けれど空は青

 

2.

 目が覚めた。――ソファの上、みぞおちで手を組んだまま。
 だんだんと意識が現実に呼び戻されてきて、電話が鳴っているのを感じ取り始める。どうやら瞬はその音で覚醒したらしかった。
 音は、そのままの調子でけたたましく重なり、この空間いっぱいに堆積するように鳴り続ける。
「…」
瞬は視線をそちらに向けただけで出られなかった。相手の予想がつくからこそ出られなかった。
 やがて呼び出し音が止み、留守録の応答メッセージに切り替わるが、それを皆まで聞かずに相手は苛立った雰囲気で通話を切った。そしてすぐに、彼のリュックの中がガタガタ言い始める。――次に瞬の携帯へかけているらしい。
 一度は回避できた現実へ、どうせいつかはきちんと向き直らなければならない。そのチャンスはこうして向こうから勝手にやって来る。
 電話に応答さえすれば、その後の道は自ずから父親へと続いていくのだと分かってはいるが、まだ身体が拒否して、理性に押さえつけられるのを嫌がっている。
 サイレントにした携帯が闇雲に暴れるその音もやがて止んでしまった。

 テーブルを挟んだ向こうにある一人掛けのソファには、クマの縫いぐるみが座っていて、そこだけが異空間のように切り取られ鎮まり返っている。
 瞬は視線を天井に戻して吐息した。
 その縫いぐるみは死んだ母親が遺したもので、所謂“形見”と言えるものだが、所詮生きている訳ではなく、あれがこちらにどうこう働きかけてくれはしない。そんな当たり前のことを、また眼前に突きつけられた感じだった。

 そう、こんなときに慰めてくれもしない訳。

 母親が存命であっても、普通の家庭のように帰宅すれば必ず出迎えてくれるような環境にはならなかっただろうとは思う。
 しかし、留守と死亡しているのとでは、同じ不在でも違う。

 まあ、あれが瞭子さんの…?
 そんな囁き声と、自分に母親の音楽的才能が受け継がれていることを期待する視線。
 母親が死亡してから、そんな煩わしい他人の好奇心に曝された。
 曝されたのだ。――そして、そういった作為的なものをずるく交わすことを、幼いときから身につけてしまった。
 父親さえ傍にいて、自分を守ってくれれば、こんなふうに素直じゃない自分に悩んだりしなくて済んだだろうに。
「…」
 今更望んだところで、口に出さない限り仕方のないままの話。堂々巡りのメビウスに捕まるだけである。

 また電話が鳴り始めた。
 耳が音を捉えると連動するように心臓が潰れそうになるから、まだ自分は父親に対して何かしらの希望を抱いているのだと思った。
 まだ傍にいて欲しいのだ。逝ってもらいたくない。

 ――愛されているのは分かっている。
 息子として。――そして、かつて彼が愛していた女性の忘れ形見として。

「あそこにいるのは、お前の父親というひとなんだぞ」
 そうなんだよな。
 そうなんだよ。
 耕一郎の言葉が、最初に病院で言われたときよりずっと重く圧し掛かり、出るか出ないか迷っているうちにベルは切れた。

 次は出よう。

 その決心がついた途端に、わだかまってくるもの。安堵に似た、緊張の切れ目を狙って突き上げるそれを、瞬は必死に押さえつける。
 10年前からしこりになっているものが、急速に息づいて、彼は上手い処置方法が見つからずに苦しくなった。
 胸の中でのたうちまわるそれに翻弄されるように、瞬は寝返りを打つ。

 その状況に不似合いな音が、不意に割り込んできた。来客がおとないを告げるチャイムだった。

 

 チャイムを押せば、まずはインターホンで瞬が応答すると思ったのだが、あっさりとドアが向こうから開いて、みくは思わず一歩下がった。
「瞬…」
そこまで気が回らないのか、瞬は裸足で玄関に下りていた。
 着ているシャツにヘンな皺がついていて、みくの目の前でやっと崩れた前髪を掻き上げて見せるあたり、帰宅してからの彼がしゃんと椅子に座っていたような訳ではないことを思わせた。
「帰ってたんだね」
入れてくれる?、と遠慮のないふりで、みくは瞬を見上げた。
「…」
みくに対して口のきき方を忘れたように、彼は何も言わなかった。みくが中へ踏み込んだのを見てドアを閉じる。

