ギラギラサマー(^ω^)ノ 〜仇に恋せよ〜


2.

 雨がふたりを外界から遮断する。
 こちらの空は真っ黒な雲が立ちこめて泣いているというのに、向こう岸の上空は雲が割れて、光が斜めに切れ込んでいた。全く面白くない。
 ミハエルはおそらく、このスコールのことを知っていたのだろう。いきなり降られて悲鳴を上げた自分に対して、彼は木の陰に入るように静かに言っただけだった。
 シェリルは隣に佇む彼を見上げた。フェニックスの細長い葉に透けて、空を眺めるともなく眺める横顔があった。
 船の中の天候は――特に今自分たちがいるリゾート向けの艦は――あらかじめ、アトラクションよろしくプログラミングされているものだ。それはシェリルももちろん知っていた。
 ただ、それが吊り橋効果に似た甘やかな緊張をつくり出すとは、知らなかったが。幹に身体を寄せ合うので、どうしても腕が触れる。
「そうだ。さっき、飛行機が海面すれすれを飛ぶところが見えたの。とても綺麗だったわ」
相手の気をひくよりは、自分の関心を肘のほうから逸らすため、シェリルは敢えて言った。
「ああ、あれね。アマチュア学生のスタントだけど。気に入ってくれたなら嬉しいよ」
「?」
「あの操縦、俺だったから」
にこ、と笑った口から少し、真っ白い歯が見える。
 口は災いの元。
 フロンティアでの初ライブの日のことを、彼は覚えているらしい。謝るつもりはないが、見直した、くらいは言っても良いかも知れない。
 言おうとして息を吸い込んだとき。
 あたりの影が、強い光に吹き飛ばされた。次の瞬間、マックス大音量で空が割れる。さすがにシェリルも肩を一瞬震わせた。
 雷だ。それを合図に、余計雨は勢いを増した。
「大丈夫かい?、怖くない?」
「大丈夫よ、子供じゃあるまい…し――」
くしゅん。
 と、女王様は驚くほど可愛らしいくしゃみをした。
「大変だ」
髪と肩が濡れたからだろう。ミハエルは自分の誘導が少し遅れたのを悔やんだが、今はまず、風邪をひかせないようにするだけだ。
 ミハエルは着ていたジャケットを脱いで、彼女の肩をそれで覆う。
「君がタイプじゃないと思っている軽薄な男のジャケットで良ければどうぞ」
「…ミハエル、あなた、根に持つタイプなのね」
さきほどといい、今といい…。
「記憶力が良いと言って欲しいな。根に持つなんて、俺はそんな、ストレスの溜まるようなことはしないよ」
はっはっは。
 負ける気はしないが、食えない相手だというのは間違いないらしい。
 しかし実際言葉通りなのだろう。恨みがましい気持ちからではなく、単純にこちらの反応を楽しむための発言のようで、表情はにこやかだった。
 シェリルの肩が、それまでそれを着ていた者の温もりに包まれる。すっ、と清潔な整髪料の香りがした。
「あと。良かったらミシェルって呼んでくれる?」
「…」
さらりと距離を縮められた。物理的にではない。対人距離は心地よいまま、何故か心だけが近寄ってきた気がした。――身体で寄られるより、存在が強調される。
 仰ぎ見ると、Tシャツの首元に、銀色のボールチェーンが這っていた。軍人がつけているドッグタグを、民間軍事プロバイダーの社員も一丁前につけているらしい。
 いや。一丁前とは、失礼な表現か。彼らが就いているのが命がけの仕事であるという事実は、出資元がどこかは関係ないだろう。
 両肩にはホルスターのベルトが食い込み、左脇には、明らかに小道具ではないベレッタが吊られている。道具の曇り具合から、相当使い込んであるのが素人のシェリルにもわかった。
 彼は職業軍人だ。こんな、雨が突然降ってきたくらいでは動じないのも当たり前だ。彼らが避けるのは弾の雨なのだ。
「――まあ、それでも、他人からの評価は気にするほうかな」
「何の話?」
「さっきの、根に持つってハナシだよ。でもそれは君もだろ」
「そうね。そうじゃないと、何事も向上しないわ」
「同感だ。てことは、君も、天才じゃないんだな」
言ってから、ミハエルは、失礼、と続けた。しかしシェリルは肩をすくめるだけだった。同じ努力をする者だけの共感。
「そうよ。ふたりだけの秘密ね」
秘密。
 悔しくて誰にも明かせない秘密。一番知って欲しいひとに話すつもりのないこと。それを、不意に共有してしまった。シンパシーを感じた瞬間だったが、いつもなら気づいても口に出さないようなことだった。
 君も、などと。
