けれど空は青

 

1.

 4月も終わりに近づいたある日のこと。

 裕作は、付き合いでけっこうな食事の席に出なければならず、愛想笑いと優等生ぶった言動を頭の堅そうな年配たちに繰り返し、くたくたになって自宅に戻った。
「どうもありがとうございました」
送り届けてくれた、運転手つきのクラウンを見送る。黒塗りのその車は勿論裕作の持ち物などではない。遠ざかるテールランプ。
 裕作はかけていた眼鏡を外した。コンタクトを入れているのにその上から伊達眼鏡をかけていたのだ。ただひたすらお偉方にナメられないための、防御壁。
「…」
 オトナになるということがこんなに神経すり減らすことだとは、この早川裕作、最近になってやっと思い知ったことであった。
 それを久保田は狙っていたらしい。彼をこの仕事に選んだとき、
「お前には大した修行になると思うぞ、この丁稚奉公は!」と笑いながら背中を叩いたのだった。その“丁稚奉公”の意味を、そのときはただの冗談と思い、適当に受けとめたのだが今分かった。
 ぺこぺこ。とあるテイクアウト専用寿司屋のキャラクターのように、今の裕作はお辞儀上手だ。まさに丁稚どん。
 組織はつらい。――I.N.E.Tも十分に系統だった組織だったが、あそこは裕作に都合のいい実力主義思想に支配されている。卒業した学校がどこか、歩んできた人生も、すべて現在の働きの前に無意味になっていた。しかし、国の組織は筋金入りの官僚支配下である。
 特定の大学を卒業した一握りの人間が上にいることは、科学発達を促進する目的のあの庁舎の中でも同じだった。
「やっぱり博士まで取らないと説得力ないのかなあ…」
修士過程を終了してメガスーツの開発に参加した彼には博士号がない。そのことを今日暗に言われてしまったのである。
 早川さんは、どうしてこの計画の主任になれたんですか? I.N.E.Tにはあなたの他にも優秀な博士の方々がたくさんいらっしゃるでしょうに。そういう方を押しのけるなんて、やはり天才に肩書きは関係ないんでしょうかねえ…。
 自分を挑戦的に見上げるペーペーの新卒国家公務員。

 ――らしくない。吐き気のようなものを必死に堪える。
 俺らしくない。こんなことは、考えるのやめよう。

 灯りの点いていない玄関先へ目を転じると、最近裕作がエサをやっている白い猫がぼうっと浮かび上がっていた。
 首輪のないその猫が裕作の足許に来て、玄関を振り返った。
「…?」裕作はその動物の視線の先を見遣る。
がたんとガラス戸に寄りかかるような音がして、
「おかえり、裕作さん」
土地を囲む垣根の陰、暗い入り口の引き戸の前から声がした。その暗がりから影が伸びあがる。
「――健太か?」

 健太は黙って、家に通してくれるらしい裕作の仕種に従った。
 真っ暗な家の中。
 玄関から覗き込んだそこは、がらんとして誰もいない。
 誰も――。
「待てよ。電気ーのスイッチー…」靴を脱いだ彼がどんどん奥へ行ってしまう。ぱっと明るくなった廊下を彼の背中について、健太も居間まで行く。
 ふと、本当に裕作はひとり暮らしなんだと初めて気付いた感じだった。
「ひとり暮らしかあ…」――瞬はあれからどうしただろうか。ひとりでこうして暗い自宅に戻って、電灯を手探りしているのだろうか。
「羨ましいなんて、くだらないこと言うなよ」
との裕作に、健太は何か言葉を発しようとして、息を吸い込んだ。「ねえ、裕作さん彼女は?」結局意気込んだ割に、どうでもいい質問になってしまった。
 何だ、急に。笑いの混じった声がそう言って、
「いない。彼女イナイ歴っていうのを日々更新中だ」彼の点けた電灯の環がその表情を明らかにする。「そう言うお前だって何だよ、落ち込んでるときに縋るような女の子いないんだ?」
声そのままに笑顔だったのに、健太は目を即畳に向けた。裕作の言葉が刺さってきたのではない。裕作の状況がつらかったのだ。
「どうして?」
「どうして、って何だよ」健太を座らせて、裕作は台所へ行く。日本家屋のここは居間から廊下を挟んだ向かいが台所で、一度健太の前から彼の姿が消えた。
「モテないの?」
一緒に入ってきていた猫が、健太の脇に座ってじいっと見上げてくる。さっきまでどんなに頑張っても触れさせてくれなかったのに、ここの主である裕作と言葉を交わしたのを見届けたからか、頭に触っても逃げたりしない。
「お前、そういうことを訊きに来た訳じゃないだろ?」ぱたんぱたん、と冷蔵庫を開け閉めする音がする。「――さあねえ。どうせ振られちゃうもん」
「どうして?」なう、と健太の手の中で猫が鳴き、動物の咽喉の震えが伝わってきた。そのか細さに怖くなって、彼は手を離した。
「だから、お前はこれがここに来た本題じゃないだろう」
戻ってきてそう言った裕作の目は、もう笑っていない。「俺に話せないことなら帰りな。うざったいから」
本気ではないが、埒があかないことにイライラして突き放しにかかる。

