DREAM AFTER DREAM


第1夜

 どうして失恋は、単純に2÷2=1という結果にならないのだろう。
 ふたりが寄り合い始まって積は2以上になるというのに、終わるときは商が1以下まで削られている気がする。
 おそらくそんな感じを受けるのは、自分が振られ側だからなのだろう。は自分の消耗具合を思って、また更にすり減る思いがした。
 思わず溜息。
 いつまでも考えていても仕方ないとは思う。
 ひとの感情の絡むことは、すべて明解な答えを示してくれないこともある。そんなことはもう、子どもでもないからわかっていたはずだった。ただ自分が過度な期待をかけていただけなのだ。
「次は飯田橋、飯田橋です。東西線、有楽町線、JR線はお乗り換えです。お乗り換えは後方の階段をご利用ください。お出口は右側です」
車内放送に気づかされ、は都営地下鉄大江戸線の飯田橋駅に降りた。
 艶のないアルミ色のホームから続く長い通路。そしてその先の、同じ色のエスカレーターを延々昇る。
 天井に広がる緑の編み目のようなアートが、不意に目に飛び込んでくるのすら迷惑に思えるほど心が浮き上がってこないまま、また一日が過ぎようとしているらしい。
 今日から、会社の通常業務後にもうひとつ仕事をすることになっていた。だが心機一転を図ってのことではない。
 謝礼という名のアルバイト代に惹かれて申し込んだ数日前の自分を恨めしく思った。
 こんなことになる前に応募していた、社内起業プロジェクトの実験参加者として採用されたのだ。と言うと仰々しいが、簡単に言うと、自社製品のベッドと寝具のモニターだ。
 の勤める寝具メーカーでは、ある理系大学と協力して科学的根拠のある寝やすい寝具を開発しようという取り組みが進められていた。
 自分の勤める会社ながら、そんなことにカネを出すなんて何とおめでたい企業かと、今となってはそうも思う。――そして、そう感じてしまう自分の心の荒み具合がまた悲しい。
 はこれから一週間、会社が借りた「研究所」と呼ばれる賃貸物件に泊まって寝る。
 眠ること。
 それが実験。
 今向かっているのがその研究所で、場所は産学連携のパートナーである工業大学に近いマンションの一室だ。そして、その最寄り駅がこの大江戸線飯田橋なのだった。

 ――ま、初回の今日でクビになっちゃうかもね。
 眠ることのできない私が、役に立つはずないし。

 そうとわかっていても来る気になったのは、一重に家に帰りたくなかったからだ。
 彼と別れても、家には彼が使っていたものたちが残っていた。それらを置いているだけで自分の体力が奪われることや、誰かが再びそれらを使う日ももう来ないことは知っていたが、捨てる気力と勇気はまだ出なかった。
 飯田橋は、整然とし過ぎた生気のない駅だった。今のいる、恋が終わり色を失った世界に似ている。
 出ようとした改札近くの壁面がアートになっていたが、それも金属の灰色。会社最寄りの新宿駅のやかましいほど明るいのとは一線を画す、静謐に満ちた佇まいだ。
 ステンレスの板に、点字が風を模して幾重にも波形を描き、更にその波のところどころに詩らしき切れ切れの文章が書きつけてある。
「――"冷たすぎて、冷たくないドライアイス"」
施された点字に触れて、その近くに書いてある言葉を読んだ。
 何とはなしに指先を触れさせる。
 金属のひんやりと冷たい感触。
「"冷たすぎて、冷たくないドライアイス"――」
もう一度声に出して読んでみても、やはり冷たいだけだった。



 羊を数えるのも無駄。
 枕を変えても、枕を裏返しても位置を変えても無駄。
 布団から足を出してみても、俯せてみても横を向いても、天地逆にして横になってみても無駄。
 消灯後に目が慣れて闇が薄くなるのがかえっておそろしく、それならいっそのこと起き上がってしまえ。と、そう思って
「あー、やっぱり眠れないかぁー…」
んー、と両腕を天井に向けて突き上げたときだった。