 奥から不意に電話の音がした。

 先に反応したのは彼女だった。
「瞬、出なきゃ」みくの手が、瞬の腕に触れた。
 触れられて、
「ほら、早く出なきゃ。ね?」更に覗き込まれる。

 出なければならないことは分かっている。先ほど自分で決めたばかりだ。
 しかし、これはどういう電話なのだろう。
 父親は自分の許に留まるのか、行くのか。

 だから、傍にいて欲しいだけなのに。
「…みく――」
彼は、優しい配慮もない自分勝手な抱擁で、今自分の傍にいるものを腕の中に留めようとした。
「瞬…」衣擦れの音に襲われて、自らが相手を呼ぶ声も打ち消される。
自分と彼を支えようと、堪えきれず下げた右足のヒールが硬質のタイルにぶつかって、かつーんという、予想外に大きな音を立てた。
 それでも立っているのがやっとの体勢で、みくの背中はスチールのドアに強かに打ちつけられる。驚愕で痛さは感じなかった。
「…」

 名は体をあらわすという。

 “並樹瞬”という名前のこのひとを、星が瞬くような輝きを伴ったイメージで、いつも眩しく見つめていた自分すら遠ざかる。
 みくは瞬きもできず、瞬の肩越しに、暗い向こう側へ続く廊下の先をただ茫然と見つめた。自分が目をほんの一瞬閉じるだけの衝撃でさえ、彼を壊してしまう気がして。

 電話の音が止んだ。

 すると、ギリギリと、嫌な音が耳のすぐ近くで聞こえるのをみくは感じた。
 やがてそれは、深くなる彼の呼吸と交代して、切れ切れになっていく。咽喉に突き上げる塊を押さえ切れず、時折声が混じる。
 ともすれば漏れそうになる嗚咽を、ぐっと堪えているのだ。
 まるで別の生き物を身体に抱え込んでいるように、彼は体中をガチガチにして、暴れるその者を力ずくで押さえ込もうとしている。
 初めてみくは気付いた。
「私、瞬の『涙は嬉しいときだけにとっとけよ』っていうの、すごく好きなんだけどね――」
 いつも自分が泣く度に彼がかけてくれた言葉。しかし本当は、そのように他人を慰めるために存在する言葉ではなかったのだ。
 この言葉は、彼自身が負の感情を発露させてしまうのを防ぐ、最大最強の装置だったのだ。
 若しくは、呪い。――彼が彼自身に呪縛としてかける言葉。
 少し瞬の身体が重くなった。みくは、片手に握ったままのバッグの柄を離すと、改めて彼の背中を抱き直す。とすん、と足許に荷物が転がった。
「ねえ瞬、知ってた?」
彼女のこの質問への回答ではなくて、この質問に続く彼女の言葉を打ち消すように瞬はみくの肩口で頭を振った。
「言うな…」
すっかり頼りない今の彼の気持ちのように、語尾は掠れてなくなっていく。まだ残る彼の自尊心を守りたいと思ったが、彼女はその言葉を無視した。
「泣いてもいいんだよ、どうしようもなくなったら」
みくは出来る限りの力を込めて彼を抱き締める。衣擦れの音と、脂肪の薄い彼の肩の感触。髪の先が、さくさく頬と首のあたりに触れてきた。
「じゃないと、破裂しちゃう…」

 諦めたような彼の吐息。
 10年前、父親によってかけられた戒めが、今解かれる。

 ――瞬、涙は嬉しいときだけにとっておきなさい。だから今は泣くときじゃないんだ。分かるな?

 

 耕一郎は、丘の上へ続くコンクリートの階段を一段ずつ飛ばし、早足で登っていた。
 千里に呼び出されたことで、弟と妹にかまけるかたちで考えるのをやめていた瞬のことを、再び眼前に突きつけられたようだった。
「…」
歩調を緩める。左手をポケットに入れた。
 とうとう立ち止まり見上げると、ここ数日晴れ続きだった夜空は大気が決して澄んでいる訳ではなかった。
 その空に、千里の自分に対する配慮が見えた気がしたが、彼はそれをそのまま信じてしまう図々しさを持ち合わせていない。
 黙って再び階段を上がり始めた。

 瞬の、すべてを拒絶する視線が、まだ自分を刺している気がしてならない。
 そしてその、今日と同じ彼の目を、3年前にも受け止めたことがあるのを思い出した。

 ――あと6時間だぞ、やり残してることをやっとかなきゃ、それこそ諦めがつかないんだよ!

