A WIND AFTER ALL


2.

 右腕の尺骨骨折だった。
 急に上がってきた熱に意識が遠のき、
「お前、やっぱり痛かったんだろう!!、ったく、これで全部合点がいった気がする」
そう言われたのまでは覚えている。怒られた自覚はあったが、それが事実であったかの記憶は手早く読んだ物語の内容のように覚束ない。まるで霞の向こうのような。
 もしかすると、自分は忘れたがっているのかも知れない。
 ずっと胸に秘めてきた決意を、口にしてしまったことを。
 それを知ったミハエルはどう思っただろう。
「それで会いに行く踏ん切りがつかないで、せっかく骨が繋がったっていうのに、ここにぐずぐず滞留してるって訳ね」
クランは会社のラウンジカウンターで肘をついていた。カウンターの内側ではボビーが割れた食器を取り除き、新しいものと入れ替えている。
 ボビーの言葉には容赦がなく、眉間に皺を寄せてみるがその通りで反論はできない。
「言っちゃったもんは仕方ないでしょ。もう何日も会ってないんだから、一緒にランチしましょーって行ってらっしゃいな」
「ランチ?」
どこで?、一体何が食べられるというのだ、すべてが臨時政府の統制下にあるというのに。
「ん、もうっ。理由なんてどうだっていいじゃない、そこまで行ったら考えちゃダメ」
 考えちゃダメ。
 考えない方法など、言ったボビー本人だって実践したことなどないだろう。恨めし顔のクランは、それでも教えに則りミハエルを捜すことにした。

 ミハエルは半壊した社屋の前にいた。
 着物姿の男性を、オズマと一緒に見送っているようだった。崩れかけた門の陰からその様子を眺める。
 運転手付きの高級車で来たらしいその男は、運転手にトランクを開けさせ、ミハエルがそこへ抱えていた箱を入れた。
 全く素性は窺えないが、セレブと呼ばれる種類の人間のようだとは見当がついた。
 三人でいくらか言葉を交わした後、着物の男が後部座席に乗り込み車は発進した。瓦礫の中やっとつくった細い道を、その光景に不似合いな黒光りの車が遠ざかる。
「おい」
男の正体を考えていると、振り向いたミハエルに声をかけられた。手に小さな紙袋を持っている。
「あ」
見つかってしまった。
「捜す手間省けた。学校に行ってみようぜ」
…私に選択権はないのか?
 断るつもりなど毛頭ないくせに、決めつけられたのが気に入らないような気がしたりする。少し膨れてみたが、ミハエルはオズマに断りを入れるとさっさと歩き始めた。