「…瞬みたいなこと言わないでよ」

恨めしそうな健太の視線。裕作は嬉しくなってしまった。
「なあんだ!」と自分の後方に手をついて、身を反るようにした。「瞬とケンカしてきたのかあ?」
どうせ口の達者な瞬に言い負かされてきたのだろうと思って、急に健太が可愛く思えてくる。しかし、健太はそれを否定した。
「俺は、してない」
前半の文節にアクセントを置く。しかし視線は自信なさそうに俯いた。
「『俺は』?」
 猫が廊下に出て行く。爪の音がちゃりちゃりいうのが聞こえる。「じゃあ誰が?」

「…耕一郎、かな…」

 帰宅した瞬は、健太が寂しく想像した通りに暗い家の中で照明を点けていた。居間のカーテンを閉めて留守電を再生する。精神が異常なほど高ぶっているはずなのに、いつもと同じように振る舞えてしまう自分がおかしかった。
「秘書の立川です。瞬さん、どこに行かれてますか。気付いたら会社まで連絡を下さい」静かな家の中に、録音されていた父親の秘書の声が響いた。その重々しい男の声に続くのは、薄っぺらい機械の声。「――4月X日、午後1時34分」
 けっこう早い時間に倒れたのだと、ぼんやり思った。瞬は荷物とジャケットを適当に放り出すと、ソファに背中をぶつけるように座る。
 続けて2件目のメッセージが再生された。
「立川です」先ほどと同じ声が、慌てて病院の名前と所在地を叫んだ。「早くおいで下さい」「――4月X日、午後2時53分」

「…」彼は座っていた姿勢をそのまま横倒しにして天井を見た。その居間の白い天井が、一度目を閉じて再び眺めたとき、病院の壁に変わる感じがする。
 それからしばらく連絡が取れずに苛々した立川秘書は、社長の携帯電話のメモリーから子息の携帯番号を知り、瞬に直接連絡を取ってきたのだった。

 ――全く有能な秘書だよな…。

 父は、狭心症が悪化した末の心筋梗塞ということだった。瞬が耕一郎に嫌々ながら連れてこられたときには、既に集中治療室の中であった。
 自分にとっていい思い出のない、病院の集中治療室という場所。

 …母親の影が過る。

 誰も近寄れない、細菌さえ彼女を取り囲めない中で、息子を抱き締めることも満足にできず死んでいったひと。――

 

 耕一郎は電車を降りた。住宅街へ黙々と流れるひとに逆らわず、彼も歩き始める。

 それは聖域であったのか、パンドラの箱であったのか。
 とにかく触れてはいけないものに、自分は思いの他不遠慮に手を出したらしかった。

 自動改札に定期券を通す。それを受け取り彼は駅の外へ出た。線路の脇を通ると、不必要なほど明るいホームの照明が洩れて、外気が蒼かった。

 ――並樹瞭子というフルーティストがいた。

 10年前に逝去し、未だにその早過ぎる死を惜しむ声は多い。
 音楽の方面に暗い耕一郎には、その友人の母親の技量を評価する耳はない。
 ただ彼には、生前世界的に知られ、多くのひとがその才能に酔ったのだとしても、彼女を母親として覚えているのはこの世の中にたったひとり、息子である瞬だけなのだということが悲しかった。――この広い世界の中で、ひとりだけ。