 その秘密を包んだ雨のカーテンが、対岸の雲間が広がったことで取り払われていく。やがて再び射した夏の光が、妖精の髪の毛に輪をつくった。
「さて。雨も止んだし。もう戻ろう」
「…」
まだ、アルトへの態度を決めていない。
 芝居とは言え、誰かの――それがマオであるか、ランカであるかは関係ない、とにかく誰かの気持ちを受け止めた男に、そうすることの許されない自分は、どういう態度をとれば良いのか。
 その疑問への答えがわからないだけではなく、そういうことを思い悩む事態そのものが初めてでわからない。
 いきなり、足下の砂が揺らぐような気がした。
「アルトだって仕事さ。確かに君を放っておいたのは感心しないが」
急に黙ってしまったシェリルに歩調を合わせてミハエルは言ってみたが、それが慰めにも何にもならないことはわかっている。
「キスなんて」
思わず口に出さずにいられないのが、「なんて」と思っていない証拠であると彼女は気付いていないのだろうか。
 …そんな余裕は、ない、かな?
 自分がここまで彼女の心を見透かしていることにも気づいていないだろう。
「うーん、そのシーンが云々って話には、今俺触れていないでしょ?」
シェリルは怒ったように顔を赤くして、口を真一文字に結ぶと真横を向いた。
 可愛いな。
 以前から、シェリルの小悪魔的な態度が、照れ隠しと寂しさの裏返しであると予想はしていたが、それが確信に変わる。
「別にいいじゃない。だからさ、仕事だってば。俺が君の護衛をしているのと同じだよ」
「そうね。だから、関係ないわよ」
「あー、まあ…君に関係なくても、アルトやランカちゃんには関係あるかもね?」
「何が言いたいの?」
シェリルの声がワントーン沈んだ。導火線に火を点けつつある。しかしミハエルにはやめるつもりはなかった。
 暴いてやる。
「キスが何かのキッカケになることはあると思うけど?」
「何かの?、何の?」
「さあ?」
知っているくせに。――シェリルの中に、見かけや態度からだけではわかりづらい透明な部分があるのはわかったが、だからと言って、無知であるとは思わなかった。
 距離がゼロになる、あの特別な慕わしさを。
 知っているだろ?
「妄想逞しいのね。その点、女はシビアよ。何も始まらないわ」
「そう思っているのが君だけじゃなきゃ良いね」
「どういうことよ」
その質問にミハエルは答えず、不敵な笑みを口元に浮かべた。実際、今の彼は彼女を全く恐れていない。
「どうしてさっき、俺をアルトと間違えた?、アルトが今出番だってのは、知っていたはずだろ?」
 アルトに、来て欲しいと思っていたからだ。自分を捜して、迎えに来て欲しかったからだ。彼を仕事で縛って安心していたはずなのに、それが崩れて不安だったからだ。
 気づかされる。
 シェリルの瞳に浮かぶ、羞恥と怒りの入り交じった色。だから君は逃げ出している。そして戻りたくもない。
 ともすれば、奔放な銀河の妖精のイメージに疵がついてしまうほど、幼く可愛く可憐なその理由。
 愛らしい。
「男の妄想のほうが逞しいなんて一概に決めちゃいけない。現に、全く妄想をしない男がここにいる」
「嘘」
嘘じゃない。
「妄想は希望だよ」
それは、その気持ちが、異性に対する少しほの暗い欲望だったときにつけられる名前だ。
「俺には恋愛で相手に望むことはない。望まなくても女の子はみんな、俺の貧困な想像力を越えて、いつも魅力的に振る舞ってくれる。だから俺には必要がない」
芝居がかった台詞だが、そこに芝居の介在はない。
「君もね」
「え?」
「君も、思っていたよりずっと、可愛い」
いくら見破ろうと目をすがめても、やはりそこに芝居の介在はない。本音の熱っぽさだけを、冷たいレンズの向こうに宿して。
「――試してみる?」
「どっちを…?」
キスは何かの契機となりうるか。それとも自分の現実主義を?
「してみたら、両方確認できると思うけど」
言われて、悪い気はしなかった。仕事で、もっと見た目が悪い男とキスしたこともあるし、初めての相手はもう忘れた。――少なくとも、今日のアルトではない。
 それを残念だと思うのは、やはり自分をランカと比較しているからか。彼女など比べものにするべくもなく、自分のほうが何もかもを持っているのに。
 いや。
 接吻がスタートになることを知っているからだ。――先の、アルトの吃驚顔。
 アルトは、あの気まぐれなキスに心があると一瞬信じたのだ。
「そういうこと言うから軽薄だって言われるのよ」
「だろうね。自覚はある」