 あのとき彼は、自己願望が達成されれば死ねると本当に思ったのだろうか。
 自分を取り巻く全てから隔てられたところ――二度とこちらへ戻れないところ――へ行ってもいいと思ったのだろうか。
 詩的表現をするならば、そこは、彼の母親のいるところということになるが、そうした幻想を瞬が信じていたとは思えない。

 下から上――風が上がり、耕一郎がそれを見送るように視線を移動させる。電灯の下、更に頂上へ向かってカーブを描いていく踊り場に誰かが立っていた。
 向こうも耕一郎を認めて、寄りかかっていた手すりから身を起こす。
「耕一郎、おっそーい!」
千里だった。
 実は彼が心配で、下まで様子を見に来たのだが、彼女はそんなことを告白する訳でもないし、耕一郎もそうだとは思わない。
 ただ、彼女の態度に変わったところがなくて嬉しかった。
「ごめん…」
彼は言いながら、階段を駆け上がる。
「遅いよ遅いよー」
反対に千里は下って彼に近寄りながら、張り詰めていた心の奥が氷解するような気がした。 しかし、それは自分だけなのだということにも気付いた。
 ただ自分が彼の顔を見て安堵しただけなのだ。自分と会うということは、耕一郎の問題の根本的解決に全く関与することはないだろう。

 あくまでも瞬じゃないと何にもならないんだよね。――瞬のばか。

 耕一郎の足の位置より、二段高い場所。千里は、同じ目の高さから真っ直ぐに彼の顔を見た。それを、自分を咎める視線だと思ったらしい。
「悪かった」と、律儀に重ねて謝られ、無力感に苛まれる気持ちを千里は無理に浮き立たせた。
「お腹空いちゃった、何か食べようよ」
「お前、写真は?」
千里は空を指差した。
 先ほど耕一郎も見上げた、済み切っている訳ではない空である。「撮っても仕方ないでしょ」
 そう言ってしまってから、じゃあどうして俺を呼んだんだ、あれは嘘かと訊かれると思い、次の耕一郎の言葉まで千里はハラハラしたが、彼は何も言わなかった。
 ただ千里を回れ右させると、彼女の背中に重い、カメラを入れたリュックを取り上げて、背負ってくれる。
 千里のレスポのリュックは派手な花柄で、耕一郎の背中では明らかに浮いていたが、それがかえって彼女にささやかな支配者意識をもたらした。まるで大きな犬にハーネスをつけて、幸福な安心感を伴って連れ歩くような感じ。

 耕一郎がリュックサックを背負ったのを、前に見たのは大学受験の日だった。

 あの日、守ったはずのもの。
 この静かな空の下と仲間を、自分たちの将来と引き換えにしても構わないと思った。
 全くの無謀さを久保田は叱ったが、その優しい心配を蹴ってしまえるほど、あのとき、自分たちは幼く無邪気で、根拠のない自信に満ちていた。
 絶対に三人を取り戻せると思って、疑いもしなかった。年長者が見れば虚勢だと思うほど。
 千里は先行して階段を下りる耕一郎の背中を見た。
 ――守ったはずのもののひとつが、今はすっぽり、手の中から抜け落ちている。
「千里…?」
ついてこない彼女をいぶかしんで、耕一郎が振り返った。
 このままなのだろうか。
 五人は、ふたりとふたりとひとりのパーツになったままになるのだろうか。
 それは嫌だと強く思うが、そのまま言葉にして耕一郎に伝える訳にはいかない。
 どうにもならない気持ちを抱えた千里の身体は、耕一郎の前まで駆け下りて、そのまま彼にぶつけられた。
 すると、勢いの余った彼女の肩先が耕一郎の顎にきた。
「あ、いってー…」
そのまま何か言おうとしたが、彼は抗議の言葉を飲み込んだ。千里の震える呼吸にかけてやる言葉など浮かぶはずもなかった。
 ただ、茫然と彼女を受けとめる。細い身体に自分の腕が余っていた。
「こおいちろお…」
「はい」
間が持たなくて返事をしてみる。それが可笑しくて、千里はひとつ笑い声を立てると彼から離れた。
 そして、また思う。