 それが一人っ子の背負う運命であるなら、単純に、自分を一人っ子のままにしておかないでくれた両親に感謝できる。今、親が死んでも自分は、彼らの思い出を弟と妹と共有することができる。その時はどうしようもなく悲しいだろうが、時間が経過すればおそらく楽しかったことを語る余裕も出てきて、それを真二と三哉子は自分と一緒に笑ってくれるはずだ。

 ――死ぬということは、どういうことなのだろう。
 どういうことなのか分からないからこそ、ぼんやりとした恐怖に包まれている。それが数時間後に迫った高校生のあの日さえ、実感できないまま涙するのが精一杯だった。
 ただはっきりしていることは、その死という巨大で避けがたい現象は、一旦起こってしまうと絶大な力で、それまでどんなに親密だった間柄をもたやすく裂くということだけだろうか。
 つまり極論すると、会えなくなることだ。どんなに瞬が母親のぬくもりの残るものに触れようと、彼の母親は不可抗力で彼から離れたきりである。
 隔絶。
 それが再び、瞬の身の上にふりかかろうとしていたあのときに、――瞬からしてみれば望んだところで手に入らない――恵まれた環境にいる自分が何を言っても、心に届くはずもなく、無駄だったのだ。

 …“無駄”ならまだいいな…。

 無駄というゼロの影響に止まらない、マイナスの関係になってしまったような気がする。容易にそうなってしまったことがとてもつらかった。

 自分が触れてしまったのが、瞬が自らの奥深くに隠し持っていたパンドラの箱ならば、魑魅魍魎が飛び出したあとには希望が残っているはずだが、果たしてそうであったのか確かめる術もなく、もう勇気もない。
 そして今の耕一郎は、そうすることのできる権利が自分に残されているのかも全く分からなくなってしまっていた。

「…ただいま」
脱力している自分を暖かく、いつもどおりに迎えてくれる既に灯りの点いた家。
「おーにーいちゃーんっ」
妹の三哉子が、玄関に座って靴を脱ぐ耕一郎の肩に掴まる。
「何なんだ」
「だって真ちゃんが、真ちゃんがーっっ」
半分泣いている顔なのに、助けてもらえることを悟っている甘えが見え隠れする表情。
「…お兄ちゃん」一方、弟の真二は玄関を覗いて、妹が長男坊にSOSを出したのを知るや居間へ戻って行く。「…お帰り」こちらも、長男が下のふたりに公平な態度で接することを感覚的に知っている顔だ。
「真二がどうした?」
「三哉子のテープに、勝手にサッカーの試合入れたのっ」ヒステリックな妹の叫び声は際限を知らないように続く。どうやら好きなアイドルの番組を続けて録画していたらしい。それをどうしてくれるのかと憤慨している。
 耕一郎は苦笑して立ち上がった。「真二、何の試合?」

 自分も6歳までは両親の愛情を一身に受け、かしずかれて一人っ子として育った。真二の誕生によって環境は激変し、そのときは兄という立場を意識して受け入れるほど寛容になれる年齢でもなく、小さな胸を痛めて悲しんだりしたこともあったが今では――慣れた。

 自分より年下のふたりがいることにも、兄を務めることにも慣れた。

「マンチェスター」どうして訊くのかというような、少し不思議そうな響きを伴って居間から弟が返答する。
「そんな外国のチームなんか知らないもん」と、三哉子が膨れたのへ耕一郎は謝った。
「…ごめん、真二に録画頼んだの俺だわ」
「お兄ちゃん、ひどーい」ふわりと横を駆け抜ける妹の小さな背中。「真ちゃんもー」
 慣れた、この当たり前の幸福を、友人の不幸と比較することで自覚できてしまった自分は、やはり思い上がっていたのかも知れない。

 しかしこれ以上深く考えることもできず、耕一郎は吐息することで一旦思考を切った。

 

