AFTER “FASTEST DELIVERY”


1.

 科学の進歩がいくらめざましくても、風邪は相変わらず医学に制圧されずに体調不良をあらゆる生物にもたらしている。
 ミハエルは身体が特別弱いという訳でもなかったが、年に一度は必ず高熱を出して寝込んだ。
 両親が健在のときは、看病してくれたのはおそらく母だったろうが、それは残念ながら覚えていない。ミハエルの記憶にあるのはクランの母親とクランが、出動のかかった姉に代わって面倒を見てくれたことだ。そういうことは何度かあった。
「だいじょうぶか?」
来てすぐに小さなクランが、自分が寝ているベッドに覆い被さってそう訊いてくるのは毎度だった。
 彼女は、自分の母親がミハエルにすることを見て倣い、一生懸命世話を焼いてくれた。氷嚢を代えたり、水を飲ませてくれたり。――
「ミシェル、食べられるなら、これ…」
時にはすり下ろしたリンゴを口まで運んでくれたこともあった。自分を見つめることに集中し切った、彼女の心配そうな視線が少しくすぐったい。
「うん…」
リンゴは、熱で味覚のぼけた中にも甘くて美味しく感じられた。身体の消耗を補うように、喉を通ったらすぐに染みていってしまう。
「ありがとクラン…、でもあんまり近くにいるとうつっちゃうよ?」
今のような厭味を含んだ口調ではなくて。彼女に苦しい思いをさせたくなくて、心から言うのに、
「ミシェルのかぜならうつってもいいのだ」
とクランが笑って、そして本当にうつってしまうのもいつもだった。何故なら慣れない作業とミシェルへの気遣いに疲れて最後はミハエルのベッドの脇で寝てしまうからだ。
 目が覚めたのにあたりが暗いという違和感の中、すっかり水だけになった氷嚢を除けて起き上がると、姉が帰宅したらしくクランの母に礼を言っている声が聞こえた。
 あ、お姉ちゃん――。
 出迎えるべく、のろのろ、熱で疲弊した身体を起こして、何重にもかけられた毛布から抜け出す。既に両親を亡くしていた幼い自分にとっては、やはり一番好きなひとだった。
 と、すぐ近くに気配を感じて目を遣ると、椅子に座ってクランが眠っていた。カーテン越しの街灯の光が、彼女の青い髪に天使の輪を描く。
「クラン、ほんとにかぜひいちゃうってば」
「ん…」
うっすら目を開けたが、また寝入ってしまった。
 そっと彼女を守るように腕に沿って落ちるその髪の束を、ミハエルは手のひらに載せた。
 少しだけ背伸びして、甘い香りに息を詰める。
 そして、離れてやっと、呼吸を解放した。――クランはやはり、目を閉じたまま安らかな寝息を立てている。
 誰かに見つかった訳ではないのに、ミハエルは悪戯が見つかってしまったように、慌てて彼女から離れた。
 ドアを開けると、急に明るいところに出て目が眩む。途端、この暗がりの中での今までの出来事が嘘のように遠ざかった。まるでなかったことのように。
「おばさん、クランが――」
クランのママが、寝込んでしまった我が子に呆れて言った。

「あーあ、ほんとにこの子は、ミシェルのことになると頑張り過ぎてしまうのね」

 頑張り過ぎてしまう。

 おいおい、それは無理って言うんじゃないのか?、頑張りってのはオールマイティじゃないだろう。
 今なら、バッサリそう断じるだろうが、当時、クランが自分にしてくれたことはみな、とても嬉しかった。
 例えそれが愚かしいほど、結果を伴っていなくても。



