bonds of friendship on the other day

 

2.

「何だ…?」
耕一郎はもう一度、看板の文字を目で追う。

 平成四年度学生募集要項配布中。

 念のためもう一度確認。
 ――平成四年度学生募集要項配布中。

「…へいせいよねんって…」
再び彼を襲う漆黒。耕一郎は口許を押さえ、その場に立ち尽くした。
 これが本当なら、俺、どうしたらいいんだろう。

「あの、ちょっといいですか?」
そこに、建物の中からひとがやって来て、入り口に立ち尽くしたままの彼に声をかけた。
 この建物の中からひとが出るところだったらしい。
 “現在”使用されていないはずのこの建物の中からひとが出るところだったらしい。――“現在”使われていないはずの建物から…。
「あっ、すみません…」
茫然自失の耕一郎は辛うじて玄関から避けて入り口の脇に立ち、そのひとが通り過ぎるのを見守った。
 が、
「あっ、あああっっ!!」
耕一郎はそのひとの横顔を見咎め、その腕をがっちりと掴んだ。
 掴まれたほうはびっくりである。
「ああああああのっ、はい?」と、耕一郎を少し怯えた視線で見返す。そこには当然のように、ささやかな拒絶が含まれていた。
 エアフォースジャンパーに、多少くたびれた感じのジーンズとスニーカー。背中にひどく重そうなリュックサックを背負った青年。
 耕一郎が知っているのより線が細い印象で、眼鏡をかけているけれど、それは確かに

「裕作さんっっ」

であった。
 早川裕作。
 全く自分に心当たりのない状況の中で、耕一郎はこの早川裕作の出現に希望の光を見た。必死に取り縋る。
「…」
呼ばれたほうはぎょっとして、ただ驚愕の度合いを深めたようだった。しかし耕一郎には人違いの実感はなく、更に裕作に詰め寄る。「裕作さんでしょう?」
 空気が奇妙に淀んだ。相手の身を包む雰囲気が、自分が彼の名前を呼ぶたびに意味を変えていく。
「…確かにそうだけど…」
本当に目が悪いらしく、裕作と呼ばれた彼――そして、自らそれを認めた彼――は眼鏡をかけているのに更に目を細めて、耕一郎を見た。
 じっ。3秒の睨めっこ。その後にその裕作は
「――誰?」
と、耕一郎の咽喉元を指差す。耕一郎は思わずカッとなった。
「誰って、何言ってるんですか、悪い冗談はやめてください!」
いきなり大声を出す相手へ、悪い冗談を言ってるのは俺じゃない、と呟くあたりはまさに裕作なのに、彼は耕一郎を更に否定したのだった。「…本当に、誰かと間違えてない?」
「間違えるなんて…」
そんなことはあり得ない。
 ああもう!、どうして分かってもらえない?
 耕一郎の胸はもどかしさに押し潰されそうだ。
「俺ですっ、耕一郎です。遠藤耕一郎!」
言っているうちに頭にくる。もともと多少タチの悪いのの一歩手前なイタズラが好きなひとではあったが、こんなに演技をしなくてもいいじゃないか、と思う。
 その必死な様子の相手に、この裕作は思わず吹き出した。そして耕一郎の肩にぽん、と手を遣った。その仕種の慕わしさは本当に耕一郎の知る“早川裕作”なのに、彼はそのままの姿勢で
「あはははは…、ああ、何か面白いひとだな」
涙が出るほど笑った後で
「自己紹介ありがとう。えーと、俺はこのT工大の理工学部2年の、早川裕作です」
と、返してくれた。