「裕作さん、腹減った〜…何か食わしてくれない?」
健太が後ろに両手をついて、急にくつろぎ始める。すっかり彼に心を許した猫が、その膝元に身を寄せて行く。
 状況の説明をそうして先延ばしにしているのだろうか、と裕作は健太の目を見た。しかし、もとより彼がそんな小賢しい真似をするような人間ではないとも分かっていた。
「俺はすいてないんだけどなあ…」
最も単に現在空腹ではないというだけで、済ませてきたのは、高級であっても嬉しい思いの少ない食事だった。やはり気の置けない相手と食べるのが一番美味しいのだと再確認させられたような席だった。
「そんなこと言わないでー、何か食わせてよお」
「――仕方ないな、分かったよ」
裕作が廊下の向こう側に消えて、冷蔵庫の中身を物色する気配がする。健太は猫を膝の上に乗せた。
「ねえ、笑わない?」
ごそごそと冷たい箱の中を探っていると、完全に視線から逃れたのを確認したようなタイミングで健太の声が聞こえる。
「何を?」
作業の手を止めずに問い返すと、少しトーンダウンした声が理由らしきものを告げる。
「いや…あのぉ――あんまりちっちゃいことだからさ、こんなことで、って思われるの嫌だなあと思って」
 裕作は鍋に湯を張った。「手の混んだことしないぞー?」
 ――今回の原因は些細なことなのか。
「…」考えてみるが裕作には見当もつかない。
「いいよお、何でも」
健太の声は、本当にどうでもいいのだというような響きだった。

 

 瞬言うところの、彼の父親についている“有能な秘書”からの電話は、五人が集まっているところに突然入り込んできたのだった。

 ゴールデンウィークの前半になって、その後半をどうするか話し合おうという、他愛のない集まりだった。
「…みんなと一緒かあ」
カラカラと氷を鳴らしながらみくがストローを回すと、そこにメロンソーダの竜巻ができる。つくづくつまんない、と言いたげである。
「いいじゃない、久し振りにグループ交際もいいもんよ」
千里はみくの隣でウィンナコーヒーのクリームを行儀悪く食べた。「あんたたち、週に一度は必ず会ってるんでしょ。しのごの言わない!、ね?」
瞬とみくの間が五人の中にあって変質しつつあることには、千里はかなり前から確信していたし、その他のふたりもぼんやりとだが気付いている。
「何さー、自分なんて同じ学校のくせに」と、思わずみくが千里へ言ったのを、耕一郎は全く聞こえない振りをした。こんな状況でも顔色ひとつ変えずにコーヒーが啜れるようになったのは、高校時代の彼をよく知る健太には、ひどく成長した姿に映った。

 そう。
 それまでは全員に居心地のよい、いつも風景だった。

 サイレントにしていた瞬の携帯電話に、文字通り音もなく、その知らせは入った。

 着信を画面で確認した瞬が訝しげな顔をする。
「非通知か」
 みくは何気なく――本当に無意識に瞬の方に視線を向けた。
 瞬はそんなみくに気付いて少し目を笑わせる。
 彼に自分の知らないひとから連絡が来るというだけで動悸がする。彼女は恥ずかしく思い、のぼせてくるのをごまかすように、首に巻いている青いスカーフに手を遣った。
「…はい、瞬です」と答えたきり、機械を耳に当てたまま彼は黙りこくった。彼のスピーカーからはその向こうで喋る男の声が大きく洩れてきて、他の四人の耳にもはっきりしないそれが雑音として届いた。
 瞬は最後に、分かりました、とだけ言って通話を終えた。へんに平らな声音だった。
「どうしたの?」
尋ねられて、
「…親父が入院したらしい」と、その平坦な声で答えることができたが、表情もどこか虚ろだった。

 空気の流れがゆっくりしてきて、それに巻き込まれたように瞬も止まってしまった。

 最初に動いたのは耕一郎だった。
「お前は何をしてる。行け」
「?」
瞬は、そう言われても何がなんだか分かっていないらしかった。ただ耕一郎を頑是ない子どものように見る。「どこに?」
 その問いはいつもの瞬らしい冗談でもなく、本当の問いだった。驚いて、千里が彼の顔を覗き込む。
「今の電話誰からだったの?――病院がどこかとか、言ってきたんでしょ?」
「…」
このままでは埒があかないと見た耕一郎は、テーブルの真ん中にある伝票を素早く掴むと立ち上がった。「出よう。瞬、どこの病院だ?」