「…」
また同じ夢を見た。
 幼い頃、すべてが幸せで良心に満ちていた頃のこと。
 午前三時に、看護用マシンが巡回モードで廊下を静音走行する。
 まだ入院して二日目だが、気づいたのは最初の夜だった。患者の睡眠に十分配慮した静かな動きだが、ミハエルの睡眠を必ず浅くした。
 そのノンレム睡眠とレム睡眠の狭間、浮き上がる意識は何故過去を呼び戻すのだろう。
「…」
こんなに長い間飛ばないことも撃たないことも、SMSに入ってから初めてだった。
 唯一軍人としてやっていることと言えば、遠方凝視訓練くらいのもの。それだって端から見れば、眼鏡を外してぼんやり遠くを眺めているようにしか見えないだろう。
 全く、普通の高校生みたいだと思う。
 まるで、骨折か何かありふれた理由で入院している普通の高校生の生活だった。
 しかし実際には、頭部を打って出血したため、脳や視力に異常が出ていないか、通常では考えられないレベルの精密検査を受けさせられた。この入院は、検査の結果を待ちながら、外傷の治療を受けるものだ。
 その扱いの手厚いことで、会社が自分を、使える武器として大切に思ってくれているのがよくわかった。まあ、有り難いことだ。
 病院での時間は常より遥かゆるやかに流れている。
 その平坦さは新鮮であるが、その穏やかさに慣れるのは嫌だった。しかし身体は正直に順応してゆく。
 この二日間、自分は全く女を欲しがっていない。
 生理的なものと思っていたあの強い欲求は、破壊衝動の続きか、そこからの逃避なのだということがはっきりした訳だ。
 たまに標的と目が合ってしまったときなど、相手が音を上げるほどそれに集中してしまうのはそのせいらしい。全く情けない。
 ハイテンションな自己存在の誇示。そして、罪悪を一瞬忘れさせてくれるあたたかな人肌。
 それらは全く対極にあるが、どちらも生を確認させてくれるものだ。しかし何にすがるというのか?、スコープの向こうに見えたものを消し飛ばしたくせに。
 たぶん、そうせざるを得ない自分が可哀想になって、慰められたいだけなのだ。
 本当は、誰かひとりの手によって日常に着陸させてもらうのが良いのだろう。さすがに、そのあたりのモラルを早々に失っている彼にもそれはわかる。
「ミシェル、来てやったぞ!」
小さな身体に元気を漲らせて、病室の入り口に小さな姿が現れる。紙袋を持ったクランがぴょん、とベッドに飛びついてきた。
「来てくれとは頼んでないぞ」
「ああ、そうだ。頼まれてもいないのにわざわざ来てやったのだ」
憎まれ口には怯まず、クランはベッドの脇にある椅子に座った。
 彼女は、見舞いだ、と言って、紙袋からりんごと、何故かおろし金を取り出す。
「じゃあ、剥いて」
「わかった」
小さな手に似つかわしくないアーミーナイフでリンゴを剥き始める。
 ぞりっ、ばりっ、と音がして分厚い皮が短く削がれていく。その危なっかしい幼い手つきを見守って、何度も思ったことを、また思う。
 ひとを幸福にするという神の存在を、今は全く信じていないが、もし創造主として存在するのなら、自分と彼女はうまくつくられてしまったのかも知れない。
 自分の遺伝子は巨人化に耐えられず、クランは純血の巨人だが、マイクローン化した姿はもとの姿の縮小ではなく、何故か子どもになってしまう。
 彼女のこの特異体質は、時間の停止を錯覚させる。自分だけが彼女を置き去りに成長せざるを得ないような。――変わるのは自分だけなのだと。
 それをいささか寂しいと感じているのを、きっとクランは気付こうともしていないだろう。彼女のコンプレックスであると同時に、それは対峙する自分のコンプレックスをも容赦なく浮き彫りにしてくるのだが。
 しかしおかげで彼女とは、心でしか繋がりようがない。
 そういう意味で、とてもよくできている。
「できた!」
物思いから引き戻されたミハエルの眼前では、ガラスの器にリンゴがすりおろされていた。
 なるほど、そのためのおろし金か。
 壊滅的に不器用な彼女でも、すりおろしたリンゴの仕上がりはなかなかだった。
 まあ、すりおろせば何でも一緒になるのはわかっているが、賢いミハエルは胸の中だけで苦笑する。
「ミシェル、ほら」
「え?」
少し得意そうに、スプーンにリンゴを載せて差し出す様子は、幼い日のままだった。
 しかし悲しい。やはり自分の視点だけが相当高くなってしまっている。
 彼女の一生懸命な視線にぶつかって、風邪をひいている訳じゃない、と正論を振りかざすのさえ萎えた。
「早く食べないと色が黒くなってしまうぞ?」
食べ物を口元に養ってもらうなんて、本来なら甘過ぎるシチュエーションになるはずなのだが。
 リンゴが黒くなるのはな、これに含まれる酵素が空気中の酸素と結びついて色素が、などとクランが照れ隠しに講釈し始めた隙に、ぱくりとスプーンに食いついた。
 決して甘くはならない。なることはない。
 それでも、誰かと過去を共有できるのは思っていた以上に悪くないと思った。夢の中で、ひとりきりの回想を繰り返すのではない。
 ――こうして過去を共有できる彼女というひとが、自分にまだいる。



