豊平川艶歌

 

 北海道の小学生は夏休みが短い。
 短いと言っても盛夏の候はまだ休みで、この盆が明けた頃始業式だそうだ。先日顔を合わせた文人が、夏休みの宿題をぜんぜんやっていないと言って困っていた。
 しかしその文人は今、おそらく宿題はそのままだろうが、函館へ旅行中のはずだ。母親である由希子の実家へ子供のひとり旅というやつ。
「えっ、カッコいいじゃん。俺、小学生んとき旅行なんかしたことなかったよ」
と言うと
「俺が行きたいんじゃないよ。じいちゃんばあちゃんの店がお盆で休みだからって、毎年この時期なんだよぉ。俺は札幌で相葉さんの試合が観たいのに」
などと、生意気な表情で言っていた。
 僚介は自転車をマンションの自転車置き場の暗がりから、強い西日の差すアスファルトへ押し出す。
 今日は平日だが、お盆に合わせて試合はデーゲーム。黒崎がサクサク投げて二時間で試合が終了し、それからクールダウンやら、チームメイトとロッカールームでバカ話に花を散々咲かせたが、帰宅してみればまだ六時だった。
 日の長い夏のことで、この時間はまだ明るい。
「…」
自転車のペダルに足をかけるだけなのに、僚介は少しの罪悪感を覚えた。
 文人の母親の由希子は、息子がいない晩はカフェに寄り道することが多い。
 別に、事前に企んでいた訳ではない。たまたまこの時間に身体が空いてしまい、家で落ち着いていることができなくなってしまっただけだ。
 もしかしたら会えるかも知れないという、ものすごく少ない可能性に賭けて、電車通りを東へ行こうとしている。
 会えたからといってどうするのか。西から向かう自分と、東から来るだろう由希子は真っ正面から出会ってしまうのだ。
 まあ、それを狙って今から行こうとしているのだが、偶然を装うには不自然に過ぎる。それは僚介にもわかっていた。その場面でどんな出まかせを言っても見透かされるだろう。しかし、気にしても仕方ない。
 大体、出まかせを言えるくらい器用に振る舞えるなら、こんな子供じみたことを初めから考えるものか。
 由希子と出会って言い訳に慌てるより、たった今ざわざわ騒いでいる気持ちをどうにかしたい。何のそれかはわからないが、僚介の勝負師の部分が「今日はチャンスだ」と大声で言っていた。
 パラシュート素材のウェストバックを背中に括って、黄色いルイガノのロードバイクをこぎ出した。
 低くなった日が僚介の背中から当たり、彼は自分自身の長い影を自転車で踏みながら走行することになった。
 これでは、嫌でも自分の姿を意識せざるをえない。勇気のない、こういう方法でしか彼女に会いに行けない自分を。
 やがて電車通りの果てに着いた。始発の電停。南北に伸びる駅前通りと交差したスクランブル交差点。自転車を降りて、目の前の幾重もの人波を眺めた。
 ハズしたかな。
 歩行者信号は赤になり、今度は自動車が視界を埋め尽くす。ウィンドゥが夕日のオレンジに反射している。
 文人が父親に会う日に由希子がよくいるモリヒココーヒーは、もう数丁前に通り過ぎていた。そのとき彼女がいつも座っている窓側の席をよく見たが、姿はなかった。
 さすがに見通しの甘さを認めない訳にはいかない。
 僚介はこの交差点から先で由希子に会ったことはないのだ。――いや、正しくは、優勝パレードのとき、彼女の姿を豊平橋で見たことはある。あるにはある。
 思い出すだに、未だ僚介の胸を高鳴らせる。何か契機があるとするなら、あのときだ。
 季節は真逆の初冬。粉雪を舞わせる風は彼女の髪も揺らしていた。その髪を右手で押さえて、左手で自転車のハンドルを支え、由希子は佇んでいてくれた。
 彼女を呼んだ自分の息が白く後ろに流れたのが、まるでスローモーションのように僚介の目に焼きついて。
 おそらくそれは、華々しい優勝の想い出とともに身体に刻まれてもう一生離れないと思う。例えこの街を離れても、野球を辞めても、次に誰か別のひとを好きになることがあっても。
 ――次に、誰か別のひとを好きになることがあっても。
「豊平橋、かな」
既に賭けには負けたとわかっていた。あてにならない自分の勘に僚介は苦笑した。それでも何となく、あの日の印象に引きずられて更に西へ進む。
 少し斜面を上がると広い河川敷を挟み、そこは豊平川。豊平橋と一条大橋のちょうど間に出た。
 いきなりビルがなくなり視界が明るくひらける。中洲にひょろひょろ生える柳の葉が川風に涼しげに揺れていた。
 自転車を降りて、自分が来た方向を振り返ると、太陽は落ちて空はどろりと赤く、東に向かって薄紫にグラデーションがかかり灯りが目立ち始めている。