 瞬の父親が国内に居付くようになってから半月ほどになるが、その間に訪れた4月20日を、彼は父親と一緒に過ごした訳ではなかった。

 4月20日は、母親の命日だった。

 臨終がこの日だというだけの意味しか持たぬ命日。
 意識のない状態が長かった母のことで、瞬にはいつが命日なのか感覚的によく分からないのだが、彼はとりあえず周囲がそう定めた日に従い、初めの数年は父親と、父親が外へ出ることが多くなってからはひとりで、その日と月命日に必ず墓参をしてきた。
 毎日線香をあげる訳でもない彼の、母親にする唯一の供養らしきことだった。
 今月20日のその日は、朝食のテーブルで父が何か言いたい顔をしていたのには気付いていたが、瞬のほうが目を合わせなかったのである。今更になって父親などと、母の死を語ってどうするのだと思った。
 湿気るのは好きではない。
 母の死は既に事実として受けとめられていることであって、涙ながらに語るほどの生々しい悲しさを未だ伴っている訳ではないのだ。かと言って、瞬の心にそれは軽くなったということではなく、既に何がしかの化石のような重たいものに変質しており、柔らかさを感じることはなくなっただけである。
 父の意図は分からないが、せっかく自分の中で整理されたことを、彼の言葉によって再び乱されたりしたくはない。
 そして、母親の思い出を共有するそれ以前に、彼は父親との話し方が分からなかった。

 ――愛されているのは分かっている。
 息子として。――そして、かつて彼が愛していた女性の忘れ形見として。

 ただ、その厚意の返し方が分からない。
 自分では、口にするべき言葉ひとつ、とるべき態度ひとつ見当もつかない。それどころかそうすることを拒絶さえしたがる。

 せっかく耕一郎が設けてくれた好機さえも蹴ってしまった。

 瞬はソファに、完全に自分の身体を乗せた。そして、死人のようにみぞおちで手を組んでみる。そのまま目を閉じると、やすやすと病院の廊下がフラッシュバックしてきて彼の頭を占領した。

「俺がどうしようといいだろう。俺は帰る」
「帰る?」そこで耕一郎は呆れたように短く吐息した。「あそこにいるのは、お前の父親というひとなんだぞ」
「父親?」言いながら自分でも視線が下向いて、耕一郎の強い目線を受けられなくなっていることには気付いていた。それは、このままでは絶対に言い負かされるという予感だった。
「帰ってきたと思った途端、こんなことになるのが父親か。ずっと離れていた俺にいきなりそんなこと。――卑怯だろ」
 道徳的に耕一郎の言うことすべてが正しかった。いつでもそうだった。今までも正しく、たぶん今日のこの時も正しかった。
 理性では分かっていた。ただ、従いたくなかっただけなのだ。
 それも、耕一郎に従いたくなかったのではなくて、ともすれば自分の中に芽生えてしまう家族愛のようなものに――。
「瞬、言いたいことはそれだけか?」
自分が心からわめいたことだったのに、眉も動かさず、耕一郎はその一言によってすべてを無に帰してしまった。
 それは瞬に最大の屈辱を与えるにじゅうぶんだった。彼は、即座に嫌悪の対象となった耕一郎に対して湧き上がった爆発的なエネルギーをそのまま言葉にした。
「それじゃあ言うが、これ以上俺に構うな。帰れ」

 父親に応えたくて、その方法が知りたかったはずなのに、それを目の前で教示されると身体が言うことをきいてくれない。
 耕一郎は、眉間にほんの一瞬だけ哀感の曇りを浮かべただけだった。そして彼はそのまま自分を凝視し続けた。

 耐え切れなくなったのは、瞬のほうだった。

 そこで彼は目を開けた。
 あたりは目を閉じる前と変わらず、白々しい蛍光灯の光に包まれている。その眩しさに瞬きすると、睫毛の陰に景色が曖昧になる。

 死ぬとはこういうことなのかも知れない。
 死んだ人間は死んだことに気付かずに、永遠に生前と同じ景色の中に存在し続けるのかも知れない。――そこまで思いついて、瞬は慌てて自分の考えを打ち消した。

 俺はまだ生きているんだっけ…。

 

