暗器にやられる


 

 笠原郁という人間を、以前からわかりやすくて仕方がないほどだと思っていたが、それが特に喜怒哀楽の怒哀の部分であると気付いたのは最近だ。
 まあ彼女の場合、良い意味でも悪い意味でも常に明るいので、喜楽を見せていてもそれが特別に思われないからだろうか。デフォルトがこちらである、そのことのほうが本当はすごいことなのだが。

 その日堂上が帰寮したのは、週一の定例会議を終えてからだった。
 夏の夜の風は、空気に熱気と重苦しさを孕んだまま身体にぶつかってくる。風なのに、そこに清涼感はひとかけらもない。当たっているだけでじんわり汗ばんでくる。
 寮の玄関へ入るところで、女子寮から郁が出てくるのに気づいた。
「こんな時間にどうした?」
「あ、堂上教官」
こいつはまだ俺を教官と呼ぶ。いつでもどこでも、公私の区別なくしかも苗字で。
「ええと!、コンビニに行こうと思ってっ」
「じゃんけんに負けたか?」
じゃんけんに負けたほうが夜の買い物に出ることは、彼女とその同室の柴崎の間ではよくあることだった。
「いえ、そうじゃないんですけど」
「ついて行ってもいいか」
「えっ」
えっ、って。
 郁は明らかに、何故か驚いた顔をした。
「ダメか」
「とんでもないです。でも、教官今帰ってきたばっかりなのにお疲れじゃあ…」
「疲れてなんかいない。決まりだ。行くぞ」
「はい…」
郁は門を出たところで堂上に追いつき並んできたが、横顔は何故か少し俯いている。自惚れも半分あるが、一緒にいてやると言えば、いつもならもう少し喜んでくれるはずなのに。
 わかりやすい。何かあったらしいことは気配がローであることで伝わってくる。
 やがてコンビニの中の、冷えた空気がつくる分厚い壁にふたりで飛び込んだ。
 郁が自由に買い物できるよう雑誌のラックの前で立ち止まる。店内を丸見えにするガラスに向かって一冊取り出したあたりで、いつまでも自分の隣に彼女が立っていることに気づいた。
「どうした?、買い物してきていいぞ」
「あの…あたしお財布も持ってきてなくて」
「は?」
見返すと、あはは、と取り繕うように笑って、すみません、と言う。確かに、おどけたように挙げて見せた手には携帯しかなかった。だがその態度には、買い物が目的なのに財布を忘れたという失態を恥じる色はない。
 確信犯か。
 さっき驚いていたのは、咄嗟についた小さな嘘に自分が予想外に乗っかってきたからだとやっと気付いた。
「本当は何をするつもりだった?」
「何をするつもりっていうのでもなくて、ちょっと頭を冷やしたくて、近所をぷらぷらしようと思ってました」
「そんなこと最初から言え。むしろそれを言え」
「ごめんなさい…」
謝らせたい訳ではなくて言ったのに。
 ただ、そのまま暑さの中の道を引き返す気にもならず、店内のイートインスペースを指さした。
「気にするな。少し話そう」
財布を持ってきていない彼女に飲み物のリクエストを聞くと、申し訳なさそうにアイスティーと答える。
 彼女にそれと自分にアイスコーヒーを買って座ると、効き過ぎの冷房が、涼をとると言うにはいささか暴力的に体温を奪いに来る。
 予想以上に喉が渇いていたようで、アイスコーヒーは堂上の口に入るそばから染み込んでいった。
「今年はお盆に帰ってきなさいって言われて、どう返事をしたら良いのか少し考えていたら、こっちが何か言う前に、お隣の奥さんはが娘のナントカちゃんが孫を連れて帰ってくるっていうのにうちは、みたいなことを言い出したんで、まだそんなこと言ってるのやめてよって、怒鳴って電話を切っちゃいました」
買ってやったアイスティーを一口飲んで、郁がやっと理由らしきものを溜息と一緒に吐く。
 その言葉が彼女を悲しませる原因となったのは、言ったのが“あの”母親だからだ。その内容から、娘の職業や、ひいては生き方に対する未練がまだあるということを思い知らされる。
「あたし、まだまだですね。カッとしてしまいました」
郁は、周囲と足並みを揃えなければならない強迫観念など自発的に感じない仕様だ。そんなしおらしさがもしあるなら今の仕事が続いていない。
「やっぱりムリなのかな…」
「バカ」
今自分がどんな顔をしても、どんなことを言っても単なる気休めになる気がして、とりあえず、膝の上で携帯を握りしめる彼女の手に、自分の手を載せた。
 この母と娘の確執の根深さは理解しているつもりだ。だからこそ生半可な態度をとってはいけないこともわかっている。もしかしたらこの少しの沈黙でさえ、彼女には痛いかも知れない。
「今日はお前から電話したのか」
「はい。特に用事はなかったんですけど、しばらく間あけちゃってたから」
だからこそ、返り討ちに遭った気分になったものか。
「そうか、えらいぞ」
無理をして、そのへんのありふれた母子になれと言うつもりはない。
 お互いに歩み寄ろうとし始めたばかりだし、郁からすれば、父親が味方になってくれたぶんだけ今は救われているだろう。
「お母さんには、お前を産んでくれたということで俺も感謝しなければならないんだが」
ただ、堂上からすれば、郁がそんな悩みを、軽減されたとは言え、未だ抱えているという事実に心が痛むというだけだ。
「あと、お前を本好きに育ててくれたことな」
そうでなければ、出会っていない。
 しかしもし出会ってなければ、少しは早く、母親と和解できるような女性になったのだろうか。この彼女の堂々巡りは突破口を見つけられていたのか。
 そしてどちらが彼女にとって…――
「うん、そこはほんとに感謝しなきゃです」
だが意識は杞憂の入り口で郁の声に引き戻された。
 堂上の肩口にほんの少し頭を預けるようにして言う。
「今あたしがお母さんに向き合うための自信をくれているのは、堂上教官だから」
笑いを含んだ声が耳のすぐ傍で聞こえ、店内放送が遠ざかるような錯覚を覚える。預けていた手が彼女に弄ばれ始めた。
 静かだった。俯くと至近距離に彼女がいて、見つめたいのに焦点が合わない。それくらい近づいて甘えられている。
 好きになったのはこういうところではなかったが、こういうのもいい。そう思うのは惚れた弱みに他ならない。その自覚はあった。
「全く、お前は隠し持った武器をこれ以上ないタイミングで使う」
「ええっ?」
そしてこの自覚のなさが罪だと思ったとき、胸ポケットの携帯がメールの受信を知らせて震えた。その強制介入に郁がぎこちなく姿勢を正す。