 瞬のばか。私がここにいても、何もならないんだってば。

 

「白けているだろう」
みくの向かい側でテーブルに上半身を伏せたまま、顔だけ横を向けた姿勢で瞬は尋ねた。いじけてる猫みたい。何だかおもしろくて、みくは少し笑う。
「私は白けてなんてないよ。それは、瞬のほうでしょ?」
瞬はずっ、と鼻をすすった。身体中が感じたことのない重苦しい倦怠感に包まれており、目が乾いて熱かった。
 泣くという、感情を浄化させる作業を、彼は十年振りにしてのけたのだった。
 ――その結果がこのザマだ。
 よく女の子はこんなに疲れることをいとも簡単にするものだと、おかしな感動が起こるほど疲れていた。特にみくはよく泣き、よく笑う。そのことに今では尊敬すら覚える。
「お腹空いたでしょう?、何か食べられそうな気分?」
優しい声音だった。決してそういう心境ではないが、食べなければ自分が倒れるかも知れないという脅迫観念に、そのままの姿勢で頷く。その拍子に額へ下がってきた髪を、彼女の白い指がまた掻きあげてくれた。
 周囲は全くの静寂。
 慌てて瞬は目を閉じる。そうしないと、彼女の優しさにぶつかって、また泣きそうだった。
「…飯食ったら送ってくから」まだ電車がある時間だけどバイクでいいよな、と相変わらずの姿勢で訊く。
「うんっ」弾んだ声が聞こえた。普段、乗せてやらないから喜んでもらえたらしかった。最も今日は、彼女を送った後で行くべき場所を思い出したから提案したのだが、それは敢えて明らかにしないでおく。

 

 お前はどうするのだと尋ねられ、
「分かんねーよぉ…」という結論の割に、健太は裕作に答えを求めるような目をする。分からないのではない。教えて欲しいのだ。
 だから言ってやった。
「待てば?」
 それなのにまだ、世の中すべてから見放されたような、ダンボールに捨てられた犬のように頼りない瞳のままで健太は裕作を見つめてくる。
「――しっかりしろよ」可哀想だけど、思わず笑ってしまった。
 健太がここまで落ち込むのは、彼のアイデンティティというものが、耕一郎と瞬の存在によって際立っていたからである。じゅうぶん自立しているのに、ふたりに支えられていたという心地良さがいきなり取り払われて、立っていられないような錯覚に囚われているのかも知れない。
「というか、お前には、今俺の言ったことを拒否するという選択肢はないな」。
コップのミネラルウォーターを飲んだまま、視線だけで健太は話を聞いていた。
「耕一郎も瞬も、信じるに足る奴だからお前はずうっと一緒にいられたんだろう?」
「…うん」
「じゃ、信じて待つ。な?」さすがの裕作も、一体いつまでそうしていたらいいのかまでは保証してやれない。
 ただ確かなのは、自分も健太と同じように待つことしかできないということだった。

 健太は裕作を、やはり見上げるだけだった。――この裕作の態度が、自分の中にしっくり入って来ない。
 理由は分からないが、ただ、これがここに来た理由ではないような気がした。こう言ってもらいたくてここに来たのではないと、胸の奥底から衝動が湧き上がる。

 裕作が健太の前から丼を片付けて、また姿を消した。彼は意図してそうしたのではないだろうが、それは健太をひどく落ち着かせた。そのやっと沈静化した胸の内で呟いたのは、
 俺、完全に甘えてた。
 ――ということだった。
 吐息して、兄貴分にこれ以上助言を求めるのはやめる。

 