 裕作は、健太の前に丼を置いた。湯気が上がっているそれには、たっぷりしっかりダシをとった汁に、つやつやした平たい饂飩。急にリクエストしたのに、長葱と揚げ玉もちゃんとある。
 見た目がきれいで、裕作が本当は几帳面なのだということが窺えた。
「こんなにちゃんと料理できるひとには嫁さん来ないよ」いただきます、と早速箸に手を伸ばす。
「召し上がれ」裕作は俯いた健太を眺める。
 話すだけ話せば、少しでも彼の気が楽になるかと思ったのだが、相変わらず健太の表情は硬かった。「料理上手の夫。いいじゃないか、それ」
 猫が健太の膝を降りて、畳を横切ると廊下へ出て行く。
「――無理しなくていいよ。しばらく結婚する気ないんだろ」
裕作は、自分の考えを看破されていることに溜め息した。話題を戻す。「それで、ちさっちゃんとみくちゃんはどうした?」
「さあ」と健太は言ってみたが、見当はついている。どうやら裕作も同じ考えだったようで慰めるように優しく言った。「いいね、女の子は器用でさ。――即座に自分の立場を決められるんだから」
「…」
本当にそう思う。
 ずるずると彼は麺をすすった。ふんわりしたいい香りが漂う。

 健太は、耕一郎と瞬のどちらにも決められなくてここにきてしまった。

 争点が曖昧で自分が勝手に解釈してはいけないことだと思ったのもあるが、それ以上に、ふたりのそれぞれと自分がどれだけ深く関わったのか、今までのこと全部が押し寄せてきて、何も考えられなくなってしまったのだ。
「健太、結局お前はどうするんだ?」
もう五人に、五人でいなければならない理由はない。
 ――彼らはもう最終兵器ではないのだ。I.N.E.Tは相変わらずの追跡をしているが、次なる地球外生命の来襲はなさそうだ。
 だから寂しいことだが、遅かれ早かれ別離は訪れたかも知れない。裕作は健太から目を外した。
 ずるーっと健太が麺をすする音だけがして、それだけがのどかだった。
 猫が玄関の方で鳴いている。外へ出たいのだと思い、裕作はそれに応えるべく立ち上がって行く。
 誰にも止めることのできない時間の流れというものが、五人の身の上に変化をもたらすのは自然なことである。全く違う人生を選び取ろうとしている彼らが、いつまでも束でいられる訳もないとも思う。実際に裕作は、五人よりも少しだけ長く生きてきた中で、人生が決定的に分かれる岐路に立ち、その分岐点で、それまで親しくしていたひとたちとの別れを経験していた。

 戸を引いてやると、猫は裕作を少し振り返るようにしたが、すぐに暗闇へ白い体を溶け込ませる。
「じゃあなー…」裕作は、いつもこうしてこの猫を送り出すたびに、こいつが明日も同じように姿を現す保証はないのだと思う。
 どこへ行くのも自由。
 この猫と同じだろう。
 今までは奇跡的に、見返りや約束のない関係が、お互いを信じる気持ちだけを仲立ちに成立していた。しかし今日、これからそれを確約するものはなくなったという話である。
 裕作は廊下を居間へ戻った。

 先ほど健太は、些細なことだと笑わないでくれと言った。――しかし、この問題のどこが些細なことなのだろうか。

 完全に擦れ違ってしまった事実を受け入れなければならなかった健太の心に、このことが些細であるはずはない。
 自分が全く悪くないのに傷ついたままの彼を、裕作は再び眺めた。
 別れることなど今まで一度も想像しなかった五人にとって、こんなにも性急なことが、別離の契機になるとは信じられないのだろう。
 しかしその可能性はあるのだ。そうまで悟りながら、勿論裕作はそれを口には出さなかった。

 

 千里は、写真の道具を背負って自宅を出たところであった。
 しかし、写真を撮るつもりでそうしているのではない。
 道具を持っているのは両親へ事情を説明するのが面倒で、外出の理由を「写真を撮りに行くから」というだけで済ませたかったのと、耕一郎を、彼の自宅近くの高台に呼び出すつもりだからである。
 シャッターをしばらく開けて写真を撮るから一緒にいてくれと言えば、彼はいつもなら必ず来てくれる。いつもなら。――ただ、今日に限っては、その自信もない。

