JUST THE WAY YOU ARE


【 月島 18:18】

 姫乃は、信濃町にある大学病院に父親を見舞った後、国立競技場前駅から大江戸線に乗った。
 父親の入院は、人間ドックで一泊の予定が、足止めされて一週間が経過しようとしていた。
 念のために精密検査を受けたほうが良いとの医師の勧めに従っただけだと姫乃は父の秘書から聞いていた。しかしどことなくそれを鵜呑みにできないでいる。
 彼女が訪ねたとき、父はベッドに上半身を起こして、側近の社員に囲まれていた。今後しばらくのことを指示しているようだ。察して、応接スペースに控える。
 最上階のVIP特別室。大学病院のそれともなれば、ホテルのスイートとまではいかなくとも、二間続きでバスとトイレが別。来客応接用のソファとテーブルまで備えられていた。
「待たせたな」
呼ばれてベッドに寄ると大して表情を変えずに父が言った。それでも喜ばれていると信じられる。
「いいえ、とんでもありません。お父様、お加減はよろしいのですか?」
「ああ。より詳しく検査してもらうためだけなのだから、初めから加減云々という話ではない」
「…はい」
それきり別に、続ける言葉を持たない親子。父親が娘を自分の世界から遠ざけることで、身を置く場所がお互い全く重なり合わなくなっているのだから当たり前だった。
 ただ、そのことを姫乃は、以前より心細く思うようになった。
「姫乃」
「はい」
「気をつけて帰りなさい」
慣れない環境で気疲れしているのだろうか、幾分やつれて引っ込んだような目で言った。
 こんな顔をするひとではなかったのに。
「…はい。わかりました」
自分がしっかりした人間なら、父も安心なのに。そう思う。



 月島駅に降りた姫乃は、職員窓口横の小さな張り紙を見て、ある事実に気がついた。そこに書いてあったのは謝辞だった。
 2010年12月12日を以て、大江戸線全線ならびに月島駅は開業十周年を迎えます。日頃のご利用誠にありがとうございます。
 今日はこの月島駅の開業日だったのだ。
「…」
 ――あの方のお誕生日なんですのね…。
 あの方とは、名前を月島十六夜という。
 それは一年前、何も知らない自分へ、世界の本当の姿を少しだけ見せてくれた者。
 ためらいがちに空へ出現する月のその姿を名前に持つその不思議な男は、彼自身が示した世界の広がりの中へ姫乃が旅立つのを見送ってくれた。
 彼があの一日で教えてくれた、たくさんのこと、初めての経験。
 その最大のひとつが、この気持ちだろう。
 それを今更ながらに思い知る。
 あんな奇跡がもう起こらないということにも、自分は気付いているというのに。それは、賢く聞き分けの良すぎる彼女には歴然とし過ぎていたし、そう定められたものに対して抗う術も持たなかった。
 奇跡は、通常に起こらないから奇跡なのだ。
 暗い中で、川の音だけが聞こえていた。
 対岸には、聖路加ガーデンの二棟の高層ビルがよく見えた。タワー棟と、それより少し低いレジデンス棟のこのふたつのビルは、三十二階にある連絡通路で繋がっている。
 まるで手を繋いでいるように。
 いつもは微笑ましく眺めるそれも、今日は少しだけ羨ましくもあり、そう感じている自分に気づいて更に寂しくもあった。
 だが、寂しくならないようにここに来たはずだった。もう会えなくても、大切な思い出であるという事実は変わらない。
 ビルの横にちょうど月がいた。白いほんのりと弱い光だが、思い出せば胸をあたためてくれる面影に似ている。
 たったひとり佇む自分に月が手を差しのべてくれるような錯覚。それに望んで陥る。姫乃は手を伸ばした。
 彼を感じるために。
 川面に映る街の灯に。
 水音に。
 そして月の光に。
 例えもう、その姿を見ることがなくとも、この街の風物のすべてに存在を認める。そしてそれはすべて優しい。
 できるだけ多く彼の気配をこの身に受けたくて、手のひらを空に向ける。
 風に袂が揺れた。
 姫乃が目を閉じて、心地よいそよぎの中に何もかもを無防備にゆだねた、そのとき。

「あの月は幸せ者ですね」
月が言った。

――という訳ではない。声のする方向を仰ぎ見る。
「あ…」
それきり姫乃の喉が固まった。
 大島の袷に揃いの羽織の男――最もそう言われれば、彼は、確かに見かけはそうですが私は駅なのです、と、やんわり訂正してくるだろうが――が、穏やかにこちらを見下ろしていた。
 月島十六夜。
 何度心で呼んだか知れないその名前すら、張り付いて出てこない。
 彼は目を細めて静かに続ける。
「あなたに手を伸べていただけるなんて」
身体の脇に、力の抜けた手が落ちていくのを途中で掴まれた。
 空気の冷たさを感じるだけだった姫乃の手が、急にあたたかなものに捕らえられる。姫乃は声が震えるのをやっと押さえ、身体すべてが眩暈に支配されつつある中で言った。
「いいえ。お月様のほうが、私に手を差し伸べてくださったのです」
「そうなのですか…?」
彼は姫乃の手を両の手で挟んで包んだ。さらりと乾いた、それでも熱い手だった。
「けれど、もしそうだとしたら尚のこと妬けてしまいます」

To be continued.

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