 …前にもこういうことしてたよ。
 高校生の頃、汚れた練習着の入ったスポーツバッグを背負い、好きな女の子をさりげなさを装って待ち伏せしたことを思い出す。そのとき見つめていたのは長良川の川面だった。
 今また、川を見て気持ちを持て余している。自分の成長のなさが少しおかしい。
「水にきらめくかがり火は、誰に想いを燃やすやら」
豊平橋でその水面に、故郷の川の歌を歌いかけた。
 国道にかかるこの橋は、絶えず車が十重二十重に走っているが、歩行者は僚介以外いない。悠々と歩きながらその続きを歌詞がわからなくなるまで歌い、ふと顔を上げると、ひとり、橋へ歩んでくる女性があった。
「あ」
胸が跳ね、全身が彼女を認識する。  
 どうしてすぐわかる?――僚介の視力は良いほうだが、彼女はまだ豆くらいの大きさでしか捉えられない。
 由希子だった。
 いつもと違って自転車に乗っていない。しかもスカート。それだけで心を鷲掴みにされるから、やはり、彼女は自分にとってそういう対象なのだと気づく。
 文人、やっぱり、ごめん。
 僚介がつい先まで眺めていた川面に彼女も目を遣っている。白い横顔。近づくにつれて、それが優しく目を細めた表情だとわかる。
 僚介は立ち止まったまま、彼女を見ていた。小さくて、細い彼女の影。 触れたことのない彼女の姿。
 もうすぐそこまで迫ったところで、吹き上げる風に髪を手で押さえた。それにつられるように下から持ち上げた視線へ僚介が入ったらしい。
「相葉さん――」
呼ばれた。
 僚介は右手でつくった拳を胸に当てた。それを押し返すほど鼓動は高鳴っている。自分は今どんな顔をしているのか。
「こ、こんにちは」
 噛んだ…。
 心の中で泣きそうになる。ここまで来てこれか。
「こんにちは。相葉さんどうしたんですか、こんなところで黄昏れて」
くすす、と悪戯っぽく口元に手を遣って笑う。実物を知らないが、僚介はこの仕種がリスに似ているなと思った。そのくらい、かわいい。
 息を吸い、本当のことを告げる。
「お母さんを待ち伏せです」
「ええ?、ウソでしょ」
しかし途端に笑われた。相手にしていないのがわかる。ハナから信じる気のない顔だった。
「今日は、文人がいないんでしょう?」
「あ…」
少し目を見張って僚介を見上げてくる。どうやら意図は伝わったらしい。僚介がにっこりと口角を持ち上げると、恥ずかしそうに鎖骨のあたりに手を遣って俯いた。
「…はい」
僚介は少し唇を湿らせた。急に喉が渇いてきた。気取っても仕方ないが、多少俯いて言う。
「えっと。とりあえず、飯でもどうですか?」
 彼女のことは、この先に何らかのゴールがあるものではない気がしている。そこまで思いついて、先ほど、自分に成長がないと思ったことを訂正する気になった。
 あの頃は、今の恋が最後の恋になると信じることができた。具体的にその相手との結婚まで想像していた訳ではない。でも、このひとをこの先もずっと好きでいるのだという、無茶な確信まではなかったが、別の誰かを好きになる予測は皆無だった。
 何故そんなに純粋だったのだろう。
 今は、それが違うとわかっている。
 それはある意味、ひどく軽薄で情熱のない話かも知れない。
 だが、その一方で確かなことがひとつだけあることも知っている。
「――はい…」
 由希子が良い返事をくれた。
 ほら。これ。
 今嬉しい。
 こんな身体の内側が沸騰するようなこと、他のどこにあるというのだろう。
「ありがとうございます」
僚介が自転車をくるりとターンさせ、ふたりはすすきのへ向かって立った。都会的な街並みの向こうに藻岩山が見える、実に札幌らしい風景だ。
 既に夕日はネオンの向こう側に薄く残るだけだった。
「どこか行きたいお店あります?」
「いいえ。私、ぜんぜんお店わからないし。相葉さんにお任せします」
言われてくるくると頭を検索してみるが、すすきのにとんと縁のない生活の僚介には、気の利いた店がぱっと思いつくはずもなく。
 …俺、最悪。段取り超悪い…。
 溜め息をついた。
「えっと。今調べますね…」
「はい」
由希子は別に気にするふうでもなく、僚介がホットペッパーかぐるなび代わりに使っている半沢夏洋に電話するのを見ていた。
 電話が繋がって喋り出した僚介の顎から、汗の滴が落ちる。由希子はバッグから出したハンカチでその輪郭に触れた。
 自惚れだろうが、 その汗で、彼が一生懸命会いに来てくれたと思えた。
「えっ、あっあのっ」
そして、コチコチに口が回らなくなる彼に微笑んだ。

 まだぬるい風が、川面から強くふたりに吹きつける。 

Fin.