 すべてを拒絶した瞬の横顔と、それに傷ついた耕一郎の顔。周囲のざわめきの全く聞こえなくなってしまった病室の前。
 無機質の白い壁だけがリアル。網膜から離れない景色として残っている。

 今頃、健太とみくはどうしているだろうと、ふと思った。
 当事者となってしまったふたりがそれぞれ違う方向に場を外した後、健太は中立を守ってか、それとも単にその空気から逃れるためか、ふらりと何も言わずにいなくなってしまった。引き止める理由も言葉も見つからず、千里はそのまま健太を見送った。
「みくは、これからどうするの?」
「分からない…」
 “分からない”なんて嘘だ、と千里は即座に思ったが、それを質して何になるだろう。
 みくとは結局、そのまま上手く言葉を交わすことができずに病院の前で別れた。――同じ電車の帰り道をばらばらに帰る不自然さ。千里はみくと顔を合わせないように本屋で時間を潰しながら、そのことを噛み締めた。
 耕一郎と瞬がどうなろうと、自分とみくの関係には何も影響はないはずなのに、どうしてなのかひどく中途半端な気持ちで、無理に間を断ち切られたような感じがする。

 そして今。
 対立と呼ぶには相応しくないほど曖昧な状態なのに、それでも自分ははっきりと耕一郎の味方になりたいらしい。――少し前ならこういう考え方が大嫌いで、思いついただけでも恥ずかしかったものだった。
 駆け出して自宅から足早に遠ざかり、駅の近くまで来て耕一郎に電話をするあたり、つくづく自分は変わったなと思う。そうすることがちっとも嫌じゃない。
 数度の呼び出しの後、彼が応答した。
「千里か?」
予想以上に声はしっかりしている。何だか嬉しくて、初めから彼にかけているのに
「耕一郎?」名前を呼んでみた。
「何だ?」柔らかい問い返しの声。

 ――耕一郎にはある種の哲学のようなものがあると、千里は思う。

「暇でしょ、また付き合って」
「暇な」薄く笑うのは自嘲の声だった。「…そうかも知れない」そして耕一郎は、珍しくぼかしたようなことを言った。「何もできることがないからな」
 哲学として確立されているのか、また、それを彼が意識しているのかどうかは分からないが、彼を見ているとそのスタイルにすぐ気付く。
 遠藤耕一郎というひとは彼女が知る限り性善説のひとで、自分が傾けた愛情の分だけ、それと同等の量がその対象から戻ってくると思っているようなところがあるのだ。
 だから、仮に相手に裏切られるようなことが起こったら、一旦はとても悲しむのだが、その後何故か耕一郎の中の図式は、相手よりも彼自身が悪いことになってしまっている。
 自分の気遣いが足りなかったから、という理由で。――たぶん今も彼は、今まで並樹瞬という人間に自分がかけた友情の質について疑っていただろう。
 その不器用な流儀を、彼にはこれからも固執して欲しいと強く願う。彼が、それを貫くことでこれからも報われ続けますように。
 自分だけはその優しさに応えて、彼の、たぶん無意識の論理が正しいことを証明していきたいのだ。
 最もその方法たるや、全く思いつかないのだが。――ただ顔が見たかった。
「分かった。行くから」
少し呆れを含んだような声がそう言って通話を切ったのへ、千里は安堵のあまり脱力する。

 

 みくは、瞬の家の最寄駅で電車を降りた。
 あれからすぐ言葉もなく散り散りになった他の者が、それぞれ今どこにいるのか彼女は知らない。それを知りたいと思えるほどの余裕はなく、ただひたすら彼女には瞬だけが気がかりだった。

 瞬は、あの場にすべてを置き去りにしてひとりで姿を消した。それまで大切に思っていたはずの友人と――彼だけを頼りにしているだろう、たったひとりの肉親である父親さえ置いて。

