳で殴られた。
 クランは一体どんな顔をしているのだろう。くすん、と啜りあげるのが聞こえた。しかし顔を見れば、彼女は感情を押し殺すだろう。
 それが彼女の性分か、階級が上の者が下の者に接する態度か、資本主義の本性を体現したものかはわからない。
 ただ、今彼女がすべきことではないとだけ思う。
 自分だけが、そう思いたいだけなのかも知れない。
 でも。
「普通こういうときは胸を貸してやるもんだけど、お前には特別に背中貸してやるよ」
ミハエルは自分の首に彼女の細い腕を、きつく巻き付けた。引っ張られて、彼女の鼻先が頭の後ろに触れる。
「何をする、ミシェル――」
言葉の割にあまり威勢のない声だった。
 ミハエルは少し笑った。
「銀河の妖精じゃないけど、こんなサービス滅多にしないんだからな」
「――うん…」
頬の柔らかさを襟足に感じる。
 クランは、ミハエルの首を抱いて、でも、彼以外のひとの名前を呼んで泣いた。
 それは彼が、かつて彼女に抱きしめられて姉を呼んで泣いたのと、理由は同じだろう。
 ミハエルは医務室までの廊下を、人気のないルートを選んで、更に遠回りしてやった。



 カナリアが治療の道具を揃えるのに、席を外したときだった。
「ミシェル」
丸い座面の患者用椅子に座ったクランがこちらを見上げた。膝に置かれた手には、ミハエルが持たせたハンカチが握られている。
「うん?」
お辞儀して耳を傾けると、彼女は恥ずかしそうに、俯いて小さく呟く。
「…オンシジューム」
呪文のようにも聞こえるその言葉が、先の質問の答えだとわかるまでに、彼にしては少し時間がかかった。
 が、一旦気付くとその言葉は、黄色い花の姿と一緒になって自然と染みるようだった。
 彼女の気持ちのかたち。
「ああ、覚えとくよ」
 

Fin.

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