刹那主義

 

   新谷が負け試合の後で「アイバちゃん、今日俺とゴハンしようよ」と言ってくれたのは、僚介が全く打てないまま、四試合を消化した頃だった。出塁は三度あったが四球か死球。所詮他力本願であった。
 他人がスランプと呼ぶような、こういうことはままあるものだ。野球が仕事になって十年余り。まるで凪のような、自分にクライマックスのない試合が続くときにすることは、ただ、弱くても良いから風が吹くのを待つことだ。その悟りはできている。
「はあ」
いいですね、とも、いやお断りします、とも言えずに、気の抜けたような返事を返す。何かコメントをする権利すら、打てない自分にはないような気がして。――新谷は猛打賞が二試合続いている。
「じゃ、決まり」
腕を取られて更衣室を出る頃にはやっと、ああこれで良かったのかも知れないと思った。僚介は昔からゲン担ぎをしないほうだが、新谷の軽やかな歩調に、いつもしないようなことをして気分を変えるのも良いと思えた。
 球場出口までの長い廊下で、先を歩く新谷の後ろ姿を見た。
 スポーツ選手とは思えないスマートな体型で洒落た服を厭味なく着こなす。今日も初夏らしい白いジャケットに、ダメージ加工したジーンズという組み合わせ。膝裏にがぼっとした穴があいているのも、彼だと貧乏臭くない。
 そういうひとが連れて行ってくれる場所はどういうところなのかと期待して想像をふくらませていたのだが、ふたりが乗ったタクシーが着いたのは掘っ立て小屋のような小さな焼鳥屋だった。引き戸は開く前から煙い臭いがしそうなほど燻されている。
「…」
店の佇まいと想像とのギャップに圧倒されて呆然と立ちつくしていると、新谷が背中を押してきた。僚介の後ろから伸びた手ががらりと戸を開けて
「大将、来たよーっ」
そのまま更に押されて、暖簾が額にぶつかった。
「おう、待ってたよ」
大将と呼ばれたカウンターの中の男は、炭から上がる煙の幕の向こうで歯を見せて笑っている。僚介を見て少し目を見開いた。たぶん、誰かわかったのだろう。僚介は会釈した。
 新谷が手回ししたのか、店の中には誰もいない。誰もいないのに、炭はカンカンに起こったままで、座るとすぐに、ビールといい具合に焼けた串が目の前に並べられる。
「じゃ、カンパ〜イ」
「乾杯」
ふたりで喉を鳴らす。ジョッキに入ったビールの一口目は、何故このように美味いのだろうか。
 ただ僚介にとって難点は、少量で真っ赤になってしまうことだ。飲める外見だけに、何となく恥ずかしい。
 今も新谷が「もう酔っちゃった?、大丈夫?」と言ったが、ジョッキは四分の一しか減っていない。
 もう酔っていると思われている。
 それにかこつけて、僚介はずっと思っていたことを尋ねる気になった。
「あの、言いたくなければ言わなくていいんですけど」
自分が訊いてみたくて口に出したくせに胸がやけに高鳴って、新谷の顔をうまく見られなくなる。しかし、訊けるのは今このときだけだろう。
 僚介は勇気をふるって、後に引かなかった。
「どうして、辞めることにしたんですか?」
「ああ、そのこと――?」僚介の伏し目に新谷に悪戯っぽく割り込んで来た。
 笑った目。その目の下の、色っぽいほくろ。口元からこぼれる真っ白な歯。鳥の焼ける煙さえ彼を避けているように、彼を取り巻く空気はいつでもどこでもきらびやかだ。
「俺さあ、思うように生きられないなら、死んだほうマシだと思ってっからさ」
炭のはぜる音がやけに大きく響いた。大将が、新谷と僚介の肘の前にそれぞれある皿へ、ねぎまを置いた。僚介の目に、大将の動きが緩慢に映る。
 新谷の声以外が絞られたようになる。
「とにかく長くやろうとするひともいるのはわかってる。それをダメだって言ってるんじゃなくて、俺にはできないってだけ」
 ――そして、もしかしたら、長く続ける努力のできるひとを羨ましいと思っているのかも知れない。だとしたら、あまりにも切ない。
「…はい」
僚介はどうでもいいような返事しかできなかった。こういう価値観があるのだ。ただ、そうとだけ思った。
 店を出て、新谷と、彼が定宿にしているホテルまで一緒に歩く。新谷は札幌に家を持っていない。悠然と歩く新谷の足はやっぱり、それが当たり前であるかのように長くてカッコ良くて。
 僚介が見とれるように視線を新谷に投げたときだった。
「あの話のマジなところはさぁ――」
「うん?、何のですか?」
「いや、俺が辞めるワケの」
「ああ」だから、俺なんかに言わなくていいんですよ、と続けようとしたのへ言い訳のように性急に声を被せてきた。
「俺、目が悪くなってきたみたいなの。乱視っつーの?、物が二重になって。親父が若いときからグルグル眼鏡だから、いつか俺にも来るんじゃないかって思ってたんだけど、キタね」
はは。
 笑い声が乾いていた。
 本当はものすごく悔しいのかも知れない。この不可抗力へ怒りすら感じているのかも知れない。そしてやはり続けたいのかも知れないが、続けるのを許さないのも彼自身なのだ。
「似たくないって一番に思ってたところが似るんだから皮肉だよね」
言われて、僚介は曖昧に笑った。最近確かに、鏡の中の自分に父の遺影を見る気分になるときがある。――確実に似てきているようだった。自分も父が生きていればそう思う機会があったのだろうか。
「アイバちゃんここからどうするの?」
「歩いて帰りますよ」
「歩いて!?」
「はい、近いし。――今日はありがとうございました」
頭を下げる。
「うん、気をつけてね〜」
ホテルの車寄せで新谷と別れた。生活感の全くないホテルの入り口に入っていく新谷の姿は自然だった。慣れもあるだろうが、彼自身に生活感がないからだろう。
 少なくなった交通量の道路を挟んで、大通公園を眺める。
 噴水の水の音が聞こえていた。
 何だろう?、甘い香りが僚介の頬を撫でる。
 今日新谷が僚介に話してくれたことを、彼の人柄を知らない他人は、考え方の違いとかポリシーとか、単なるワガママと言うだろう。
 でも、それらの表現が与える驕慢さを新谷の言葉に感じることはできなかった。生き方を譲らないという強固な意志だけがそこにある。
 自分にも、いつかそういう決断をする日がやってくる。新谷は僚介と一学年しか違わない。その日が遠くないのは明らかだ。 しかし新谷のような強さが自分にあるとは、今は思えない。
「アイバちゃん!」
僚介が信号を渡ってから後ろから声がする。振り返ると、新谷がわーっと手を振っていた。わざわざまたホテルから出てきたらしい。
「明日も頑張ろうぜー!」
右腕を星の見えない、都会の星空に突き上げる無邪気な新谷に、僚介は思わず笑った。
 歩くうち、街路に花が咲いていることに気付く。小さな蝋細工のような花が、重さで枝がしなるほどだ。
 その花が、先に感じた甘い匂いを放っている。東京にいたときにも神宮で見たような気がするが、この濃厚な香りには覚えがない。
「…ライラック…」
 木の下に建てられた札を読んだ。
 この花が咲くと札幌はもう夏の始まりである。しかしまだ、その季節感は、僚介にはなかった。

 翌日の試合、僚介は四打席三安打の猛打賞だった。
 

Fin.