 果たして瞬が家に戻っているのかも分からないが、いないならいないで、みくは彼が戻るまで玄関先に座り込むつもりである。

 ――俺がどうしようといいだろう。俺は帰る。

 病院の廊下の空気は、瞬のたった一言で静寂のままたちどころに変質したのだった。
「…」
あの息を詰まらせる気まずい雰囲気を思い出して、みくはまた苦しくなった。

 ――瞬、言いたいことはそれだけか?
 ――それじゃあ言うが、これ以上俺に構うな。帰れ。

 いっそふたりが殴り合いでもしてくれたほうが精神的に楽だったと思う。しかし耕一郎は、その決定的最後通告に対して相手をより深く凝視し、瞬もそれを見返しただけだった。

 重く沈んだ気持ちを振り切るように、彼女は歩くスピードを上げ、それにつれてカツカツというヒールの音が暗がりで響いてゆく。
 静かな夜だった。空は晴れていて、ただ紺色の夜空が膜のようにみくを取り囲んでいる。
 閑散とする住宅街のアスファルト。
 銀色の街灯の下、大きな犬を散歩させているひとが遠くに見え、みくは以前に瞬と交わした会話を思い出していた。

 二週間前にふたりで会ったときのこと。――

「瞬も何か動物飼ったらいいのに」
桜が目当ての上野散策だったが、しばらく歩いた後でみくが動物園に行きたいと言い、結局パンダを見ていた。
 その日は新学期が始まったばかりの平日で、子ども連れがほとんど見えず、空いた動物園の中をふたりは悠々と歩く。勿論、人気のパンダ舎の前も誰ひとりいない。ガラスの向こう側で、パンダがごろごろと転がっているのがよく見える。
 桜を透かした日差しは薄紅色で、とても柔らかく優しかった。
「俺にパンダ飼えって?」と、彼が笑って言う。
「違うよ。犬とか、猫とか…ちゃんとお家の中で飼えるもの」常々ひとりであの家は大き過ぎると言っているのを思い出して、何の意図もなく、ふと口に出したことだった。
「飼わない」しかし瞬の声が急に厳しくなる。「絶対に要らない」
「えっ…」
見上げたみくの驚きの表情が鏡になり、やっと瞬は自分の様子に気付いたらしい。慌てて視線を和らげた。「悪い」
「どうして?」
「…」彼がそこで少し言いよどんだのは、自分に対する気遣いだったのだろうか、それとも心を少しでも暴露しなければならなくなったことへの抵抗だったのだろうか。
 パンダがごろりと寝返りを打つ。
「――だって、俺を置いて、先に死ぬから」
 その一瞬だけ強く、何か黒いものが彼を覆ったような気がして目を細めるけれど、
「…瞬?」
逆光が瞬の表情を暗くして確認させてくれない。みくは突き放されたようにその場に立ち尽くしてしまった。
 次の瞬間、
「さあ次っ、孔雀」
急にぐいと手を引かれた。嘘のように彼の声は再び明るい。――
 風景も色を戻している。桜色の幸福な景色が、また急速に彼女に近づいてきた。
 その声に視線を向けると、いつものスニーカーが歩みを刻むのが見えた。背中にあるのもいつもの登山メーカーのリュック。
 その、ごつごつと逞しい訳でも折れそうに華奢でもない後姿に、また振りまわされている。
 そう思うのは毎度のことで、会っているときに何度も思うことでもあったが慣れることはなく、その度に悲しくなるのが常だった。
 彼女は、彼に必要とされていると決定的に思えたことがない。

 ――好きだって言われたことないもの。

 いわゆる両想いなのか未だ片想いなのか、その区別のあまりない状況で、みくがいつでもどんな些細なことでも、彼に関することなら敏感なのも相変わらずだった。それは彼にどうしようもなく都合のいいことなのかも知れない。
 結局いつも瞬が有利なのだ。
 黙り込んでしまったみくを、瞬が振り返った。
「…どうした?」急に静かになって、と首をかしげる。
 冷たくされるよりも、不意に優しく尋ねられるこういうときのほうが、最近は痛かった。覗き込もうとする視線からみくは逃げる。「…うん、何でもない。行こう」

 ――

 堅牢な門構えの前で、みくは震える手で襟元の青いスカーフに触れ、それから人差し指を無理にピンとさせて、ボタンを押した。
 そしてすぐに、この世のものとは思えないほど軽やかで、今の彼女の気持ちにそぐわないチャイムの音がする。

To be continued.

 

home index next