「おつかれさまです、アルト先輩」
役者と監督を含むスタッフを乗せたボートが着いた桟橋ではルカがアルトを出迎えていた。
「あれ?、このボートにシェリルさん乗ってないんですか?」
「ああ。沖に出る前にミシェルに護衛を代わってもらった」
「ええっ?、ミシェル先輩をシェリルさんのところに行かせたんですか?、ひとりで?」
アルトはルカのその狼狽ぶりがわからず、何となく自分が職務を疎かにしているのを後輩なりに責めているのかと思ったりしたが、それにしても様子がおかしい。
「ルカ?、どうか…したか?」
「あ、いえ、あのっ、何でもないです。ほんとに何でも――」
 あったとしても、言えないよー…。
 こういう仕事で、護衛対象が女性のときは、隊長が絶対ミシェル先輩を当てない、なんて。
 それは、フェミニズムの塊のような性格だけが理由ではない。
 どうもミハエル・ブランというひとには、生物学上の特徴として異性を引きつける力が備わっているらしいからだ。
らしい、というのは、さすがのルカにも先輩のメディカルチェックの結果を知る趣味がなく知らないでいるだけで、普段のミハエルの生活は科学的根拠を通り越して、それを証明しているようなものだった。
 そういう方面にやたら詳しい先輩と、ひどく疎すぎる先輩の中間で、おそらくこの中では健全で正常と言える思春期を迎えているだろうルカはひとり真っ青になった。
 そこで、コテージから助監督が走ってきた。
「シンの吹き替えしてるパイロットの彼がどこにいるか知らないか?」
ミハエルのことである。
「居場所はわかりませんけど、すぐに連絡はつけられますよ」
「ああ、良かった…。じゃあ、すぐ呼んでくれないか。監督が急に、この空の色が欲しいなんて言い出してね。またさっきと同じようにバルキリーを飛ばしてもらいたいんだよ」
「わかりました!」
 ――助かった…(既にどうかなってたりしたら、もう助かったも何もないけど――)。
「今呼びますね、少々お待ちください」
愛想よく言ったルカの頭に、ぽん、と心地よい重みが来た。
「呼ばなくていいぞ、ルカ」
ジャケットを脱いだTシャツのミハエルがこちらを見下ろしていた。そして助監督に向き直って言う。
「追加費用をいただけるのであれば、いくらでも飛ばしますけど?」
「わかった、監督に伝えるよ」
その後費用交渉が成立したが、ミハエルはルカに機体の準備を頼み、彼自身はしばらくシェリルの隣に立ったままだった。
 やがてアルトの姿が楽屋代わりのコテージから出てくるのを認めると、やっとシェリルへ言った。
「じゃあ、アルトのヤツに君を返すよ」
何でも先回りして気遣ってくれ、良い意味で「ああ言えばこう言う」会話のできるミハエルから、自分勝手で話のつまらないアルトにバトンタッチだ。
 単純に惜しい気がして、シェリルはひとり心の中で慌てる。
「ミシェル」
呼ぶと、少し目を見開いてから、それを細め、実に優しそうな表情になる。素人のキメ顔ほど見ていられないものはないが、彼はそうではない。おそらく本人もそれを知っていてやっている。
 そして言った。
「ありがとう」
「何故?」
「ミシェルって、呼んでくれたから」
そして、この会話の効き目も知っているのだろう。きっと普通の女の子は、これでもう撃墜されている。
「アナタ、そういうこと言うから――」
「軽薄で結構。君の嫌いなタイプです」
「そう?、その割に楽しかったわ」
着ていたジャケットを脱いで渡す。
「それは良かった」
ミハエルは近寄ってきたアルトの肩を叩いて、その場から遠ざかった。
 返してくれたジャケットには、シェリルの香りが移っていた。官能的で濃厚な香水の香りだった。
 そんなに大人ぶらなくてもいいのに。
 思ったが、ミハエルは、スタントの準備でEXギアに着替えるまでそれを愉しんだ。



 マネージャーのグレイスは、別件でこの現場を離れてしまったらしい。お迎えにヘリを手配したとの連絡が来た。
 そのヘリが来るまで、シェリルは、夕闇迫る海の上を飛ぶメサイアを眺めた。湿気は相変わらずだが、あらゆるものを焦がす日差しはすっかり傾き、あたりはゆるく風が吹き始める。
 重々しい空気がほんの少し移動する。それだけでかなり涼しい気がした。
 禍々しいほどの太陽の赤から、夜の濃い紫へ変化するグラデーションの中、真っ白い翼をその色に染めて、メサイアが水平線と平行にゆっくり飛んでいる。
 翼端のライトの明滅が、すべて色つきの景色の中で、唯一真っ白い。美しかった。
 あれはミハエルの操縦だ。今日は結局言えなかったが、いつか機会があったら褒めてやってもいい。

 ――何て、ね。
 あら、言い出しておいて怖じ気づいたわけ?
 ああ。格好悪いけど、そうだね。俺、臆病だから。

 嘘だ。

 妄想は、希望だよ。
 彼の言う通り、何の望みもないなら、自分とキスできたはずだろうとシェリルは思った。

 いつか、私が暴いてやるわよ。

Fin.

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