 美星学園はアイランド1の中心にあって、無傷とはいかなかったが辛うじて形を保っていた。
「さすがに窓はほとんど破れてるな」
だが、他の船団にあるLAI支社から届く建築資材が未だ十分ではなく、星の大地を開発するまでに至らない中、この程度の損傷で済んでいるここは貴重な場所となっていた。
 校庭では炊き出しが行われており、体育館は物資の集配所として機能しているようだ。
 かなりの数のひとが集まり、働いたり休んだり、思い思いに過ごしている姿が見える。やはり人間は、生きるのにじゅうぶんな施設が整っていたとしても、いつまでも地下に籠もってはいられないのだろう。
 日の――しかも人工ではない太陽形恒星の発する光と熱は、もともとの星の上に重なってしまったフロンティアにも平等に降り注いでいた。
 教室もほとんどボランティアや政府系事業での使用に提供されているらしく、校舎内もまんべんなくひとがいる様子だったが、さすがに屋上カタパルトはそこに続く階段室から開放していないようだ。
 施錠されているドアノブを回し、何故かミハエルが疲労を隠し切れなかったような溜息をつく。
「…?、どうした?」
「いや、何でも」
ごまかされた。だが彼は何事もなかったかのように、こっそり複製していたという鍵で開ける。
「何故お前鍵を?」
「まあまあ。カタいこと言わない」
屋上に続く薄暗い階段を昇りドアを開けると、すぐさま真っ直ぐ過ぎる光がこちらを射抜いてくる。あるのは解放感そのものだった。
「久しぶりだな――」
カタパルトを走る風は、すっかり以前とは変わってしまっていた。それを確認するようにミハエルが片手を宙に伸ばす。
 すっかり天蓋が外れてしまった空から、誰にも捕らえられることのない風が吹き込む。二度と同じ風は吹かない。
 自分たちも、もう無邪気な頃には戻れないのかも知れなかった。
 滑走路の向こうには瓦礫、更にその向こうには未開拓な土地が黒い濃い緑を果てしなく茂らせている。
 フェンスの縁に座ると、ミハエルもその隣に来て座った。
「やっぱり、いないか」
おもむろに、彼は持っていた紙袋の中身を取り出す。
「それは?」
「俺がアルトの荷物から発見したシェリルのアルバムディスクと、再生プレーヤー。さっきのひとに頼んで、俺が預かることにしてもらった」
アルバムのケースには、シェリルのサインが金色のポスターカラーで書いてある。そしてプレーヤーのほうも明らかにアルトの趣味ではなさそうな、フクシアピンクのカラーリングで、真っ赤なコードのイヤホンがついていた。決定的なことには、シェリルのアイコンのシールが貼ってある。
「アルトのものじゃあないだろう、これは」
「もらったんだろ。というか押しつけられたのさ、たぶん。目に浮かぶなァ」
SMSがシェリルのボディガード兼監視をしていた期間にこのアルバムの発売の日が来て、その日の当番がアルトだった、とミハエルは訳知り顔で言った。
「その、さっきのひとというのは誰だったんだ?」
「ああ。歌舞伎役者でアルトの兄弟子って話。アルトの荷物を引き取りに来たんだ」
早乙女アルトは、バジュラとの最終衝突後SMSの規定で戦時の行方不明者として扱われていたが、その後一週間連絡を断ったため契約解除――要するに解雇された。
 そして今でも連絡は途絶えている。
「それで何故お前がこれを?」
「あー…」
尋ねられて面食らったような顔をしたが、ミハエルはジャケットにあるシェリルのポートレートを見つめて言った。
 そこにあるのは、惜しげもなく晒す、文句のつけようのない象牙のような肌。こちらを射抜く、冷たい宝石のような瞳。思えば、美しすぎるという点で似たもの同士だったのかも知れなかった。
「好きな女の子からもらったものなら、あいつが取り返しに来るんじゃないかと思って」
抑えられない想いの渦のただ中に、抗いもせず三人がいたことはクランも知っていた。
 しかし誰も、その三つの恋の結末を決定的に知ることはなかった。できたのは、すべてが終わった後のランカの表情から読み取るくらいだ。おそらくミハエルもその程度だろう。
「らしくないのはわかってる」
そうは言うが、嫌そうではなかった。おまじないのような効果の全く期待できない行為。クランはミハエルの行動の合理性のなさに何故か少し安心していた。
 おもむろに彼は、ディスクをプレーヤーにセットして真っ赤なイヤホンを耳にした。聞こえるのを確認して、その片方を寄越してきた。
「えっ」
「曲が聞こえる」
 それはわかる。
 だが、彼があまりにも無邪気ですっかり飲まれてしまった。拒否のポーズをとるのも忘れ、クランも片耳にのイヤホンをする。
 何だこれは。いいのか。
 不安に思って横顔を見上げると、少し目を見開いて言葉を促すような表情。ここしばらく見たことのない、あどけなくさえある顔で、ぎゅう、とクランは胸が潰れる思いだ。
 どうしてそんな顔をするのだ。
 轟く思考にピアノの前奏が美しく流れ込む。それは、シングルカットされていない曲だが、クランの好きな曲だった。
「――この曲、何て曲?」
「『ふなのり』」
へえよく知ってるなぁ、と言ってまた彼は笑う。
 あたたかな日の光に金色の髪が透ける。色の薄い睫毛を明るく瞬かせて。それはもう眩しすぎた。
 今更なのだ。
 ミハエルに生きていて欲しいと思って、彼を守るということに少しでも繋がるのであればと思ってSMSに志願したのは本当のことだ。どんなにか汚れることがわかっていても、その前に戦うことをしたくないと思ったことはない。
 だが一方で、自分が彼とそうありたいと密やかに夢見ていたのは、学園の放課後に、こうしてイヤホンを片方ずつ耳にして同じ音楽を聴くような、恋人になればありふれるだろう些細なことだった。
 そういう間柄となることは自分に許さずにきたのに、ささやかな幸福への願いは捨てられなかった。
 そして今も抱えたままなのだということを、思い知らされた。
 どんなこともひとつの理由に収束してしまうことも。
「ミシェル」
ピアノに、シェリルの声が重なった。
 選択肢のない恋を受け入れる歌詞が、伸びやかな声が、迂闊にも優しく背中を押してくれる。
 青空に突き抜ける。
 あの美しく傲慢で計算高く見えた彼女にすら捨てられない想いがあったのだろうか。そしてそれを打ち明けたことは――打ち明ける機会は――?
「私はお前が好きだ」
放った言葉に迷いはなかった。だが、顔をやはり上げていられなくて、視線は彼の膝のプレイヤーがディスクを回すのへ落ちる。胸を突き破るのではないかというくらい心臓が撥ねていた。
「えーっと」
ひやーっとした空気が膝に置いた手すら震わせた。視界から色が失われ、ピアノの音は硬く耳を素通りする。
 ああ、困らせてしまったのだな、やはり。そうとだけわかって、逃げ出したいのに身体は固まった。せめて涙が出たらいいのに。
 だが、
「ごめん」
しかし少し持ち上げられるような強さで肩を抱かれる。
「えっ?」
「俺は、もう言ったつもりになってたし、聞いたつもりになっていたんだが」
沈みかけた心に降ってきた声は、ひどく柔らかでのんびりしていた。
 更に右手が差し出され、戸惑っているうちに、座っていたはずの身体が半ば浮いて全身を捕らえられる。
「クラン」
声の発生源が急に近づいた。
「ごめん、ずっと言えなくて――」
この後続けて告げられた言葉はやっと聞きとれるほど小さかったが、今日これまでの彼の表情たちを点から線に変えるにはじゅうぶんだった。
 それでも、
「ほんとう…?」
尋ねてしまうのは、もう欲がついてしまったからだろう。情けない。やっと体を彼に委ねる。
 ミハエルが喘ぐように苦しそうな息遣いで頷き、笑うのがわかった。
 世界に色が戻る。空は青く、雲は白く、灰色の土地の向こうはやはりどこまでも緑だ。
「ミシェル」
呼ぶと、彼は腕の力を強めて言ってくれた。
「俺は、お前が生きていてくれて、本当に嬉しいよ」
 

Fin.

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