 えっ。

「…」しばらく、状況が飲み込めない。
 コノTコウダイリコウガクブ2ネンノ、ハヤカワユウサクデス。
「ええーっっっっ!!」

「ええーっっっっ!!」と、叫んだのは健太だった。
 ――募集要項配布中の看板を見て、健太が「あ、俺、募集要項もらってこようかなー」と適当に言い、瞬に
「お前はセンターで足切られるだけだろ、記念受験以前の問題だな」
と鼻で笑われた。健太の絶叫は、そのふたりの遣り取りに対して裕作が何気なく
「いや、やってみれば?、俺でも受かったんだから」と言った後で起こったのだった。その後で、健太の叫びだった。
 オレデモウカッタンダカラ。
「えっ、何っ?、裕作さんてT工大卒な訳?」
驚かなかったのは瞬だけだった。裕作を初めから天才エンジニアだと知っていた彼は、どうもその経歴くらい軽く調べてあったらしい。
「嘘っ?、本当?」
「嘘よ、この日本の頭脳を輩出する大学の卒業生だなんて」と言った千里に、裕作は苦笑して自分を指差す。「ほら、これが“日本の頭脳”」
「うわ、おもしろくない」突っ込んで、自分の顔に手をやったのは瞬だった。
「裕作さん、何勉強してたの?」
千里は特に意図もなく尋ねた。少しヘンな間が空き、裕作が照れたような笑いを浮かべる。「…さあ何だったかな。忘れちゃった」
 それは、まるっきり嘘をついている態度。
「えっ、だって…」
「まあまあ」裕作は、更に自分を追撃しようとした千里の勢いをやんわり、彼女の肩に手を置くことで交わし、
「さあ、研究室に箒借りに行くぞーっ!」
高校生を元気良く校舎の中へ導き始める。校舎の中にはまだたくさん学生が残っていて、廊下を行くこのおかしな組み合わせのグループを見送った。
 乱雑な掲示物と、少し角の欠けた床のタイル。そこに白い蛍光灯の光が明るい。壁の隅の落書きには、内輪にしか意味の通じない教授の仇名。
「まだこの先生、こう呼ばれてんだ」それを、長身をかがめ、裕作が読み取っている。
 千里は少しの間動けなくなった。さきほど自分の肩に優しく手をかけた裕作の目の奥が、やけに静まり返っていたのだ。笑っているけど笑っていない。
 彼女がそこに見たのは、薄く、破れそうな外見をしているくせに頑丈な障壁。
 何に対してもオープンマインドだと思っていた早川裕作という人間の持つ、数少ない触られたくないところに手を伸ばしたのだろうか。
「千里、早くーっ!」
もうここは明るい場所なのに、みくが裕作の後ろから千里を降り返って叫んだ。

 大学の敷地から出て、耕一郎は裕作に言われるまま、彼について行った。自転車を押す裕作の隣を歩いて、商店街の目抜き通りを行く。
 雑貨屋を通り過ぎたとき、店内から古い曲が聞こえてきた。耕一郎は思わず、懐かしさに立ち止まる。
「どうした?」
「いや…」
 先ほどひとりで来た道を、今度は六年前に遡って裕作と引き返している。順応性の高さだけで特殊任務をこなしてこられたと言っても過言ではない耕一郎でさえ、実に実感の伴わないヘンな感覚を持て余す。
 商店街は既にシャッターを下ろした店が建ち並ぶだけになって、カラカラと、あまり油を注していない裕作の自転車のチェーンだけが音を立てていた。
 裕作は、自転車に乗って通学していた。その学生らしい健全性だけで耕一郎には衝撃なのだが、それを口に出すことはできなかった。SF小説によく出てくる「過去を変えてはいけない」という文言が意識を過ぎる。そのあたりは、自分がこの場所を過去と認めている証拠のように思えた。
「本当だ…」
耕一郎の生徒手帳を眺めて、裕作は感動したらしい。確認するように「“平成七年度入学”、遠藤耕一郎だって」と、身分証明書の文字を読み上げる。
「君が来たのは、何年何月何日?」
その声は素直な好奇心だけを表していた。
「平成九年十月十八日です」
「平成か…。平成ってことは、六年後も今上さんはお元気だってことだね」
裕作は、にーっと、歯を見せて笑った。
 耕一郎も知っている、してやったり、というときの裕作の笑顔。
「あっ」
未来のヒントを与えてしまったことに気付き、耕一郎は顔色を変えた。
「今更気にするなよ。もう君は、俺にだいぶ未来について教えてくれてる」
「えっ」
「まず、君と俺は未来で知り合いらしいね。詳しく経緯は知らないけど。――しかし、ということはまず、俺は少なくとも六年後まで生きているってことだ」
そして、一応確認してみるかい?、と言って、裕作はジーンズの尻ポケットから免許証入れを取り出して、耕一郎に寄越した。
 限定解除の自動二輪の免許証と、大学の学生証が入っていた。免許証の取得年月日は、“耕一郎が言うところの”今から七年前の平成元年。学生証の入学年度は平成元年度だった。
 どちらも眼鏡をかけた真面目な裕作の正面の顔写真。
「…」
こんな真面目な顔見たことないかも知れない…。耕一郎はそっとため息をついた。
 ここが過去だということは、やはり間違いないらしい。

To be continued.

 

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