 ごめんね。適当につまみ買ってきて。手塚と飲んでます。

 小牧だった。
 ごめんね、は、おそらく「ふたりでそこにいるとこ見ちゃったよ、ごめんね」の略だろう。堂上は溜息して携帯を畳んだ。
「…」
いや。
「本当はさ、さっきそのコンビニに買い物に来たんだけど、邪魔しちゃ悪いかなぁって入るのやめたの。だからごめんね、悪いけど俺の代わりにつまみ買ってきて」
ということかも知れない。深読みし過ぎだろうか。
「どうしたんですか?、何かあったんですか?」
「気にするな、小牧からのおつかいメモを受信してしまっただけだ。つまみ買って来いとさ」
お前も何か欲しかったら言え、買ってやると言うと、今度は悪びれもせず、じゃあハーゲンダッツ柴崎の分もいいですか、と満面の笑みで言った。
 敵わない。もちろん頷いてやる。



 その翌日、堂上班は館内警備のシフトだった。手塚と館内を巡回する。
 夏休みも後半に差し掛かり、宿題を片付けるために学生や児童の来館が増えていた。
 また来館者の多くがペットボトル飲料を持ち込むため、飲みさしたそれらの放置も増えていた。それをいちいち危険物かと疑って検査をする手間がばかにならない。多くは徒労に終わるが、だからと言ってもちろんやめていい訳はない。
 昼食時に事務所に戻ると、ちょうどもうひと組は小牧が休憩に入って席にいた。盆休みのシフトを眺めている。
「お前、お盆は実家に帰るのか?」
「うん、まあ、帰っても家にはいないだろうけどね。ねえ昨日は休みの過ごし方相談してたの?」
「…」
やはり。どのタイミングかわからないが、しっかり目撃されていたのは間違いないらしい。昨日買ったものを渡したときに訊かれなかったのは、手塚もその場にいたので気を遣われたのだろう。
 見返すと小牧は、そんなこわい顔しないでよ、と、いけしゃあしゃあと言った。にこにこしたまま視線を外さないのは、おそらくこちらの釈明を待っているのだろう。
 缶コーヒーのプルタブを引く間に視線が逸れていないかと期待したが、中身に口をつけても小牧の照準は自分に合わせられたままだった。
 観念して、ほぼそのまま話す。どうせ軽く話したとしても、その後に尋問が来れば口を割ってしまう自分が想像できたからだ。
 果たして、聞いた小牧は笑いの渦に軽くはまった。これも想像通りだ。
「お母さんはまだそんな幻想抱いてたんだね、でも孫なら」
「お前それ以上言ったら怒る」
「怒る?、もう怒ってるくせに」
「今のが怒ってるうちに入らないくらい怒ってやる」
これ以上からかっても得はないと見たか、だが、ふふふ、としっかり笑い終わって小牧は話をまとめた。
「お母さんにしてみれば、娘が可愛くて可愛くて、可愛くて可愛くて仕方がないだけなんだけどねぇ」
小牧はさぞ揶揄するような笑みを浮かべているだろう。堂上は目を遣ったが、案に相違して、彼は少し考える表情だった。
「どこのお母さんも、考えようによっては可哀想だね。心配を、娘の望む形で表現できないだけなのに」
親の心子知らず。でもその逆も言える。真っ向すれ違う、大きさが同じベクトル。
 どこのお母さんも、という言い方が引っかからないでもなかったが、そういうところに深入りしないことで長続きしてきた関係でもある。堂上は敢えて何も訊かなかった。
 そして休憩を後輩たちと替わるため、年長組ふたりは事務所前で左右に分かれた。
 

Fin.

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