「それが君の悩みか?」

 ベッドに腰掛けた誰かがこちらを振り向いている。息のかかるような至近距離で目が合った。
「わ――ッ!!!」
叫ぶしかない、叫ぶしか。
 飛び退くと反対側の壁に肩がぶつかった。
「だっ、誰?、ここのひと?、実験関係のひと?」
「いや」
短く答える声は男だった。彼が組んでいた足を解いたらしい衣擦れの音がする。
「じゃあ何?、誰っ?」
寝ている間に自分以外の人間が部屋に入ってくるなど聞いていない。そう思って、しかし、担当者から、一度目を通しておいてくださいね、と渡された資料を真剣に読んでいなかったことに思い当たった。
 慌てて、今更その資料を確認しようとバッグを引き寄せようと手だけを伸ばす。
「…これか」
男が足下のバッグを取ってくれた。平坦な声だった。
「あ、ありがとう」
持ち手の上で、少し彼の手に指先が触れる。
 硬く、冷たい指。
 ほんの一瞬だったが、硬質な、男のそれとわかる感触だった。そしてやけに冷たかった。こちらに染み込んでくるほど。
 あ…?
 何か似たような手触りを知っているような気がして、触れた手を見つめる。
 しかし男のほうは、表情ひとつ変えずに立ち上がった。
「眠れないことが、君の悩みなのか?」
 随分と脈絡のない質問をこちら投げて寄越す。
 どうしてそんなことを訊くの?――いや、その前に。優先順位一位二位三位の質問がある。はバッグと枕を抱き、身を縮めて壁に寄って喚いた。
「あなた何ですか、誰、何でここにいるの?」
「今、質問を三つ受けた。まずそれらに答えよう」
男はベッドサイドの明かりをつけると、手を白衣のポケットに突っ込んでこちらを見下ろす。
 黄色い光が明らかにした輪郭を、は初めて見上げた。
 眼鏡と、後ろに結んだ長髪、服装は白衣に濃い色のセンタープレスパンツという、よく言えば気取りのない――悪く言うと、いかにも研究者風な(しかも考えつく限りマニアックな)格好だった。
 それだけであれば女子としては怯むところだが、さり気なく、白衣の開けた前から見えるワイシャツがフライフロントであったり、パンツが少し細めであったり、している腕時計のデザインがすっきり洗練されたものであったり、細身だがガリガリではなかったり。
 不思議なバランスで彼は、をときめかせる要素を含んでいた。
 そして何より顔立ちと立ち姿の端正な清潔さが、彼のすべてをきれいにまとめている。
 しかし、言動が可笑しかった。
「私は駅だ」
「…ふっ」
失笑。
 表情が乏しい彼もさすがに一瞬ムッとしたような空気を発した。しかしひとつ吐息すると、切り替えるように右手で眼鏡の位置を直す仕種をする。
「次、二つ目。私の名前は飯田橋麗夢」
「飯田橋?、ほんとに駅みたいじゃない」
また失笑。黙っていればカッコ良いのに、全く笑わせてくれる。
 だが二度目は彼も動じない。再び手を白衣のポケットにしまい、無視して続ける。
「三つ目。ここにいるのは君の悩みを解決するためだ」
「え――」
言われたことは奇想天外に近い現実味のなさだったが、今度は何故か笑いが出なかった。
 君の悩みを解決するためだ。
 そんなことを、目の前の知らない男がなんでもないように言う。
「嘘」
「嘘ではない。それが私の使命だから」
わー、もう誰か助けて。
 使命?、使命って何?
 新手の詐欺か何か?
 だとしたらどこから騙されてたの?、会社で募集かけてたところから?、いや、でも参加申し込みの受付してたのって――
 してたのって、彼だった。
「…」
まだ姿を思い出すだけで胸が深く滲みる。
「大丈夫か?」
「え…?」
「急に顔色が悪くなったようだ」
「…大丈夫です」
の答えが聞こえなかったのでもないだろうに、彼はまた寝台に腰掛けて少ない光量の下、彼女の表情を覗き込むようにじっと見つめた。
 その仕種には何故か、ああ、自分は今、とても優しくされていると思った。
「――とてもそうは見えないが、申し訳ない、間もなく始発の時刻だ。私は行かなければならない」
「え?、始発?」
どこまでも、まるで自身が駅であるかのようだ。
「ああ。また明日来ることにする。では、くん」
くん。さっと鳥肌が立ち、多少甘やかになりつつあった雰囲気から不審者が目の前にいるという現実に引き戻された。のほうはまだ名乗ってもいない。
「どうして私の名前知ってるの?」
「それも含めて次回説明しよう」
言って、彼は足早に玄関へ向かう。が血相を変えていることにはあまり興味がなさそうだ。いささか面倒臭そうでさえある。
「次回って?」
「明日も――いや、既に日付的には今夜だが、君はここに来るのだろう?」
どきん、と胸が大きく轟く。
「どうしてそれも知ってるの?」
何者なのだろう、彼は。
「ダイヤグラムに書いてあった」
「はぁ?」
得体の知れない何かを内包している男。目の前の彼に関してそれしか今はわからないが、警戒するにはじゅうぶん過ぎた。
 だが玄関で、靴べらはないのかと言って、履きづらそうにして革靴に足を突っ込んでいる様子は思いがけず可愛らしい気もする。
 枕とバッグを身体の前で抱えたままのを振り返って彼は言った。
「次に会うとき今の質問にはすべて答える。あらかじめ言っておくが、私が君に嘘をつくことはない」
さきほど、が咄嗟に嘘と決めつけたことに対してだろうか。それは、猜疑と不安に満ちたの視線に、彼が誠意を尽くせるだけ尽くした言葉のようだった。
「では、また」
「…」
彼の白衣がドアの向こうに消えた後、靴も趣味が良かったな、とはぼんやり思った。
 ぴかぴか光ったブラウンの革の爪先がやけに印象に残った。