「おい、クラン、時間だ」
カナリアが医務室のベッドで眠るクランを起こした。
「ああ、すまない――」
目を擦る。
 寝起きは良いほうだが、絶対量が減っている睡眠時間に身体は重さを増すばかりだった。脇腹のあたりに手を遣ると、寝る前より痩せているのがわかる。
 ミハエルを見舞ってから基地に戻ったクランは、ほんの束の間、医務室で寝かせてもらっていた。
 気合いがあれば何でもできる。宇宙に上下はない、気合いがあれば墜落しない。
 普段はだいたいこれで、本当に何でも乗り越えられてしまうクランも、論文の発表と隊員の勤務評価会議が重なったスケジュールに、ミハエルの見舞いが入り轟沈寸前だ。
 昨夜は病院でミハエルの意識が戻るのを見届けてから帰宅したが、そのまま一睡もせず、これから始まるその評価会議の資料づくりと理論武装に、文字通り明け暮れた。
 SMSは、民間企業である。公共性のある軍事サービスを提供しているが、所属する戦闘員はもちろん公務員ではない。
 彼らの報酬は月給で支払われる。その給与は、階級による職責給と呼ばれる固定給部分と、上司からの成績評価によって決まる成果分を合わせたもの。
 いわゆる賞与と呼ばれる一時金はない。戦争に身を投じる彼らには宵越しの金は不要だ。半年に一度大金が入るという約束より、生きている今なるべく多くもらったほうが良いのだ。
 成果分は四半期に一度、管理職たる隊長クラス社員の勤務評価会議によって見直しがかけられる。
 社員に対する評価は絶対評価ではなく相対評価で行われるので、その会議は平たく言うと予算の奪い合いだった。
 そのときだけ、軍隊らしくない論理――言い換えれば屁理屈――のぶつかり合いとなる。
 現在主契約を結んでいるフロンティア政府に対して隊がどれだけの貢献を果たしているか。それを上手くアピールしなければならない。
 資料は何とか形になったが、果たしてオズマをはじめとする剛の者相手に、この喧嘩を勝ち抜けるか、疲労困憊のクランは柄にもなく自分が心配になった。



 入院も四日目。
 昼間、明日退院だと医者から言われた。外傷もほぼ完治に近く、検査の結果がすべて出て、異常なしということだったらしい。
 夕方になった。
 クランはその日言い訳のメールも寄越さなかった。たぶん、過ぎてしまえば絶対に曲げられない事実に対して後付けの理由を話すことなど無意味だと思っているのだろう。
 そういうところは軍人らしく、ミハエルが考える彼女の美点でもあったが、何故か今日は何度も携帯を見てしまった。その訳には気付きたくない。
 だがその代わりに、面会時間が終了するギリギリに別の来訪者があった。
「明日退院の割に浮かない顔してるな」
アルトだった。
「よう。元気だったか?」
「入院してるやつに心配されたくない」
隊服姿のアルトは苦笑して椅子に座ると、持ってきた紙袋からリンゴを取り出した。
「それは何だ?」
「リンゴ」
「そりゃ見ればわかる。俺はいいよ。シェリルに持っていけ、まだ入院してるんだろ?」
「ああ。でもこれは大尉殿からの上官命令だから」
クラン大尉だ。クランにせよアルトにせよ、ヘンなところで律儀で少し面白い。
「――アルトお前、シェリルに会ったか?」
ミハエルにしてみれば、シェリルに借りがある気分だった。
 彼が気絶してしまった後、コントロールを失った機体をデフォールド後に持ち堪えさせたのは彼女らしい。ルカが教えてくれていた。
 ガリア4でアルトの機体が消息不明になったときの、傷ついた顔を思い出す。そして、女の意地?、と訊いた自分が、更に追い込んだことも。――高飛車な態度に心の襞を隠しているだけで、本当は誰より感じやすいのに。
「ん、見舞いに行ったよ。ランカと」
「へーえ…ランカちゃんと、か」
その繊細さが、陸ではとんでもなく愚鈍なこの男に早く通じれば良いが。お前は俺の爪の垢を一ミクロンでいいから飲め。
 アルトもクランと同じようにミリタリーナイフでリンゴの皮を剥くが、比較にならない器用さで、皮を途切れさせずに一個剥き終わる。
 ああ、こいつにはこういう器用さはあるのに。
 美しい六等分の一切れを、ミハエルは口に入れた。クランのおかげで、高価な露地栽培ものを毎日食べている。
「そういえば、隊長に、新しいスーツとヘルメットは前と同じサイズで良いか訊いて来い、って言われた」
アルトもリンゴを一切れ食べる。
「?」
「お前が今まで着てたの、LAIに回収されちまったからさ」
「え」
激しい動揺に突然襲われる。心臓に穴でもあいたかと思うほど、全身が大きく脈打つ。
「私物は戻るらしいけど?」
何か隠してたか?、と何も知らない友人は笑った。
「いや、何も」
ミハエルは、アルトのこの鈍さに今だけは感謝した。

To be continued.

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