「瞬、本当にひとりで大丈夫?」
みくは、自宅から少し離れた幹線道路の脇道でバイクから降りた。
「大丈夫じゃなかったら、もうこの十年の間にどうにかなってるはずだろ」バイザーを上げて彼は笑ったが、それが既に虚言に近い強がりになっているということは痛いくらい思い知っていた。
 みくは自分の首からスカーフを外した。「瞬に、これあげる」恥ずかしそうに笑って広げたのは、風になびくとそのまま闇に融けていきそうな、青い真四角の絹。
「何故?」
「お守りに」
彼女が瞬の首にそれをかけようとしたので、彼はフルフェイスを取った。頭を振ると、少し汗ばんだ髪に、すっと風が入り込んできて心地良い。
「知ってた?、青い色のものって、幸せを引き寄せるお守りなんだよ」
「…ちょっと待て。それは花嫁の“幸せ四原則”じゃないのか?」新しいもの、古いもの、借りもの、青いものを身につけて嫁ぐと結婚式に臨むと幸せになるっていう、と笑いを含んだ声で言いながらも、瞬は彼女の手の動きを俯いてじっと見ていた。
 彼女の仕種はすべて、自分に優しい。
「じゃあ、要らない?」
完全に結んでしまってから、みくが言う。間違いを指摘された自信喪失ではなく、じゃあ瞬は私に賛同してくれる訳ではないの?、というトーンだった。
 その声の調子で、誰が言い出したのではない、これは彼女のオリジナルなのだと瞬は気付いた。
「いや…」結び目を首の後ろに回してくれる彼女の仕種に、抱き締められるプロセスの途中にいるような切ない錯覚に陥る。
「鰯の頭も信心から、信じるものは救われるって言うから。でも」
切れ切れ首筋に触れる、彼女の冷たい爪の先。――「俺がこれをもらうと、お前の持っている幸福の絶対量が減るんじゃないか?」
「ううん」
彼女は否定したが、瞬は気が済まなくて、みくの肩を掴んで引き寄せた。歩道のブロックから車道に急に引き戻されてふらついた彼女の視線を、瞬の明らかな企みを宿した目が捉える。
 驚いて見開かれたままの瞳を、唇で閉じさせた。「ありがと、みく」
 そのくちづけは、結果として幸福量の還元ではなくなってしまった。結局自分が彼女にもっと縋っていたいのだと気付くだけだった。瞬はヘルメットを被りざま、笑いを含んだ声で言う。
「俺って、カッコ悪い」

 

「結局泊まりやがったー…」
裕作は、玄関にまた戻ってきた猫を抱き上げて暗い居間に戻った。電灯を消したそこには、二つ折りにした座布団を枕に横たわる健太がいる。
 話が済んだのは、まだ電車が残っている時刻だった。それからその話題に全く触れようとしないで、彼はただ、だらだらと居続けたがった。帰り道が寂しいその気持ちは分からないでもない。
 次の間の襖を開けると、さっと黄色い光の帯が健太の顔にかかった。
「…ん…」
健太が身体にかかる毛布を引きずり、寝返りを打って明るさをよけた。裕作は、猫を抱いたまま電灯のあるほうへ、するりと素早く身を滑り込ませる。
 窓に面した文机に向かって、その上のノートパソコンを起動する。猫は裕作の胡座する膝の上で丸くなった。
 メールチェックをすると、新着が一件来ている。心ひそかに期待したのだが、それはあっさり裏切られ、久保田からのメールであった。
「…」――そうだよ、耕一郎も瞬も言いつけるようなことはしないよなー…。
 別に、健太が自分を何事にも頼っていると思っている訳ではない。
 当事者は煮詰まっているのかも知れないし、感情を露わにすることの見苦しさをこちらに感じさせたくないという配慮もあるだろうが、それ以上に、耕一郎も瞬も他人を頼みにしない性質だということを改めて思い知った感じがした。
 久保田からの用件は、思わず口許が笑うほど他愛のないものだった。最近裕作からの連絡がないことの無礼を、彼特有の口調そのまま、優しく責めている。そして、
“どうだ、世間が甘くないということを思い知っただろう。”
と括っていた。
 ――はい、全くです…。
 裕作は、近況とそれに関わって、博士号取得についていくつかの質問を載せた返信メールをつくった。
「はい、送信。月まで飛んでけー」

 迷ったが、結局今日のことを告げ口するのはやめておいた。

 オトナらしく、少しは組織のためを考えたのだが、久保田が知ればそのことを気に病むのは目に見えていたし、裕作自身、ふたりの…いや、五人の関係が早く修復されるほうへ賭ける気持ちが勝ったからである。
 裕作は自分の眼前まで猫を抱き上げた。半分眠りかかった猫は前足の付け根に大きな手を差し込まれて、だらーんと伸びたまま不機嫌そうな欠伸をする。
「お前みたいに、早く戻って来たらいいねえ」

 だが、彼の期待に反して、このままの状態がしばらく続くことになる。
 

To be continued.

 

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