 目が覚めた。――ということは、少しでも眠ったらしい。
 科学の粋を極めた寝具のおかげだろうか。遮光カーテンの合わせ目から、朝の光がフローリングに細く落ちていた。
 起き上がってあたりを見回したが、飯田橋と名乗った男の姿はない。それどころか自分は頭の下に枕を敷いて寝ており、バッグもきちんとベッドの脇に置かれている。
 まるで何事もなかったかのようだった。というか、この様子では、何事もなかったのだと考えたほうが自然な気がする。
 しばらくすると、この実験に参画している学生だろうか、より若い女の子が部屋にやって来た。すぐにリビングで血圧計の準備をし始める。その様子に自分がこの部屋に昨夜泊まった理由を思い出した。
 ベッドの横に足を出して座ると、すかさず彼女が近寄ってきて腕に血圧計を巻かれる。
「じゃあ、計りますね」
彼女は測定の間ずっと笑顔で、よく眠れました?、などと年齢に相応しからぬ気遣いのある言葉をかけてくれた。おそらくのようなサンプルを、これまでに扱ったことがあるのだろう。
 血圧測定後、アンケートらしい質問をいくつか受けた後では思い切って尋ねた。
「あの、あなたの他にこの部屋に来るひとっていますか?」
例えば、訳のわからないことを言う、白衣を着た長髪の美麗男子とか。
「いいえ。私ひとりがこちらの担当だと聞いてますけど」
「そうですか」
さすがに、夜中にひとが来たとは言えなかった。
 だが、それでは彼は何者だったのかという考えに再びが及ぶこともなかった。
「何か、夜の間にあったんですか?」
「ううん、そうじゃないんです。私、夢でも見たみたい…」
そうだ。
 たぶん、浅い眠りが見せた夢だったのだ。
 それでも少しだけ、また今夜来ると言ったことだけが引っかかっていた。
 

To be continued.

home index